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アーリータイムズ

僕は今、フレックス制度を利用して早帰りをしている。嬉しい。早帰りといってもそこまで早いわけでもない。コアタイムが10-16時と決められていて、そして僕の家と会社は遠い。どれだけ急いでも帰宅出来るのは結局18〜19時になってしまう。それでも、普段0時くらいに帰っているのを考えれば十分に嬉しい。 体調が優れない為やむを得ずとった強行ではあるが、僕は今嬉しいのだ。

イイ話

昨日友人が言っていた。お金は高いところから低いところに流してしかるべきで、低いところから高いところに流すのはヤクザのシステムだと。そしてこれは優しさや余裕においても同じことだと。なるほど言い得て妙である。そう言われるとそんなような気がしてくる。もしかすると、早帰りをしたことで僕も余裕を感じているのかもしれない。バラバラに座ろうとする親子に席を譲ることが普段よりスムーズに出来た気がする。

余裕のあるやつが余裕のないやつを助ければいいんじゃない?と彼は言った。素晴らしい考えだ。僕も本当にそう思う。僕自身もそうありたいと思うし、人にもそうで居てほしいと思う。できれば、余裕のある側でありたい。

これを書きながら昨日の友人との会話をだんだん思い出してきた。確か僕らはそのイイ話の前に、お互いにブチ切れたことがあったよねという話をしていたんだ。こんなにイイ話ができる人間でも、やはり余裕がないと怒ったりしてしまうことはあるのだ。10年近く付き合った友人らが、お互いにムカついた話をした後で大人みたいな話をする。とても人間らしくて気に入っている。素直で素朴で素敵な話の流れだった。

大学生の頃、別の友人と似たような話をしたことがある。その友人と僕はバンドを組んでいた。彼は非常に時間に寛容だった。バンド練習の際に誰かが遅刻をしてきても、本当に何とも思わず仕切り直すことができる人間だった。そして彼は他人に対してと同様に、自分の時間にもあまり執着をしていなかった。僕の知らないところではあるが、彼自身が何かの待ち合わせに遅刻することが少なからずあったようだ。ある日彼は何の気なしにこう言った。

遅刻したら怒られるじゃん。でも、みんなが怒る意味が正直あんまりわからないんだ。

僕は彼の言葉に共感を覚えた。僕らは二人でじっくりと、その分からなさの原因を探ることにした。おそらく何ヶ月、すくなくとも何週間かこの話題は続いた。結論を言えば、彼と僕は暇だから怒らないんじゃないかという話になった。今思えばなんて結論なんだろう。文系大学生が二人集まって真剣に議論した結果とは思えない。

でも確かに、当時僕らのカレンダーは基本的に真っ白だったし、そもそもカレンダーを埋めるものだなんてこれっぽっちも思っていなかった。だから何か面白いことがあれば飽きるまでやっていたし、納得のいかないことがあれば納得いくまで考えたり話したりした。それから好きな女の子の話なんかもずっとしていた。

他の人たちのカレンダーはきっと真っ黒になっていて、決められた時間で決められたことをやれないと他の予定に支障が出ちゃうから怒るんじゃないかな。

当たり前のことだ。そんな当たり前の結論が、当時の僕らには想像もつかない新たな発見だった。想像が出来なかったから、ゼロから仮説を立てて、こうなんじゃないか、ああなんじゃないかと今思えばよくわからない推理をしていた。

でも、その想像のつかなさが、それこそが僕らの純真だったと思うよ。今では僕らはカレンダーを"埋める"とは言わず、スケジュールを"空ける"と言うようになってしまった。なんで、いつこうなったんだろうね。自分達とは違う人のことを想像していたはずなのに、今はもう違う人ではなくなってしまったね。このことについて、また話し合いたいね。

