ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

心理的安全、コミュニケーションの複雑性、期待値のコントロール

id:konifarさんの記事を見て、よく分かるなあと思ったので共感している思いと自分なりの解釈を書く。記事は以下。

https://konifar-zatsu.hatenadiary.jp/entry/2021/11/09/152137

会社という範囲で言うと、経営側は社員や従業員へ説明責任を果たす必要がある。これは労働者の不意の離職防止や円滑な業務遂行を促進するという企業にとってのメリットからの側面と、そもそも企業というものは営利目的を前提としつつ計画に基づいて経済活動をしていくものであるから、当然その計画の説明は十分にすべきであるという論理からそう考えている。加えていえば、企業は一定の社会的責任を負うものであり、労働者への責任は殊更重い。労働基準法における労働者への不利益変更や解雇の予告条文を見てもその重さが読み取れるが、俗に言う説明責任というのもこの責任のうちに含まれるものであり、義務といっても過言ではない責任であると解釈している。

言うまでもなく、まともな経営陣であれば労働者には納得感を持ってパフォーマンス高く働いてもらいたいと考える。だからこそなるべく齟齬なく説明を果たそうとするし、欲を言えば労働者にも目標や理念やビジョンの推進、もう一歩引いて共感、さらに一歩引いて認識だけはしてもらおうとする。しかしながら冒頭で挙げた記事にもあるように、説明している側としても絶対的な自信を持って方針や理念等を説明出来ているわけではないこともある、というかむしろ明確な正解があるシーンの方が少ないと思う。未来の不確実性と向き合うために、こうしていきたい、こうしたらいいと思う、というような不確実な方針を、できる限りの議論や熱量をふりかけて確からしく発信するのが精一杯というのが実情であったりする。

この不確実性・不安定性を前提として、それでも経営陣がなるべく正確に思いと理論を伝えようとする。しかしやはり結局のところ人間同士どこまでいっても完全には分かり合えないという問題は残ってしまう。そんな中で重要になるのが信頼関係、心理的安全であると思う。経営陣から労働者に対する「彼らならわかってくれる、良い方に向かってくれる」という信頼もあるし、従業員が経営陣に対し「あの人なら大丈夫」という信頼もある。いずれにせよいつかは信頼関係による踏ん張りの有無が大きく状況を左右する瞬間が来る。

信頼関係、心理的安全性があることで危機を回避出来る可能性が少しでも高まる。そのためには労働者同士や労働者と経営陣、さらにいえば経営陣内での相互理解が必要であるため、一方的な説明以外のコミュニケーション方法も設計しておいた方が良いのは言うまでもない。人事評価や目標設計で賄っている企業があったり、採用部分で厚めにフォローしている企業があったり、ランチを推奨している企業があったり、狙ってのものかどうかは置いておいてタバコミュニケーションがその担保をしている企業もあったりする。そういったコミュニケーションの中で難しいのは、互いの期待値コントロールに失敗してしまうと状況がより悪化してしまう可能性がある点だと思う。コミュニケーションにも正解はなく、過剰に自分を大きく見せてしまうと逆に大きな失望を生んでしまう可能性があるし、パワハラだのモラハラだの悪質なコミュニケーションをして信頼関係を構築する以前の問題も発生しうる。コミュニケーションの複雑性はただフォーマットを決めたり、頻度を増やすだけでサッパリ解決できるようなものではない。やらないよりマシ、とおもえることを手探りでやっていくしかない。

コミュニケーションの複雑性を踏まえた上で、では経営陣が労働者に対して「完璧なものが出ているわけではない。自分も一緒になって作り上げるんだ、という温かい目で説明を受けろ」と期待するのかというと、そうしてもらえると非常に助かるだろうとは思いはあれ、やはり過度な要求に思える。同じく労働者が経営陣に対し「私が納得する完璧な方針を出してください」というのも、労働者をしていた経験から言えば一定の正当性を感じるものの、やはり完璧を求めてしまうのは過度な要求に感じる。結局どうしてもお互いわからなさから認識の余白部分は生まれてしまうもので、その余白を期待値のコントロールをした上での好意的な解釈で埋められるよう、良い関係を構築していく以外に道はないと思う。

