ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

一年ニートをした僕がニートとして感じた「生きづらさ」について

なぜ再度働こうと思ったのか

僕は、去年の12月から鬱になり休職をした。休職期間である三ヶ月を過ぎても病状はよくならなかった為、そのまま辞職をした。

働きたくない、働きたくない。僕はその一心で日々怠惰を貪っていたのである。

結論から言って、長きに渡るニート期間を経ても未だ労働意欲は出ていない。

働きたくないという気持ちは少しずつ薄れては来たが、働かないでいいのなら働きたくはない。当然だ。

ではなぜ、僕はそんな状態のまま就職活動を始めようと思い立ったのか。

きっかけは前の会社の先輩が誘ってくれたことだった。

正直そんなに乗り気ではなかったのだが、お誘いを無碍にするのもアレなので話を聞いてみることにした。

業務内容は、前職と同じシステムエンジニアPHPを用いた広告関連の事業をしているらしい。

ニートが就職するとなると正直に言って給与なんか選り好みしている場合ではないのだけれども、今僕は働かずとも傷病手当を貰えている状態。ダメ元で前職と同等か上回る給与は出せるか聞いてみた。

多分出るらしい。

その他気になる点、例えば年間休日や有給消化率、残業の有無やみなし残業制度の有無、より具体的な業務内容なども聞いてみた。どこかに落とし穴があるんじゃないかと粗探しをしたのだが、最終的には少なくとも前職よりは良いところのように思えたし前職の経験も十分活かせそうだった。

ちなみに、今週中にその会社の役員と面談をする約束をし、まだそこに入社するかどうかは決まっていない状態である。

僕としては、意外だったのだ。一年に渡るニート生活を経た僕でも、そんな高待遇で雇ってくれる会社があるのか。自身の価値を疑問に思ったので、ものはためしと各転職サイトに職務経歴書をアップロードしてみた。

結果、かなりオファーがくる。

これってもしかして僕それなりに市場価値あるんじゃねぇ?という思いが芽生え始め、まあその先輩の会社に決まらずとも雇ってくれる会社はありそうだと非常に安心した。

それに加え、現在の経済状況を説明しておこう。今の月の収入は傷病手当だけである。 僕の場合は17万ほど月々振り込まれる。

2万は健康保険料に消え、昨年の収入準拠の住民税なんかは二ヶ月ごとに5万程度もっていく。家賃云々で毎月6〜8万程取られ、食費に三万程かかる。

正直かなりキツイ。

こんなような状態なので、金銭的に心配事ばかりの毎日を送っている。このままでは、鬱を療養しているにもかかわらずむしろ心配事ばかりで症状が悪化していくのではないかという思いもあって、そろそろ働き始めようと考えたわけである。

ニートのつらみ

ニート時代、やはり働いた方がいいのかな、働いていない人はこの社会では生きられないのかな、と思うことが多々あった。

ニートになったことのない人やこれからニートになる人のために、僕がニートで苦労したことを記しておきたい。

  • 引越し

引越しをするとき、ニートだった故保証会社や保証人のところで非常に苦労した。付き合っている彼女の名義で借りてもらおうかとも思ったが他人に迷惑をかけるのはたとえニートだとしても気がひける。保証会社からは「どうやって支払いしていくつもりですか?」と容赦のない質問をされ、不動産会社では「コイツニートかよ」というような表情をされる。

彼女が不動産会社に付き添ってくれたけれども、職業欄に「無職」と書いているところをみられるのは精神的になかなかクるものがあった。

なんとか審査のゆるい保証会社を不動産会社が見つけてくれたおかげで、賃貸契約を結ぶことができた。しかし中々ニートを受け入れてくれるところはないのだ。無職は住所さえ手に入れづらい。一度ニートになってしまったら、なかなか住所も手に入れられず再就職も厳しいものとなる。

  • 親族への心証

兄弟には「鬱になって仕事辞めました」と早めに伝えたが、いかんせん親には言いづらい。というか今も言っていない。

お父さんお母さん、僕実はニートなの。

この一言を実際親に言う想像をしてみてほしい。

親の悲しむ顔が眼に浮かぶ

こんな悲しい世界があっていいのだろうか、僕は仕事を辞めたというだけでこんな悲しい世界を作り上げてしまったのだろうか。ニートという現状について、こういうことを考える時最も辛い気持ちになる。

そもそも親兄弟に合わせる顔がない。無駄に心配もかけたくないし、鬱だということも伝えたくない。

ちなみに親戚の集まりが来月にあるらしいが、どうしようか悩んでいる。どんな顔をして行けばいいのか、そもそも出席するかどうかも考えねばならない。そのタイミングで親にも無職であることを伝えようかな。親戚の前で恥をかかせないようコッソリと伝えようかな。