かなわねえな

かなわない、僕は善い人間には、かなわない。

僕は、世界には善い人間がいることを知っている。そしてその少なさと尊さもまたよく知っている。

善い人間はいつも僕を助けてくれる。悩みごとがあれば一緒になって考えてくれて、放っておいて欲しい時は放っておいてくれる。何かをお願いすれば快く引き受けてくれるし、僕が何かをお願いしたことを喜んでくれたりもする。少し時が経てば、最近どうだと不意の連絡を寄越してくれ、正にそれが欲しいというタイミングに僕の心配をしてくれていたりする。そして、僕に心配をさせてくれることもある。

善い人間は、きっと僕以外の人間も助けている。彼等はいつも誰かの為に考え、行動し、一緒になって喜んでいる。少なくとも僕にはそう見える。本当にかなわないよ。仕事をして生活をして、彼等にも僕と同じような暮らしがある。彼らも僕と同じように悩むことだってあるはずなのだ。しかし彼等は僕と違い、いつだって優しく善い人間でいることが出来る。どうしていつも、凪いでいられるのだろう。なんでそんなに、静謐であれるのだろう。

僕はといえば、根っこの部分からもう善くない人間だ。善悪の二元論で語るならば、当然僕は悪人に近い側にいる。私欲が喉の渇きのように付き纏い、呼吸をする度に厭忌の粘りは増す。これぞ嫌な人間というような行動を取ってしまうこともあり、本当に嫌になるよ。こんなことばかりの時間と、こんなことばかりの自分が。そしてどこか善い人を羨んでしまうこの浅ましさも。

それでも僕は今、仕事や生活、この暮らしにそれなりに向き合った形で日々を費やせている。僕が思うに、その少しの前向きさの源泉になっているのはやはり、今や今までに一緒に居てくれた善い人達の存在であると思う。これからくる過去も、これまで見た未来も、全部が全部彼等のお陰であって、それが心から分かってしまう。本当にかなわないと何度も思い知らされるよ。

僕はやはり、彼等のように穏やかでありたい。病める時も健やかなる時も、そうありたい。ただ生きているだけで苛烈さは寒風の如く吹き荒ぶけれど、もうそれに慣れるのも嫌なんだよ。もう彼や彼女にかなわないと思い知らされるのは、嫌なんだよ。

善い人間って奴は、ほんと参っちゃうよな。

諸君、我々は売り手市場に乗じて労働環境の改善を推し進めるべきなのだ。フォースと共に

今日本は空前絶後の売り手市場らしい。そんなことは知っている、自分には関係ない、という人もちょっと待って欲しい。確かに売り手市場というと、転職や就職をする人にのみ関係のあることのように感じてしまいがちだが、実は既に日々労働に勤しんでいるあなた方や僕にとっても、もしかすると転職や就職をしようという人以上に貴重なチャンスが訪れているのかもしれないのだ。

いつでも転職できるという最強の武器

今の労働環境に少しの不満も無い人間なんていない。もしいるとすれば、ブラックな社訓を魂に刻み込まれ最早人間に戻ることも出来なくなってしまった被害者(ゾンビ)か、成長の意志を捨て人の足を引っ張ることに楽しみを見出した無意識の加害者(ゾンビ)くらいだろう。いやこの話もまた長くなるから今はゾンビの話はしない、これからの人間の話をしよう。

我々はゾンビではなく、誇り高き人間である。誇り高き人間は、より良い環境でより生産性の高い仕事をしたい。より短い時間でより高い価値を創造したい。つまり誇り高き人間は、なるべく働きたくない。なるべく働きたくない人間は、誇り高い。

悲しいかな、誇り高き人間はその利発さ故、安定というものの価値もまたしっかりと理解できてしまう。安定というのは人間にとって劇薬のようなもので、それさえあれば多少不満足な労働環境においてもそれなりの納得感を持って働けるようになってしまう。安定という毒に目が眩み、愚かにも不満足な現状をそれなりの現状と錯覚し、またそれにしがみ付いてしまう同族がいるということだ。あるいは僕も、その一人であるかもしれない。