これまでの経験上、そういった信頼関係を構築するのは仕事の中でも相当に難しいことだと感じる。単純に仲良しになれば一定の信頼が得られるかと言えばそうでもない場合もあるし、かといって無機質に付き合っていては早々に限界がくる。人によって接し方を変えた方が良い場合もあれば八方美人になってしまって謎の関係が作られるだけの場合もある。人を減点方式で判断する人もいれば、加点方式で判断する人もいる。その特質にさえも、役に立つシーンと損をしてしまうシーンがある。デコボコのままゴツゴツとしたコミュニケーションをとることで改善することも、角をとったなめらかなコミュニケーションでしか解決できないこともある。

冒頭の記事で「ゆるい信頼」という言葉を見た時、それが出来たら本当にいいなあと共感するとともに、ゆるいと言えどもそれは簡単には得られない、むしろとても複雑で難しいことに挑んでいかなければ作られないものだから、これからも頑張ってやっていかないとなあと改めて思った。そんなに大変なんだから、全部投げ出して沖縄に住みたくなることだってあるよな、でも難しいことだけど、本質的につまらないことではないよな、ということまで思った。

羣青

我が家の文鳥は、人間が見えなくなるといつもよりずっと大きな声で呼ぶ。今まで飼ってきた他の鳥も同じように鳴いていたから、おそらく鳥類全体の習性のような物なのだろう。呼ぶ理由はよくわからない。自分自身が寂しいからなのか、本能から群れの安全確認しているのか。一つ屋根に暮らす我々を一つの群れとして捉えているのだとしたら、本人の性格からして自分こそが群れのリーダーだと認識していることだろう。であればもしかすると、あんなに小さな体でありながら、自分より大きな生き物である人間を危険から守ろうとしてくれているのかもしれない。鳥頭、という言葉があるように、鳥という生き物は特に頭がいい生き物というわけでもない。一部のオウムやヨウムなどは高度な知能を持っているとされるが、我が家の文鳥はすぐに餌を見失うし、自分から抜けた羽に驚いて木から落ちそうになることもある。我が群れのリーダーに対して失礼な発言だが、少なくとも高い知能を持っている様子はない。しかし知能と情緒は違う。頭は悪くとも、彼は確実にいろいろなことを感じているし、感情を持っている。毛の生え変わり時期には明確に機嫌が悪くなるし、安定期には甘噛みによるとても優しいコミュニケーションをとる。彼らの感情の複雑さや周期性は、もはや人間とさほど変わらない。小屋の中での退屈、群れに自分の意思が伝わらない不満、たまにもたらされる珍しい餌の楽しみ。人間で言えば、会社員がたまの休みに上司や部下の愚痴を溢しながらビールを飲むその感情、まさしくそれと同じようなものを、きっと彼らも持っている。ペットを飼うたびに思う。あんなに小さな体にも我々と同じように自我があり、愛があり、怒りがあり、恐怖があり、不安がある。離れようとすれば追いかけてくるくせに、追うと面倒そうに振り返る。攻撃されたと思えば怒り、大きな音が鳴れば驚き、地震で家が揺られれば怖がって巣に戻る。それでも彼らの生き様が少しだけ人間よりシンプルに思えるのは、自身の感情を隠すことなく表現できる彼らと、そうでない我々との違いというだけなのかもしれない。果たしてどちらが情緒的に優れた生き物、生き方なのだろうか。私にはわからない。

人間の群れの一単位である家族は、時間と状況、あるいは生活と呼ばれる位相によって様々な形をとる。株分けされた花が元株とは違う様々な色の花を咲かすことがあるように、群れから離れた人間も、元の群れと何らかの関連を保ちつつまた違う形や性質の群れをつくる。もしくは、群れをつくらない・つくれない個体もいる。私の元いた群れは、今は散り散りに、一部ははるか地平線の向こうまで移動して暮らしている。母体となる群れの個体数は当時の半数以下となってしまったというのだから、もう私が知る頃とは随分違う生活が送られているのだろう。一方で、私は今や文鳥の率いる小さな群れに入ってしまった。きっと元いた群れの彼らにとっても、私の生活はとても想像ができないものになっている。