そんな気苦労もニート特有なものだと思う。

  • 彼女への心証

今付き合っている彼女とは将来的に結婚をするつもりだ。しかし彼女はまだ学生なのでニートというもののクズさをよくわかっていない節がある。彼女が社会に出てしまったら、ニートだということの罪に気付きもしかして僕は捨てられるんじゃないかという不安がある。

まだ結婚の約束も出来ていないから大げさな話ではあるのだが、しかし実際結婚を申し込むとなるとやはり定職の有無は自分自身のプライドに関わる問題だ。

無職というのは聞こえも悪いし不要な軋轢を生む危険がある。彼女が働き始めたら一体どうなるのかという不安はとても大きい。

  • 友人らの心配

ありがたいことに数人の友人から「お前大丈夫か?」と声をかけてもらえている。

「全然大丈夫だよ」と言いたいのだがなかなか嘘はつけない。「なんとかやってるよ」というのが精一杯なところである。

大丈夫、と言うことはまだ多少キツイなあ。大丈夫じゃないからこんな状況に陥っているのだから。

しかしまあそんな彼らに対しても心配をかけたくないという思いがある。こんなクソみたいなニートに気を遣ってくれるのだからやはり友人というものは大切にしていきたい。

  • 世間体

ニートというのはやはり、世間の嫌われ者であることは間違いない。ニートをやっている、というと「あいつはダメなやつだ」という見えないレッテルを貼られることになる。

これは何が起きたというわけでもなく日々常々感じる「視線」のようなものであって、誰かに何か直接言われるわけでもないのに僕に重くのしかかってくる。

自意識過剰なのかもしれないが、保険頼りに生きていて社会に迷惑をかけているという自覚がある。僕なんて生産性のない人間だ。生産しているのは怠惰な生活とウンコだけ。下水にウンコを流すことくらいが僕と社会の関わりで、被害者面するのもアレだが社会から隔絶されているような気がする。

  • 住民税と保険料

住民税は前年の収入に準拠する。働いていた頃の収入をもとに計算されるので、無職になったとすると非常に重い負担になる。

保険も同様だ。僕の場合は前職の保険を任意継続しているが、毎月2万程とられる。

先述したが月の収入は17万の手当てのみとなるのでこれはかなりキツイ。今からニートになろうという人は少なくとも二、三ヶ月分の生活費は確保しておくべきだ。傷病手当だけではかなりキツイ生活を強いられる。

  • 諸々の手続き

傷病手当を受け取ろうという場合、失業保険の延期、厚生年金から国民年金への切り替え、健康保険の任意継続など諸々の複雑な手続きが必要となる。

鬱病の患者にこんなことまでやらせるのか、というほど面倒な作業だ。ニートになるのも簡単ではない。鬱病で起き上がるのも辛いなかハローワークや年金事務所まで赴いて何度も何度も氏名住所を書かなければならない。

やはり風当たりが厳しい。

手続きする元気もない中、彼女の協力があってなんとか重い腰を上げることができた。正直この子がいなかったら全てが面倒になって自分で命を絶っていたと思う。

ニートを今振り返る

まだ絶賛ニート中の僕ではあるが、一応就職活動を始めようと考えている今、ニート生活を振り返ってみる。

正直に言って、ニートは楽だ。働かないでいいし、毎日何時に起きるかなんて気にもしないで生活できる。なにかやらないといけないこともないし、気持ちの面ではそれなりの余裕が得られる。

しかしながらやはり、ニートならではの苦悩というものがあった。

これは人生において中々経験できることではないし、いい充電期間だったように思う。

まだ鬱が完治したとは言えないが、この一年は僕にとって非常に実りのある一年であった。働いていた時は仕事が全て、仕事の悩みが常に絶えない状態であった。今では一旦仕事というものに対して距離を置いたことで、一定の客観性を持って労働というものについて考えられるようになったと思う。

人生を消耗してまで働くことはない。そんな仕事なら辞めてしまえばいい。辞めるときには次を決めておけば良い。

仕事だけに一生を費やすのはバカらしい。仕事にやりがいを感じられればいいが、それよりもプライベートを何より大切にすべきだと今では心底思えている。

職歴に空白期間ができてしまうとか、現役でなくなってしまうとか、そんなことって意外となんとかなるもんだと思う。大したことじゃあない。

そう思えるようになったということが何よりもこの一年で得られた最も大きな財産だ。

ニートは楽だが、ニートはキツイ。仕事を辞めるということはかなりカロリーを使う大変なことだと思うけれど、しかしニートをやってこそ見えてくるものはあると思う。オススメはしないけれども、一度ニートを経験することで自分と向き合うチャンスを得られるのは保証する。