しかし誇り高き人間達よ、立ち還れ。

我々にとって、今の売り手市場という状況はこの上ない追い風と言える。いつでも転職が出来る、という客観的事実は我々が持ち得る最強の矛だ。最強の矛であり、同時に最強の盾でもある。右手には最強の矛、左手には最強の盾。そうだ、遂に我々は決戦に向かう用意を終えたのだ。この事実がある内に、多少強引にでも労働環境の改善を推し進めるのだ。

営業の同族よ、無根拠なノルマ水準を下げるよう交渉せよ。そして厚顔にもインセンティブの上乗せを要求するのだ。

エンジニアの同族よ、納期を気にせず心の健康が保てる現実的な工数を申告せよ。そして厚顔にもより高い水準の学習補助、福利厚生を求めるのだ。

ディレクターの同族よ、出来ないことは出来ないと明言せよ。自らの業務の専門性を社会に認知させ、インセンティブを獲得するのだ。

我々の下、我々の為、我々の向かう先に確かに正義の風は吹いている。 安定を求める愚かな同族もまた、今回ばかりは安心して行動せよ。アプローチに多少失敗し社内に居づらくなったとしても、次の職には困らない。そして何より、諸君らの行動の結果如何に関わらず、言いたいことが言えるポイズンな土壌、風潮は後に続く勇者にも引き継がれ物語はやがて伝説へと続くのだ。

諸君、売り手市場は決して他人事ではないのだ。我々一人一人の行動で社会はより生きやすい社会へと進化していく。そして今、諸君らには最強の武具が与えられた。行動を起こすならば今が最上、千載一遇の好機なのである。行動せよ、崇高な思いを胸に。集合せよ、我々の未来のために。諸君らの献身に期待する。以上。

追伸、僕は行けたら後から行く。

正当な対価を要求するための責務、またその難しさについて

前回のエントリで不適正な対価で優秀な人材を雇おうとする企業について、長々と批判と愚痴をごちゃ混ぜにして書いた。

社員に「クリエイティビティ」,「イノベーション」を求める企業と支払う対価について - ここはクソみたいなインターネッツですね

この問題に関し、翻って求職者や労働者、つまり雇われる人間の側にはどんな責任があるのかを改めて考えたい。一連のエントリが、単なる一労働者の企業に対する愚痴になってしまっている現状から脱却したいという思いだ。

自身の価値を伝えることの難しさ

結論から言って、雇われる側の人間が正当な対価を要求するためには、自身の価値を雇う側にアピールすることが必要だ。

就職や転職、評価面談の際に自身が積み上げてきた実績、現在の能力とその価値を正確にアピールしなければ、適正な対価など得られるわけがない。しかし、それはとても難しいことだ。上手くそれをこなせている人間は非常に少ない。

その"難しさ"は一体どこからくるものなのだろうか。

事例

僕は以前所属していた企業にて、ある制度を作った経験がある。その制度とは、企業が定めた数十の評価基準について被評価者があらかじめ1〜5の定量的な自己評価をつけておき、評価面談の場で実際の評価と突き合わせ、そのズレについてすり合わせを行うというものだ。正当な対価を要求するために自身の価値を数値化する。これは正に"自身の価値をアピールする責務"を実行させる制度であった。そして、この制度を実施することにしたきっかけは、労働者側に「自分が正当に評価されていない」という不満が散見されたことだった。果たしてその結末はと言えば、この制度は失敗に終わった。一度か二度と実施した後、僕が想定していた不満の軽減や労働意欲の向上といった効果が全く得られていないことが分かったのだ。