群れの中で最も聡明で、誰もが憧れる存在だった兄は、社会という巨大な群れに馴染めているのだろうか。その賢さゆえに、辛い思いをしていないだろうか。頼られるばかりで、頼れる人がいない状況に陥っていないだろうか。群れで最も明るく活発で、芸術の天才だった姉は、うまく子供を育てられているだろうか。群れのリーダーという役割、親という役割を一人で担うその重圧に、潰れてしまってはいないだろうか。あまりに人情が厚いがゆえの苦労を、背負いすぎてしまってはいないだろうか。兄と同じく、人ばかり助けて、自分が助けられることを忘れてしまってはいないだろうか。やさしいフクロウである母は、強いオオカミのように振舞うしかなかった父を、やさしく変えられたのだろうか。そしておおかみを信じて、あの絵本とは違う幸せな結末を築いているのだろうか。誰よりも偉大なリーダーであった父は、もはやリーダーとして振舞う必要のなくなった今、ようやく手に入れた自由を楽しめているだろうか。ずっと我慢の人生を送らせてしまっていたから、楽しみ方を忘れてしまってはいないだろうか。あなたは社会や世間という巨大な他の群れから自分の群れを守り、立派に育て切った。この世で最も困難なことを達成した、この世で最も偉大なリーダーだった。これからは好きなことを好きなだけ、親という立場を忘れるほど自由に、何一つ我慢をせず生きていって欲しい。群れはあなたのことを尊敬し続けるが、しかしあなたを縛り付けることはもうしないだろうから。

元の群れに対する帰属意識はとうに薄れつつあるが、それでも自然と彼らが遠い地で良き水場を見つけていることを願っている。我ながら薄情とも取れるこの距離感は、やはり人間が文鳥ほどストレートに感情を表現できないせいで生まれたのかもしれない。それでも、彼らがずっと元気であればよいと思う。

「登れる山を登れ」と言った友人の話

 昔、登山を趣味にしている友人に尋ねたことがある。「やはりゆくゆくはエベレストやアンナプルナ、世界最高の山々を登りたいのか?」と。彼はすぐさま否定した。

「命懸けで登る山に登りたくはない。登れる山を登るのがいいのだ。」

 僕は登山をしたこともなく、登山をする意味さえよく分からない人間であるから、その場ではそういうものかと思い「ふーん」という微妙な相槌をうつことしか出来なかった。

 ここのところの季節外れの暑さのせいだろうか。今まさに北国の涼しさを過ごしているであろう彼を、ふと思い出した。

 よく知らないが、登山は計画と準備から始まると聞く。どの山にいつ登るか、当日の天気はどうか、自分の実力にあったコースはどれか、必要な装備は何か。彼によれば、この工程が登山の一番の醍醐味で、四六時中計画を考えているものだから天気が気になって眠れなくなることもしょっちゅうらしい。自らの目で選んだ装備に身を包み、休憩の際に食べる名産品入りの弁当を携え、いよいよ晴れて世界で最も素晴らしいその計画を実行する。その時にはもう緊張と不安、計画を実行に持っていけた満足感からさっさと帰りたい気持ちでいっぱいになってしまうとのこと。下山する頃には、もうクタクタにひん曲がってしまった、素晴らしかったはずの計画ごと全てを投げ棄てて、タクシー乗り場までどう這いずっていくかを真剣に考えたりもするという。それでも次の月にはまた計画を、それも今度は前回の記録を塗り替えて世界で最もゴージャスかつ美しい計画になると信じて企てているのだから、やはり山には僕のしらない魅力や魔力があるのか、それとも彼はどこかおかしいんだろう。