仕事と人生に疲れた人は是非、傷病手当や各種制度を利用して一旦休憩の期間を設けてみてほしい。

それでもやはり人生に希望が見えない時は、それから考えればいい。

今になって僕が思う本当のことは、そういうことだ。

iPhone8の初期不良があったけどapple及び代理店であるカメラのキタムラの対応には何一つ問題がなかったよという話

経緯

10/8にiPhone8を購入。購入店は最寄りのauショップ

10/9にiPhone8の初期不良に気付く。症状は一切バイブレーションがしないというもの。擬似ホームボタンのクリックは動くが、マナーモード変更時やLINEなどアプリによる通知の際のバイブレーションが起きない状態。

10/10午前中にappleサポートへ電話相談。遠隔診断を受けた結果、Bluetoothにも異常が見られるとのこと。当日交換が可能な代理店店舗の案内を受け、電話口でそのまま予約を取ってくれた。

10/10午後中にカメラのキタムラへ。30分程iPhoneを預け、中を見てもらった結果浸水や衝撃などの形跡がないとのことで初期不良という判断。その場で新品と交換してもらえることに。

購入時のauショップでの対応

使っていたiPhone6のバッテリーが弱って来ており、2時間ほどの連続使用で電池切れが起きる状態だった。

auを五年使い続けていて今更キャリアを変えるのも面倒な為機種変更で最新のiPhone8に変えることにした。

ちょうどauではピタットプランという新プランを発表したばかりであった為、事前に公式サイトのシミュレーションで値段を計算。機種代を含めても今より総額が安くなることが分かった。

案の定販売店では少し高いプランをオススメされた。まあこの程度のことはどのキャリアでもやってることか、とイラつきを抑え、事前に調べておいたプランを提示して「これにしてほしい」と宣言することで不要なプランを回避した。

尚、その際も不必要なapple careとauのキャリアサポートとかいうものに入れられそうになった。apple careはまだわかるが、auのサポートはマジで必要ない。

以下やりとり。

僕「このauのサポートっていうのは必須なんですか?」

au店員「皆様にお願いしているものでございます。不要なら二ヶ月目に解除していただけます。」

僕「そんなことauの公式シミュレーションには書いていないですけどね。解除するのも忘れそうなので最初から入りたくありません。もう一度聞きますが、これは必須ですか?」

au店員「…少々お待ちください。」

ここで店員交代。

au店員(新)「お待たせしました。担当を交代させていただきます。」

僕「よろしくお願いします。このプランでお願いします。」

au公式シミュレーションを見せる。

au店員(新)「ここまでお決まりの様でしたら、ネットで申し込み頂ければ店舗で受け取るだけでも大丈夫でしたね笑(嫌味)」

僕「(何堂々とイヤミ言ってんだコイツ)…細かい点など分からないところもあったので対面で確認させて頂きたくて来ました(ニッコリ」

au店員(新)「なるほど、わかりました。ではサポートの方もなしでそのプランで契約を進めさせていただきます」

多少のイヤミとサポートプラン加入を半強制される詐欺まがいのくだりにイラっとしたが、僕も昔派遣バイトとしてSoftbankの携帯を売っていたので彼らの気持ちは分からないでもない。

長年docomo,au,Softbankの三社に飼いならされたキャリアユーザーならこの程度のことでは動じない。もう一歩踏み込まれたら格安SIMのmineoに駆け込むところだったが。

その後は特に問題もなく契約完了。相変わらず携帯ショップは胡散臭いが、強い心と事前知識を持って臨めばそれほど怖いところではない。僕からすると初めて行ったスターバックスの方が怖かった。いや多分これはキャラメルマキアートというたった一つの知識しかない状態で訪れた僕の方に問題があったのかもしれない。

不具合に気付き、appleのサポートに電話

購入初日は全く気付かなかったのだが、翌日になって「あれこの携帯バイブしなくね?」と段々思いはじめる。

Google大先生で検索をしたところ、iPhoneにはバイブレーションに関する設定がいくつかあるらしい。それを全て確認し、それでもバイブしないことが発覚。念のためapp storeで女の子専用バイブアプリ(彼女から教えてもらった)をダウンロードしてみたがやはりバイブしない。敬虔なるapple信者というわけではない僕は、このバイブアプリによってiPhone初期不良であると確信を得た。

僕は世間の女の子とこの聖なるバイブアプリの開発者に感謝しなければならない。なぜかその存在を知っていた彼女にもまた素直に感謝を捧げ、その知識の豊富さについて口を挟むことは許されることではないのだ。