なぜこの制度は失敗したのか。なんとその原因は被評価者にあった。評価に不満を持っていたはずの被評価者たちのほとんどは、杜撰な自己評価を行ったのだ。ある人は事実として残したはずの成果を低く申告し、ある人は根拠もなく自身に高評価を付け、ある人はすべての項目を中間の点で埋めた。一方で当然ながら評価者は被評価者の実績データを根拠とし、出来る限り公正な評価を持ってきた。評価者からすれば、被評価者が提出した自己評価は余りにも粗慢であり何の参考にもならない紙切れに過ぎなかった。この制度は、この制度を欲していたはずの被評価者が原因で失敗したのである。これは僕にとって、予想外の事態だった。

なぜ正確な自己評価が出来ないのか

僕の考えでは、この問題には二つの原因がある。

一つ、そもそも人間は自身を正確に認識することが苦手な生き物であること。

二つ、実績のアピールと自身の誇示を混同していること。

人間にはアプリオリな機能として、虚栄心、闘争心、猜疑心、敵対心、嫉妬心、羞恥心など自身を大きく見せたい欲求や、逆に自身を小さく見せたい欲求などが備わっている。極論として、人は物事を主観でしか捉えられない。可能な限り客観に寄せようとしても、やはり主観的客観という不確かな客観性までしかどうしても到達できない。それは自分自身を"観る"ときも同様であり、そして主観というものは基本的に先に挙げたような感情による影響を受ける。例え観る対象が定量的に測れる実績や明確な事実であったとしても、それをどう捉えるか、どう観るかという点には感情の影響がでてしまうのだ。自分自身のことを定量的に評価する場合、思い入れ、つまりは感情の強さが他者へのそれとは圧倒的に違う。感情のバイアスがより強くかかってしまうのは道理であると言える。感情が多様であるように、それがもたらす影響の方向も様々だ。客観的であろうとしすぎれば恐怖や恥ずかしさといった感情のバイアスから自身を過小評価してしまうし、主観のみで捉えようとすると虚栄心や闘争心といった感情が過大評価を呼んでしまう。反対に、他者を観る場合は思い入れに比例して感情のバイアスは弱くなり、比較的客観的らしい判断ができる。要するに、人は自分のことになると冷静さを欠きがちなのだ。

二つ目もそれに連なる話であり、冷静に考えれば、自身の正確な価値を評価者に伝えることは必要なことで、恥ずかしがったり謙遜などをすべきことではないと理解できるはずだ。しかし冷静さを欠いた人間はそれが分からなくなってしまう。積み上げてきた成果を正確に伝えれば良いだけだというのに、どこか「自慢話のようになってしまうのではないか」とか「あの人に比べればまだ自分はダメだ」だとか、不必要な謙遜や卑下をしてしまう。一般的に、自分はまだまだだ、というフレーズは向上心を示すポジティブなニュアンスを感じさせる。たしかに謙遜は美徳であり向上心があることも優れた資質であると言える。しかしこの場合では、それらはなんの役にも立たない。正確な事実を伝えるべき場でのそれらは、観たいものをボヤけさせるフィルター、磨りガラスで作られたレンズの様なものだ。謙遜や卑下、羞恥やセルフハンディキャッピングはこの場では一切必要がない。当然、虚栄も誇張も同様だ。ありのままの事実をありのまま伝えるだけで良いはずなのだ。

この問題をより難しいものにしているもう一つのこと

残念ながら、現実社会においては先述した二つの原因を克服したとしても正当な対価が必ず得られるわけではない。

これまでの話は全て評価基準が定量的に測れるものであり、かつ評価者が職務に忠実公正であった場合の話である。現実には、評価基準がそもそも定まっていない場合や、曖昧かつ定性的かつ不透明な基準が設定されている場合、評価者の主観的な好き嫌いが大いに評価に反映される場合もある。むしろそういった環境の方が割合としては大きいだろう。