 そんな彼が「登れる山を登る」だなんて言うのだから、今思えばそれはずいぶん哲学めいた言葉に思える。彼は仕事というよりは彼自身の人生にこそ真摯に向き合っている人間で、結局仕事もそこそこのところで嫌気がさしたらしく辞めてしまった。辞めてどうするの、と詳しく話を聞くと嫁を連れて北にある故郷へ帰るんだと嬉しそうに語った。人間関係の難しい部署にいたとはいえあまりにあっさりと辞めていくものだから、東京からの撤退も北の山への再びの入山もまた、彼の勇敢なる計画のうちだったのかとさえ考えてしまう。果たして彼の眼に東京の山の頂は見えたのか、高すぎて彼に登れる山ではないと諦めたのか、それとも東京は彼にとって登るべき場所もないただの平野だと確かめてしまったのか。もしかすると単に東京近辺の山を登り尽くしてしまって、飽きがきてしまっただけなのかもしれないが。

 ともかく、彼の一言はなんとなく僕の心に刺さったままでいる。まるで持ち主のいなくなったピッケルのように、というのはいささかそれらしすぎるが、小さなピッケルが大きな雪崩や崩落を起こすこともあるというから、あながち変な話でもない。なんとなく、いつかそんなふうなことが起こる予感がしている。ろくに計画も立てない癖に、登れもしない山に憧れる。僕なんかは今までずっとそんな感じだ。いや実際、ほとんどの人がそうだと思っている。なにもやらないけれど、なにかやらなきゃって思う。

 僕がやらなきゃやらなきゃ、とただ焦りだけを積もらせていた三十年の間、果たして彼はいくつの素晴らしい計画を立てたのだろう。彼の、世界で最も素晴らしい計画はどんなに素晴らしいものになって、実際登った山はいくつになって、登れる山はどれだけ増えたのだろう。エベレストなんて怖くて登れないよ、すぐに死んじゃうよ、と笑っていた彼は、いつかエベレスト以外の山をすべて登り尽くしてしまうから、きっとそれまでで一番素晴らしいピカピカの計画を携えて、いつものようにエベレストも登りきってしまうんだろう。帰りはタクシーに乗ってしまうかもしれないけれど、またすぐもっと魅力のある前人未踏かなにかの山を探して、ウキウキしながら計画を立て始めるんだろうな。いつか、ついていきたいな。

シャーデンフロイデとサウダージ、または酸っぱい葡萄

Wikipediaを特集した番組を見た。マツコデラックスさんがマニアックなゲストから独特な世界を紹介される例の番組。ゲストはWikipedianと呼ばれるWikiの制作編集者だった。彼らはボランティアで記事を書いているとのことで、学生時代から度々お世話になっている身としては頭が上がらない思いだ。

システムエンジニアとして働き始めてからも利用頻度は落ちていない。むしろ増えている可能性もある。システム関連の言葉の定義や歴史を調べる時に重宝する。またちょっと変わった用途としては、今流行りのAIに文章や単語を学習させる際の辞書や教師として使うこともある。当たり前のことだが、調べ物としてだけではなく単純に読み物として面白い記事も山ほどある。眠れない夜を何度もWikipediaに救ってもらった僕としては、番組を見たからという短絡的なきっかけになってしまうのが心苦しいけれども、とにかく今後とも一層の発展をお祈りしたい。

先日とあるwebサービスのプログラムを書いていた際に、やはりWikipediaにお世話になった。具体的には「感情を表す単語」をいくつか集めなくてはならなくなったのだが、流石のWikipedia。「感情 一覧」と検索をしてすぐ、まさしくぴったりなページを見つけた。

感情の一覧 - Wikipedia

ああ、こんなにも興味深い単語一覧が未だかつてあっただろうか。僕は思わずプログラムを投げ出してそれぞれの記事を読み耽ってしまった。

特に面白いと感じたのは「シャーデンフロイデ」と「サウダージ」だ。30年ほど生きてきた中で当然人並みにたくさんの感情を抱えてきたつもりだったのだが、まさかこの一覧に一度も使ったことのない言葉があるとは思っていなかった。