一応この症状で検索をしてみたが、バイブレーション不良の報告は見られなかった。少なくともよくあることではないらしい。

事前にapple サポートアプリをダウンロードし、症状を記載し問い合わせを行った。こちらから電話するかappleからの電話を待つか選べたが、バイブが動かない以上着信に気づかない可能性があるため、その翌日僕の方からappleに電話した。

以下やりとり。

僕「すみません、一昨日買ったiPhone8について、バイブレーションがしないので問い合わせを差し上げました。お客様番号、というものを頂いております。」

apple サポート「この度はお電話ありがとうございます。担当させて頂く◯◯と申します。お客様番号のご提示ありがとうございます。ただ今から遠隔で診断をさせて頂きたいと思いますが、お時間の方大丈夫でしょうか」

診断後

apple サポート「ご協力ありがとうございます。診断の結果、バイブレーションの方は特に異常は検出されず、こちらは本体を拝見させて頂きたいのですが、Bluetoothの方にも異常が検出されております。」

僕「えっ、そうなんですか。気付きませんでした。」

apple サポート「大変恐縮ですが、浸水や衝撃などは…」

僕「一昨日買ったので、そういったことは無いと思います。」

apple サポート「左様でしたか、大変失礼致しました。すぐに交換対応出来る最寄りの店舗をご案内差し上げますので、ご住所を教えて頂けますか?」

僕「◯◯です。ちなみにエクスプレス交換サービスというサービスは適応出来ませんよね?」

apple サポート「申し訳ありません、そちらはapple careサービスに加入されている方のみのサービスとなっているので…」

僕「あ、すいません高望みしました」

apple サポート「いえ、大変申し訳ないです。すぐに最寄りのカメラのキタムラへ予約を入れられますが、いつ頃ご来店頂けますか?」

僕「あ、じゃあ今日の午後一番でお願いします」

apple サポート「承知致しました。ではカメラのキタムラ ららぽーと tokyo bay店で◯◯時に予約を入れさせて頂きます。店舗での判断にもよってしまう所はありますが、恐らく無償交換となると思います。何か不明点等ございましたらまた私◯◯が担当いたしますのでご安心下さいませ。この度は大変申し訳ございませんでした。今後ともどうぞよろしくお願い致します。」

全体的に好感の持てる対応だった。初期不良なんだからapple careのエクスプレス交換サービスを受けられるかもと思ったのだが、確かに今のところ初期不良かどうかは分かっていないのだし僕の高望みであったかもしれない。もう少しゴネれば適応してくれそうな雰囲気はあったが、apple careに入っていない為僕も強く出れず、au店員と違ってイヤミ一つ交えず丁寧な対応をしてくれたappleに対してゴネるのもみっともないと思ったためやめておいた。

カメラのキタムラ ららぽーとtokyo bay店

当日出掛ける予定の通り道で寄れ、iPhone8の在庫確認も取れたこの店で交換対応をしてもらうことにした。

店員の方の対応は何一つ問題なかった。

キタムラ店員「ご予約ありがとうございます。今からiPhoneを預かり検査致しますので、30分ほど後にいらしてください。」

僕「はい。コーヒーを飲めるところありますか?」

キタムラ店員「ドトールが空いていてオススメです。あちらに御座います。」

というわけで、空いてるコーヒー屋さんも教えてもらえた。

30分後

キタムラ店員「検査をさせて頂きましたが、やはり初期不良であると思われますので新品に無償交換させて頂きます。」

僕「はい。復元したいのとアプリのダウンロードを行いたいのですが、wifiってお借りできますか?」

キタムラ店員「もちろんで御座います。」

僕「やったぜ」

僕「ちなみに、iPhone8って初期不良多いですか?」

キタムラ店員「いえ、当店に持ち込まれたのはこれが初めてか2台目くらい、というところです」

auのピタットプランはデータ通信量によって料金が変わってしまうので、店舗のwifiを貸してくれたことでとっても助かった。店の前のちょっとしたベンチに座ってすぐにLINEを落としたり数GBのゲームを落としたりと復旧作業が行えた。これは神対応と言わざるを得ない。ありがとうキタムラららぽーとtokyo bay店。店員さんの対応もとても丁寧で心地よかったよ。auと違って。

その後、appleからサポートの評価アンケートが来たので全て満点で返してやった。iPhone8の初期不良が多いわけでは無いようだし、au店員以外今回の接客と対応に問題を感じなかったので当然だ。キタムラとapple サポートについてはなんなら名指しで褒めるメールを本社宛にそれぞれ送ってもいいレベルの満足度だった。