つまり、非常に悲しいことではあるが、僕が先程不必要だと切り捨てたはずの謙遜やセルフハンディキャッピング、虚栄や誇張というものが、処世のテクニックとして非常に有効なものになってしまう現実があるのだ。無能な人間が上司や評価者に気に入られているだけで高評価を得たり、実績の伴わない"やる気"や"向上心"を不必要な残業をもってして表現する人間が「あいつは頑張っている」と評判になることなんてザラにあることだ。これはこの社会を構築する一人の人間として悲しいことで、恥ずかしいことだ。

そして更に、僕が最も悲しく最も恥ずべきことは、今のところその状況を打破し得る考えを僕が持ち合わせていないことだ。

社員に「クリエイティビティ」,「イノベーション」を求める企業と支払う対価について

銀の弾丸、クリエイティビティ・イノベーション

クリエイティビティという言葉の功罪、またその陰にあるクリエイティブでない仕事の重要性についてはtechcrunchに良い記事があったのでそれを紹介する。

クリエイティビティの罠――実務的な業務の重要性 | TechCrunch Japan

クリエイティビティは今やクリエイティブ職にのみ求められるものではない。営業、エンジニア、ディレクター、デザイナー、マネージャー、経営者。様々な職種の人間が多方面でクリエイティビティを発揮し、日々の業務やはたまたビジネスそのものにドラスティックな転換、言い換えるならばイノベーションをもたらすことが求められる時代となった。社員のクリエイティビティを高める方法を書いた本が経営者に売れ、自身のクリエイティビティを高める生活習慣ノウハウを書いたコラムが当然のように読まれる時代、各個人が社会に対しインパクトのあるイノベーションを起こす時代。

率直に言って、本当にそんな時代が来てるのか疑問に思う。僕が知る限り、僕の身の回りで個々人がクリエイティビティを発揮して破壊的イノベーションを起こしまくるような社会や組織が構築されたことはない。体面上そういったことを推奨する組織に属していたことはあるけれども、それは具体的な計画や還元に基づくものではなく建前として掲げられたものであったし、悪く言えば先進的な言葉を表面上取り入れただけの古びた夢想を個々人に押し付けようとしているだけだった。これからはコミュニケーション能力の高い人間を採用するといいらしい、これからは高いクリエイティビティを持つ人間を採用するといいらしい。なんとなくそんなような採用目標が立てられ、大して給与も上げずにより時代にあった能力の高い人間を採ろうとする。それで本当にイノベーティブで高いクリエイティビティを持つ組織が出来ると思っているんだろうか。高いクリエイティビティでイノベーションを起こし続けられるような人間が何故今更、杜撰な理想を抱く組織を必要としていると思うのだろうか。

リーダーシップがあって、クリエイティビティもあって、努力を惜しまず会社に貢献してくれる人材。断言しよう、そんな人間はいない。万が一いたとして、常識の範囲内の安月給で御社だけに雇われる理由がない。僕は本格的な採用には関わったことのない人間だが、無知を承知で言わせてもらう。企業というものは人を採用する際何故か自分のことばかり考えてしまい相手の視点に立てなくなってしまう。どんな人材が欲しいか、その一点のみで採用活動を進めてしまう。企業というものは利益追求のための組織であるから、企業が欲しい人材を企業が出したい金額で募集をかけるのは当然のことのように思えるが、しかし自分が欲しがっているものを正当に評価出来ていない点は僕からはとても歪に見える。欲しいものがいくらするのか。それをまともな感性で調べることも、まともな頭で想像することも出来ないなんてそこらへんの子供にも劣る愚かさだ。欲しいものの値段、扱い方、どう使うと役に立つのか、自分にそれが扱えるのかくらい調べてから欲しいと言いなさい。

クリエイティブ、イノベーティブな人材というのは、それさえ有れば現状を打破し得る銀の弾丸かなにかと勘違いされている。それは確かに銀の弾丸になり得るものかもしれない。しかし果たして、あなた方にその弾丸を扱う度量、環境、技術、支払える対価、銀の弾丸銀の弾丸足らしめそれを維持させる準備があるのか一度胸に問うてみるべきだ。