シャーデンフロイデ」は「ざまあみろ」というようなもので、ネットスラングで言う「メシウマ」的な感情のことだと理解しやすい。

しかしサウダージの方は難しい。難しいからこそ興味深い。なんとなくポルノグラフィティの曲にそんな歌があったような気がするけど、歌詞までは思い出せない。

なんでも、郷愁だとか憧憬だとか、諦念だとか切なさだとかを混ぜ込んだような感情らしい。感情を表す言葉にとても似合った曖昧で微妙な意味合いだ。難しさの一方で、何か共感しやすい雰囲気も感じられる。自転車に乗りながら楽しそうにしている学生達を見た瞬間胸に浮かぶ、特に夏の夕暮れ時に多いあのモヤっとした感情のことなのだろうか。ひとはこの気持ちをサウダージと呼ぶのか。この歳にして自分の感情の名前を新たに知るとは、なにか胸にくるものがある。これは多分サウダージじゃない。もう少し無学に対する後悔とか直接的な切なさが刺さってるってわかる。微妙さのかけらもないくらいハッキリ痛いぜ。

それぞれの感情についてしばらく読んでいると、いつのまにかリンクをたどって「酸っぱい葡萄」という寓話について読んでいた。これもWikipediaの面白いところだ。リンクをたどって無限に読めてしまう。

酸っぱい葡萄を簡単に説明すると、手の届かない高さにある葡萄に「どうせあんな葡萄はまずい」と吐き捨てる愚かな狐の話である。なんとも説教めいた話で、これまた僕の心の真ん中にグサグサと刺さる。届かないものに対する憧れや持つ者に対する嫉妬を認められず、そのものを悪く言うことで自己防衛して安心しようという浅はかさ。情報が氾濫しているネット社会ではやってしまいがちなことだなあ。ぐうの音も出ない。

いやはやまさかこの歳でお伽話から教訓を得ようとは、中々人間完成しないものだ。前向きに考えれば、これからもたくさんのことを知ることができるし、子供めいた話から大切な生き方を学ぶことができる素直さが僕に残っているともいえる。

シャーデンフロイデと酸っぱい葡萄、どちらもやりがちで、短期的な気持ち良さはあっても人生にとってはよくないね。これからは一層何かを悪く言わず、人を傷付けないように気をつけて生きていこう。サウダージという感情も知れたし、まだまだいろいろなことを知る楽しみを失くさずにいこう。

君にパッションはあるか?

正義っぽさが恥ずかしい

 パッション、という言葉を聞く度に、何か胸やけをするような感覚があった。それを持っているのはまさしく正義であり、それを持たないのはすなわち悪である、という何かぼんやりとした押し付けがましさを僕の嗅覚が訴えていた。他にも努力、根性、使命、やりがい、生きがい。これらもパッションと同様の香りがする言葉だ。なんというかこう、正義っぽいものを名乗る恥ずかしさというか、ついつい「巨人の星じゃないんだから」と揶揄したくなるような、そんなものを感じる。自身をそのようなものとは程遠い人間だと思っていたし、ンーンー言いながら自身の胸を殴るパッション何某さんをみて、なんとなくパッションというものから距離を取りたくなっていたところもあるかもしれない。

 しかし先日、ある先輩の「パッションという言葉は狂気とも言い換えられる」という話をきいて、何か違った視点を持てるようになった。なるほど、狂気。それなら僕にもあっていいかもしれない。なんだか暑苦しくなくて、恥ずかしくない気がする。正義のヒーローは恥ずかしいけれど、狂気のマッドサイエンティストはかっこいい。ならば探し当ててみせよう僕の中のパッションをということで、すこし考えてみることとする。

"はんたい"を考える

 何かを考えるとき、とても便利な方法が一つある。「"はんたい"を考える」という方法だ。とても簡単な割に効果が高いので、僕はこの方法を好んで使う。ソシュールさんやロランバルトさん、いわゆる記号学記号論と呼ばれるような、とても小難しい講義から僕が得た唯一の獲物だ。ラング、パロールシニフィエシニフィアンなんて言葉は僕には難し過ぎたけれど、この考え方だけは学べた。あの神経質でやっかいな試験問題を出す教授の講義を気まぐれに受けてよかった。