所感

auに限らずキャリアの対応は基本クソ。今回はauの対応はなかったが、結果的に他のサポートが神がかっていたので相対的にショップ店員のクソさが際立つ形となってしまった。それほど問題はないけれども客にイヤミを言ってしまった点でクソという評価を与えざるを得ない。

appleapple careに入っておらずとも初期不良対応は問題ない。問題ないというか迅速な対応で素晴らしい。この上なく良い対応だった。

電話口で無償交換であると言い切ってはくれなかったが、買ったばかりという点を慮ってくれていたし、何かあれば相談してくれとのことで大分安心感を与えてくれた。

しかしそもそも初期不良を出したのはappleの責任ではないか、という思いもある。それほど多いケースではなさそうだが、初期不良の疑いがある以上こちらの手間と電車賃はかけさせないような対応を取るべきなのでは、と少し思う。

しかしまあ今回はサポートの対応もよく、apple careに入っていないこちらの不備もあった。どんな製品でも不良はある。エンジニアだった僕としてはバグがあるのは当然のことだと理解しているし、単純に僕の運が悪かったんだとして納得出来た。

一眼レフカメラにハマっていた時よく通っていたキタムラだが、最近ではもはやカメラ屋さんではなくappleの代理店みたいになっているようだ。

appleが代理店として選んだだけあって、そのサポートは丁寧でとてもよかった。待ち時間に使える空いてるカフェを教えてくれる機転と、復旧の際に使うwifiを貸してくれたという融通の利く雰囲気が安心感を与えてくれた。

カメラのキタムラは何店舗か行ったことがあるが、特にここの店員さんは良かったように思う。店の奥で怒鳴り散らしているお客さんがいて、どういう問題なのかは分からないけれども店員側は冷静に対応していたのが伺えたので不安感はなかった。かわいそうに、という感じでちょっと加点してあげちゃうくらい。

  • 全体

今回は完全に初期不良の被害者なので偉そうに上から各サポートを評価してみたが、apple及びカメラのキタムラには拍手を送りたい。

彼らは何一つ問題なく、安心感を与える良い対応をしてくれた。

au店員とは違って。

やはりキャリアはクソ。クソみたいなプランを持ってくるしクソみたいな縛りの加入を半強制で勧めてくるしイヤミは言うし、ガメツすぎ客を舐めすぎ。 なんで携帯会社ってどこもかしこもあんなに胡散臭いんだろう。近いうちに評判のいい格安SIM、みおふぉんとかmineoに変えたい。

みんなどうやって長い人生折り合いつけてんの

大体みんなこのままあと30〜40年くらい働いて、 いくらかのお金を稼いでいくわけじゃん。

まだ火曜日なのかというこの落胆や、 こんなにも長い一週間がこの先365/7*40回ほど続く途方のなさと、 一体どうやって折り合いつけてるの??

稼げる額もさ、死ぬほどではないけれど、やりたいことが全てやれるほどのお金ではないことがほとんどじゃない?3年働けば一生分稼げちゃうような人もいるかもしれないけれど、そんなことの方が稀なのはみんな知ってることだとおもう。

じゃあこの仕事って行為は果たして人生における何かの解決になっているのかな、と疑問に思う。 そりゃ毎日が辛くなくて、仕事自体が楽しいとかそういう人は別だけどさ、みんながみんなそうじゃあないと思うんだよね。 わからないな、仕事に40年もささげる意味とか、それが当たり前のレールとして敷かれているこのしくみ自体とか、みんながどうやって働きたくない気持ちと戦っているのかも。 仕事に対する誇りや固執みたいなものが段々と、離れられないようにしてくるもんなのかな。 40年ずっと働きたくないまま働いていくものなのかな。そうなんだとしたら、人間つよすぎるんじゃないのか。あるいはよわすぎるんじゃないのかな。

10年生きてきた生き物と、40年生きてきた生き物では時間の感じ方が違うという。一定の時間でも、受け手にとっての相対的な大きさが違うからそうなるんだって、それっぽくだれかが話していた。

今のところそんなことはなくて、本当なのかなあって思う。 やりたくないことをやっている毎日は、今までの経験上いつも長く感じるよ。

男性学について

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男性学とは何か

男性学とは、文字通り男性についての学問である。

ジェンダー領域において、女性についての議論は常に意識され、十分とは言えずともそれなりに発展してきた。それは男尊女卑の歴史への反発からとも、文化水準の高まりが人々に知性をもたらしたからとも言える。

しかしその一方で、男性に焦点を当てたジェンダー論は長い間見過ごされてきた。 女性には女性の生きづらさが、男性には男性の生きづらさがある。

ならば女性のことだけではなく、今一度男性の生きづらさ、男性らしさとは何なのか見つめ直そう。 そうした動きから、男性学が生まれた。 歴史上培われた「男性らしさ」という偶像は、今や男性を苦しめる枷となっている場合がある。「自分らしさ」を追求することが美徳となりつつある現代において、僕たちは「らしさ」の呪縛から逃れられない。「男性らしさ」というものは、あまりにはやすぎる時代の変化に追い付けない。男性学は、そのギャップに深く切り込む。