人に好かれる人と嫌われる人

初対面から好かれる人ってすごいけどそんなに得はしてないんじゃないか

二十といくらかの齢を重ねてようやく知ったこと。どうやら多くの人にとって、僕の第一印象はかなり悪いらしい。そんなに無愛想にしているつもりもないし、面白い話が好きなので自分では割と笑顔でいることが多いような気がするのだが、基本的に陰気で全てを見下していそうな奴と思われるらしい。まあ陰気なこと自体はそんなに間違っていることでもないんだけれど、ある程度のものはあるにせよ、全てを見下してなんかいないし、初対面の人は大抵自分より凄い人なんだという認識で接するようにしている。それでも、やはり僕の第一印象が良くないということはまあ僕自身がそれを知り得た時点で事実だと認めざるを得ない。

そんな僕から見ても、明らかに第一印象から話しやすく、この人はいい人だと思わせる人がいる。これってすごいことだと思う。営業マンだったら仕事の経験から身につくものなのかもしれないけれど、とにかく印象の良さを持っている人は凄い。なんでその人たちは印象が良くて、僕の印象は悪いんだろう。才能だと断じるには努力が影響できる余地を感じるし、努力だと断じるにはそんなに意識してなさそうな人もいる。きっと才能と努力の兼ね合いと、それに加えてその人がおくってきた日々や暮らしの重みみたいなものがどうしても漏出してそう印象付けているんだろう。

しかし一方で僕は、第一印象が良い人についてすごいな、と思うことはあれど必ずしもそれが良いことだとは思わない。僕の第一印象がどうやら悪いらしいということは最近知って結構ショックを受けたんだけれどもまあそれは良いとして、じゃあその第一印象を良くしたいと僕が熱望しているかというとそこまでではないのだ。

普通の人が不自由な人や老人を助けるより、ヤンキーみたいな奴がそれをする方が評価される。度々おかしいとされるこの風潮は、しかし現実では良くあることだ。人は、善いにせよ悪いにせよ、受けた印象とズレた行動を取る人に注目する。生徒と関係を持った教師が、聖職者たるべき職業なのになんて奴だと注目を集めるのと同様に、第一印象が良いとその後の行動で落胆や軽蔑を招きやすくなると僕は思う。一度善のラベリングをされた人は善としてあることを求められる。これって結構大変なんだろうな。

僕は恐らくそういった意味では、ヤンキーが人助けをすると異様に褒められるそのおかしな風潮の恩恵を受けている側の人間だ。僕には、数は少ないがとても親密な友人と言える人が数人いる。実は、そのほとんどが最初は僕のことを嫌いだったり苦手だと感じていた奴なのだ。それなりの時間を共に過ごしていく内、あるいはほんのささいなきっかけから、彼らは僕を"見直した"。そう断言するのは少し烏滸がましい感じがして心苦しいが、しかしこれは彼らがもし僕が考えているように僕を友人として認めてくれるのであれば、明確な事実だ。

好きの反対は嫌いではなく、興味がないことだとよくいう。そんな使い古された言葉に迎合するなんて僕としては些か不満だけれども、あながち的外れではないんだろうと思う。僕は今月新しい会社に入って、何人もの社員に挨拶回りをした。その中で、第一印象が普通の人とか良い人そうだなって位の人は正直全然記憶に残っていない。しょうもない奴だなとか、怖い人だなとか、なんかすごそうだなとかそういう印象の人こそよく覚えていて、人間的に興味をそそられている。それは僕がひねくれているからとかそういうことではなくて、「なんでこの人はこうなんだろう」という自分との差や世間一般で言う"普通"からの逸脱に対して持つ疑問、またそうなった経緯や結果として得た人間性の実像をより知りたいという好奇心がそうさせているんだと思う。わからない、ということは好奇心を呼ぶ。わかる、ということは共感を呼ぶ。あとは感情の強さと頻度の話だ。少なくとも僕にとって、好奇心と共感では圧倒的に好奇心の方が瞬間最大風速的には強い。そして、炎上マーケティングという手法が流行ったように、人は賛同より批判をする時の方が実際に行動を起こしやすい。ブログも同じで、あるあるネタやまとめみたいなことを書くよりもずっと、的外れなことや非常識なことを書く方が明らかにリアクションが大きい。

共感も決して弱い感情ではないのだが、"そういうことってあるよね"という程度の共感ではやはり人を行動に移させるには力不足で、"なんで?"という探究心、好奇心、言ってしまえば反発心もあるかもしれないが、そういった感情の方がよっぽど人を動かせるのだ。性善説性悪説の話をしたいわけではないけれど、やはり人は自分と違うこと、自分にとって都合の悪いことにはすごく敏感だ。それは自己保身の為かもしれないし、人や社会にこうあってほしいという崇高な想いからくるものかもしれない。勘違いしないで欲しいのは、批判や指摘をすることで自らの正当性や善性を確かめようとする人間のその愚かさみたいなものを貶めたいというわけではない。むしろ僕はそういう人の人間らしさみたいなものを愛おしく思っているし、批判する人の批判をして僕が正当性を確かめたいとかそういうメタ構造に陥りたくもない。経験的事実として、人は批判的な時こそ行動を起こしやすい。

さて、今日は会社の忘年会であった。僕が「変な奴だな」と感じた人に対し取った行動は"会話をする"というものである。これこそが、コミュニケーションの本質だと僕は思う。滑らかでないゴツゴツとした人間性や人間関係や社会であるからこそコミュニケーションというものは必要とされ、価値を持つ。アドラー心理学なんてものはこれっぽっちも知らないし興味もないんだけど、第一印象が悪いということは、恐らく僕にとってそんなに悪いことでもない気がする。なんなら結構得をしているような気さえするのだ。

主人公っぽい人っているよね

「主人公感」という神秘性

そりゃ誰もが自分の人生を精一杯生きてる訳で、各々の人生において自分が主人公であることは当然だし自然だと思う。けれども、僕は"なんかこいつ主人公っぽいなー"と感じさせる人間が一定数存在するのもまた知っている。一つのコミュニティに一人いるかいないかの特別な存在。学生か社会人か、職種や年次、役職やはたまた顔の良さや性格なんてものも全て関係なく、なんとなく「こいつは主人公で、これからもそうありつづけるんだろうな」と僕に予感させる人がいる。主人公感がある人、僕はそういう人に憧れ、彼らをプロタゴニストやプリンシパルと呼んでいる。

彼らはよく"意識高い系"と揶揄される人とは当然違う。かといって"本当に意識の高い人"というのもまた違う。"主人公感"を出せる人間というのはなんというかもっと自然な雰囲気を持っていて、所詮何かを意識して演じようとしているそれらの人間達とは決定的に違うものを持っている。彼らは主人公役をやっているのではなく主人公そのものなので、決して何かを演じているわけではない。むしろ彼らは演じられる側で、何者かになろうとしている所謂"演者"とは最も遠い位置にいるのだ。それらしい表現は「カリスマ」かもしれない。けれども「勝手に人が集まってくる人望のあるやつ」とかそういうポジティブな要素を持つ人間のみが主人公感を持つかというと、それはそうでもない。