恋愛の男性学

女性は守られるもの、男性は守るもの。

女性の自立を促進させようとする社会の動きがある一方で、こういった思想は未だ色濃く残っている。

それは人々の中だけではなく、社会システムとしての「常識」にまで存在している。女性が男性の戸籍に入籍する、という通例は正にそれを示している。この思想の由来が男性にあるか女性にあるかという問題は難しい。鶏が先か卵が先か、という水掛け論にしかならない。男性が示威のために女性を「所有」しようとしたのか、女性が保身のために「所有」されることを望んだのか。歴史を鑑みても、その答えはきっと見つかりはしない。

2000年代中ごろ、「草食系男子」という言葉が流行した。初めて命名された時期については諸説あるが、2006年の深澤真紀による日経ビジネスオンラインにおける記事が初めて使われたという説が主流である。深澤によると、その定義は

恋愛やセックスに「縁がない」わけではないのに「積極的」ではない、「肉」欲に淡々とした「草食男子」です。

(日経ビジネスオンライン U35 男子マーケティング図鑑 第5回 草食男子http://business.nikkeibp.co.jp/article/skillup/20061005/1... より抜粋)

とされている。また、1994年にギルマーティンが提唱した「シャイマン・シンドローム」という概念がある。こちらは端的に言えば「恥ずかしがり屋」な男性のことを示している。

草食系男子とシャイマン、これらはそもそも男性が積極的に女性に関わろうとする、という暗黙の前提から生まれた言葉である。 真の意味での男女平等が叫ばれている現代社会にも、いかに色濃く男性主導文化の名残が存在しているかがこのことからも見える。そして、そこに「意識のギャップ」のようなものが生まれつつあるからこそ、草食、シャイマンのような概念が流行しているのではないか。 また、インターネットの台頭、更に言えばe-mailの普及がそのギャップ認識を加速度的に人々に広める装置となったとも考えられる。e-mailは私たちに、敷居の低いコミュニケーションをもたらした。結果として恋愛までの道のりは簡略化され、恋愛自体が「常識」として人々に浸透していった。

現代の若者の間では、恋愛は半ば義務化しているといっていい。その証明として、アミューズメント産業や食品産業がクリスマスやバレンタインを「市場」として捉えていることは今更言うまでもない。 パートナーが居る、ということがある種のステータスとなり、反対にパートナーがいない人間はどこか欠陥しているという認識を持たれる。その現状を、当然のものとして人々が受け入れていることは言わば不気味なことだ。

男性学の課題は、問題を問題として認識することが第一の関門であると僕は思う。

そもそも「らしさ」というものについて男女間で認識を共有できていないという指摘もある。

女性は痩せ形のモデルに憧れることに対し、男性はふくよかな女性を好む。逆にボディビルダーに女性は強く反発するのに対し、男性はそれほど反発しない。

これは『女性学男性学 ジェンダー論入門』(伊藤公雄 樹村みのり 國信潤子共著 有斐閣 2002年)の一部要約である。

これが正しいとするならば、男女共に異性の視線よりも同性の価値観を重要視しているとも考えられる。男の話をする女は、大抵女に対してその話をしているのである。

異性との交際がステータスであり、価値観を同性寄りに設定するのであれば、それは同性に対する自己演出の一環、言わばパフォーマンスとしての恋愛である。異性との恋愛は、同性という観客に向けて繰り広げられるものなのだ。

現代の若者達は主に同性という社会からの承認を求めており、その手段として恋愛をとっている。そして、それを相互に確認し合うことでアイデンティティを獲得していくというプロセスを持っているのではないか。大きい話をするわけではないが、晩婚化や少子化の要因の一部として、あるいはこの意識の変化が影響しているのかもしれない。

まとめ

以上の全てを文脈として捉えると、男女の「生きづらさ」はむしろ同性同士の間に生まれているものであるように思える。互いに悪循環を構成し、真の意味で「自分らしさ」を求めようとする時代の流れにうまく対応できていない。僕らの根底に存在している男女不平等感がさらなる不平等を生み、ステータスやアクセサリーとしての恋愛を互いに求めていることになる。

当然、「自分らしさ」というものを求めることについての是非はそれぞれの意見があっていい。しかしそれを望む人々にとってこの問題は大きな壁として立ちはだかることは確かだ。

グローバル化が進み、文化の進化はさらに加速していく。その中でこの問題は取り残されてしまう。人々の認識を深めない限りは表立って何か事が起こることはない。解決すべきであるか、放置すべきであるか、安易な結論が出せる問題ではない。しかし、表面化しづらい問題こそが更なるうねりを生み出すのは世の常だ。「生きづらさ」に苦悩する僕ら自身が作り出す「生きづらさ」は、果たしてこれから僕らに何を齎すのであろうか。少なくとも僕は、この問題を認識する人々が少しでも増えることを望んでいる。

そしてなにより、なんかいい感じにかわいくて性格も良い女子高生が合法的にぼくの生きづらさを心身を持って解消してくれることを望む。

舌を舐める

やりたくもないことをしていると、自分自身とか自分の人生がどんどん摩耗していくばかりな気がしてしまう。

くだらない飲み会に使う時間も金も、全部人生を犠牲にしているって考えちゃうとなんだかね。 こんなことのために働いているのか、という命題からはこの先もずっと逃げられないのかもしれない。

じゃあ逆にさ、これをしている間は削られないっていうことはあるのかな。ふと今までを振り返って来て、これをしてよかったとか、これだけをしてたいとか。そんな風なことがあったろうか。

まあなんとなく楽しかったこと位は俺にもあるけれども、しかしそれが人生最高の瞬間と断言することは出来ないな。

その言い方をすれば、一方ではこの先の人生に希望を持っていると捉えることも出来る。けれども、これまで至上の瞬間を感じていないと捉える方が俺にとっては自然だ。

モテたくて始めたバンドのライブが成功したとき、まさに理想といえる女の子をみた時、友人とバカな話をしているとき。 全部素敵で嬉しい体験ではあったけれど、なかなかそれが最高だと言い切ることは難しいね。

時とともに精神は肉体は摩耗していくだなんて哲学的なことを言いたいわけではなくて、なんだかもっと「なんとなく自分っぽいもの」が削れていっている気がするんだよね。

例えば今まで、何かをしたいという気持ちと、何もしたくないという気持ちの総量を測っていたとしたら。何もしたくない、が90%以上を占めると思うんだよ。 よく、幸せと不幸は結局プラスマイナスゼロになるとか言うけれども、今のところそんなことないと思うね。今不幸だから、この先それが補完されるとバカみたいに信じる奴はいないよ。例えそう信じるしかない状況に陥った人がいたとして、なんならそれこそが人生最大の不幸だと俺は感じる。

自分が摩耗しない時間とか空間とか行為って、一体なんなんだろうね。空気に触れているだけで石が風化するというのなら、呼吸をしているだけで人も酸化するだろうよ。 ガリガリとエネルギーを削って、足りなければ身も心も差し出して。そうやってボロボロになった先に、きっと何もしなくていい空間、あるいはそれをくれる人が存在しているという希望に縋ってなんとかやってきた。 それがアルビノのように白くて細くて華奢で貧乳で俺のことを好きすぎてたまらない女の子であったり、そのこの胸のなかであったら尚いいと夢見てなんとかやってきた。

でも現実はさ。 たとえそれに近い女の子がいたとしても、男は守らなければいけないとか、俺にそんな魅力があるのかとかさ。そんなふうなノイズが鼓膜の中から鳴り続けているのさ。

やってらんないよね。なぜこんなにもたくさんのものとすれ違ってしまうんだろうか。

結婚報告とかプロポーズ報告とかをSNSで見たときに覚える感覚について。

プロポーズ報告を見るとウッと感じちゃうんだけどさ、 いやお前それ完全に妬みだろって言われたら何も言い返せない。 でも本当はそうじゃなくてもっと本質的に気持ち悪いモノを感じているのに、 何かコンプレックスが疼いてむしろ黙ることしかできなくなっちゃう。 で、なんなんだろうねあの感じは。 他人の幸福が嫌いだとか他人の不幸が好きだとか、 別にそんなに性格も頭も悪くないつもりなんだけれど。 それこそSNSだったりFacebookでもあるじゃない?プロポーズ報告とか。 なんかさ、どんな関係性の相手だとしてもその気持ち悪さは変わらないんだよね。 親友でも後輩でも先輩でも知人でも等しく気持ち悪い。 もちろんそれで人を嫌いになるとか、祝福しないとかそんなバカみたいなことはしないよ。 ただ本当に、気持ちがウッてなるんだよ。

2chとかでもあるじゃん、ほんわかエピソードみたいなの。 ああいうのも心底キモくてしょうがない。 その根底にはきっとさ、ああいう話がある程度世間を意識して対外的に作られた話だっていうのがあるんだと思うんだよね。 簡単に言うと、良い話としてその部分だけをまとめてるのがクソ気に入らない。 そんなアホみたいに綺麗で出来過ぎた話、信じらんねえよ。