物語に喜劇や悲劇、神話やジュブナイルがあるのと同様に、彼らの持つ「主人公らしさ」のベクトルは人によって本当に様々だ。暗澹たる道に倒れゆく主人公であったり、自信に満ち溢れ正道を歩む主人公であったり、飄々とした雰囲気を纏い全能を思わせる人間だったり、未熟さの中に果てしない将来性を垣間見せる青臭い人間だったり。僕が今まで見た主人公感を持つ人々には、何一つ共通点がないのだ。何一つ共通点がないように思えるのに、彼らは彼らとしてそこに在るだけで、僕に言葉に出来ない感覚、デジャヴ、リフレイン、追憶と焦燥をもたらし給う。そういった意味では、彼らが持つ唯一の共通点は、僕にそういった感情を持たせる神秘性だと言えるかもしれない。彼らのどこに僕が主人公らしさを感じるのか、彼らの何が彼らを主人公足らしめているのか。その神秘性にこそ僕は憧れを抱かずにはいられない。

「大人になる」ということの不可解性

高校のクラスメイト、大学のサークル、前の会社、今働いている会社。今まで僕が所属していた全てのコミュニティや空間に僕が言うプリンシパルたちは存在していた。一つのコミュニティに必ずいる人種というわけでもないだろうから、本当に偶然にそういう人を僕がよく見てきたんだと思う。やはり彼らを近くで見ていた影響か、僕は結構長い間、それなりに強い想いでそういう人になりたいと考えていた。またそうなるべく努力をしていこうとも思っていた。しかし最近その考えは薄れてきていて、やはりあくまで僕は脇役か端役、過大評価して精々アンタゴニスト(敵役)というところだろうと思い始めている。そして例え僕が何かの役割を演じられたとしても、役割が人の形になったかのようにさえ思わせる彼ら「主人公」との間には、絶対的な隔絶がある。そう理解し始めている。

なんとなく、等身大の自分の姿というか限界というか諦めというようなものが見え始めてきているんだと思う。昔は「いつまでも尖った人間でありたい」と考えていたのに、結局そうなれなかったばかりか、「そう成れなくてもそれはそれでいいか」とさえ思い始めている自覚がある。理想と現実のギャップ、という簡単な話ではなくて、理想とするもののそもそもの基準が'スライド'(変化でも退化でも進化でもブレでもなくスライドというのが相応しい)している感覚だ。

友人にそんな話をしたところ「大人になったってことじゃない?」と簡単に片付けられ納得がいくまで議論をさせてもらえず、幾許かの寂しさと悲しさを覚えた。きっと、この不満感というか未達感みたいなものさえ僕がプロタゴニスト足り得ない所以なんだろう。友人が言ったように僕が大人になってきているんだとして、僕は自分自身のことなのにその「大人になる」という変化に不可解を感じている。大人になるということは一体どういうことなのだろう。僕は確かに、自分自身に何かしらの波が立っている、「自分が何かになってきている」という感覚だけは持っている。しかし何になっているのかは分からない。だからこそ不可解なのだ。僕はどうやら、なりたかった「主人公」にではないけれど、また違う何かになりつつあるようだ。果たして本当にこれが大人というものなんだろうか。"これぞ大人"という漠然としたイメージは持てるけれど、自分がそうなっていく自覚や道程というものは極めてあやふやだ。人は僕が大人になってきていると言う。しかし僕自身は僕自身が何になりつつあるのか分からない。果たしてそれが善いものなのか悪いものなのか、喜ぶべきものなのか悲しむべきものなのかもよくわかっていない。

別の友人がこんな話をしてくれた。彼に死が迫った時が二つあった。一つは能動的な死、つまりは自殺願望。二つは受動的な死、事故や病によって生が脅かされること。彼は、死という同じ事象に対してのことなのに、出てきた感情や考えが全く違うものだったと語った。能動か受動か、それもまた神秘性があり不可解な話だ。

主人公らしい人が主人公としてただ在ることの神秘性、僕が無意識に何かになりつつあるということの不可解性。なるのか、あるのか、なろうとするのか、あろうとするのか。それらはとても似ていることのように思える。しかしその能動性と受動性、ほんの少しの角度の違いが、きっと人の持つ世界や物語、人生そのものに大きな違いを生んできているのだと、僕は最近そんなことを考えている。