お互い人生のパートナーとして共に成長していきたいとかさ、胡散臭いというかもうそれ本気で思ってるわけないじゃん。 そんな見栄えもよくて恥ずかしくない完璧な関係なんてさ、もうゆっくりと壊れていく未来しかないじゃん。 そんな物語なんてもう殺すしかないじゃん。 そうしないと話動かないじゃん。 そうしないと耐えられないじゃん。

だからさ「嘘ばっかり言ってんじゃねえよ」っていう気持ち悪さなんだよね多分。

人の汚い部分をみて安心する程頭が病んでるわけでもないけどさ、綺麗なモノに簡単に騙される程心が病んでるわけでもない。

その場で取り繕うことも祝福を強制させるなんてことも、どっちも本当に幸せな人間がすべきことじゃあないと思わない? 本人もやりたいわけじゃなくてやらされてるんだろうけどさ、文化だとしても意味わかんないよね。

お互いに気持ち悪いことだと知っていながら綺麗な関係を描くなんてさ、すげえ悪趣味な社会だよね。 悪魔じゃねえんだからそんなに人を騙すなよって思うわ。 地獄でもないんだからそんなに人を騙させるなよって話でもある。

で、その気持ち悪さにかなり近いものをもし自分が出してるとしたらさ、 「うるせえよ」っていうものなんだろうね。 皆が皆当たり前のようにやっている儀式とか儀礼とかをいちいち掘り下げてキモいとかいってるわけだしね。そりゃうるせえよ。

もちろんここに書いてるようなことはあんまり現実世界では話してないけどさ、世の中というか社会というか文化というか、そういうものってクソ気持ち悪いこと多くねえ? 最近本当気に入らないんだけど。だからってどうこう出来る問題じゃないのもまた気に入らない。 円滑さってそんなに快適か?自由って本当に自由か?みたいなそんな頭の悪そうな疑問ってなかなか答えが出てこない。

いつも何かにキレてるってほどでもないけど、いつも何かに批判的姿勢というか批判的疑問は持っていたい。

食傷気味の鰐とノスタルジア

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夕暮れ

世界の終わりなんて早々来るもんじゃあない。

ノストラダムスにマヤの予言、2000年問題なんかを経験した現代人には、そう気付いてしまっている人が余りに多い。

けれど一方で、本気で世界の終わりを願う人もまた余りに多くいる。

なんとも皮肉で可笑しいことだと思わないか。僕は本当にそう思うし、これから先もそうなんだと思うと何処か世界に安心する。

そういう話。

僕はオカルトが好きだ。とはいえ本気で幽霊だとかパワースポットを信じているわけじゃあない。現実的にそれらを意識するような経験も才能もないから、信じたくとも信じきれない。そう考えると本気でオカルトを信じている人は、特別な何かを持ち得た人なのかもしれない。

例えば一生をUFOに捧げて果てるだなんて、本当に才能だとしか言えないもんだろう。そんな大それたこと、僕に出来るわけがない。例えば他人の運命を占うだなんて、何も知らない僕がしていいことではない。

才能は適切な場所で生かされてこそ意味がある。これは僕が生きた短い時間で見出した唯一つの真理だといえる。 その点オカルトに熱中できる彼らは世間からいくら笑われようとずっと尊い場所にいる。夢物語のような不確かなものを信じているとして、それを内的に世界という単位にまで昇華させているのなら、もうそれは一つの現実と呼んでいい程の質量を持つだろう。

世界というのは迷惑なもんで、角度によって中々難しい表情を作る。僕と誰かがたった二人で存在している世界があるとして、結局のところ僕はそこに広がる無限の世界と対峙しなければならないことに変わりはない。人が二人以上いればそこにはどうしても社会というものが生まれてしまうから、僕はそんな状況でさえ、したいことだけをする人生などきっと送れない。

自分だけの世界、だなんていう言い回しがあるけれども、そんなものは存在しない。絶対に存在しない。UFOを追う彼も幽霊と踊る彼女も、彼らの中では何かしら対峙するモノが確実にあるはずだ。宗教家にとっての神が確実に存在するように、彼らにとっての相手はいつも彼らを見つめているものなんだろう。世間だったりお金だったり恋愛だったりを必死で追う当たり前の人々と、彼らは一体どう違うというのか。僕らと彼らでは、当たり前のモノが違うってだけの簡単な話なのかもしれない。

だとすれば、当たり前の僕は果たして何を追っているんだろうか。どんな才能があるんだろうか。その才能を持って、何と対峙し夢を見ているのだろうか。そんなことを胸に抱きながら今もなお、僕は自称女子高生を映す薄汚れたディスプレイを眺めている。