 "はんたい"の例を出そう。今日たまたま「漠然とした不安がある」という個人的な相談を受けたり投げかけたりしたので、改めてそれを考えてみたい。

 この方法を使うときのコツは、文字通り"はんたい"を思い浮かべるだけでいい。辞書をひいて正しい対義語を調べる必要はない。自分の言葉で「"はんたい"っぽい言葉」を並べてみるのだ。そこでいうと今回のテーマは面白い。「漠然とした」という言葉や「不安がある」という、はんたいを見つけやすい言葉が複数ある。僕の思う「漠然とした」のはんたいは「明確な」「具体的な」というような言葉だ。そして「不安がある」のはんたいは「安心感がある」と、前半を入れ替えることも出来るし、「不安がない」というように後半をはんたいにすることもできる。では、これらの言葉をそれぞれ組み合わせて使ってみるとする。

明確な安心感がある

具体的な不安がない

組み合わせはいくつかできるであろうが、的を射ていそうなものはこのあたりだろう。ここで翻って元の文章を見てみたい。

漠然とした不安がある

こうして並べてみると、「明確な安心感がある」というのはベクトルや正負が真逆というか、まさにはんたいに進んだ文章になっている。対して「具体的な不安がない」でははんたいではあるけれどもゼロに近い状態、フラットな印象を覚える。なんとなく"はんたい"の言葉を並べて繋げてみたけれど、しかし出来上がった文章の意味が少し違うのが分かるだろうか。

 こうして考えることで、元の文章、つまりは「課題」が解決されている状態を微妙に違う複数のものとして捉えられる。不安を解消すること、安心感を与えること、大きく分けてこの二つの対処法があることがわかるだろう。当然不安を解消すれば自然と安心感が湧いてくることもあるかもしれないし、別の安心感があれば不安なことも減るかもしれない。二つは決して独立したものではないけれど、少なくとも必ずしも同一というわけではないということを認識しよう。

 僕は「漠然とした不安がある」という相談をもらった時、反射でどういった不安なのか探ろうとしてしまった。瞬時に"はんたい"を考えるほど僕の頭の回転は速くなく、どうにか「こうすればいいだろう」という予想を立てて行動を開始してしまったのだ。このように、我々はすぐに「解決された状態」を想像してその方向へ歩き出そうとしてしまう。しかしゆっくりとモノを考えれば「漠然とした不安がある」という少ない情報からでも行動の選択肢を作り出せることを忘れないようにしたい。相手が求めているものが何なのか、伝えられたメッセージはどういう意味なのか、時間をとってでも真剣に考えるように心掛けたい。

 この"はんたい"の話をするときによく用いるのが、日本仕事百貨というサイトのキャッチコピーだ。

日本仕事百貨

生きるように働く

 とてもいい言葉であるのは確かだが、初めてこのコピーを読んだときはよく意味がわからなかった。しかし、この"はんたい"を使うとどうだろう。僕は、この言葉の反対は「死ぬように働く」だと思う。こうするととてもわかりやすい。はんたいの言葉を考えたからこそ、僕はこのコピーに込められた想いに気付けたのだ。

パッションの"はんたい"

 では、パッションの話に戻ろう。なんとなく正義っぽい印象を受けるこの言葉。この言葉のはんたいを考えよう。果たして僕にパッションがあるのかないのか、あるいはその二元論で語るべきことではないのか。

 僕はカタカナ語が苦手なので、まずは日本語に置きかえる。冒頭に話した先輩は、パッションは狂気とも言い換えられるとしていた。ならば、狂気のはんたいを考えればいい。狂気のはんたいで思いつく言葉は正気、正常という感じだろうか。パッションは正義っぽい言葉なのに、狂気のはんたいもやや正義っぽい言葉が出てくる。これらの言葉を自分に当てはめれば、僕は僕を誰よりも正常であるとは到底思えなく、またこんなにも辛いのが正気であると信じたくもない。今のところ正しさとは距離を置いておこう。

 まだ掘り下げたりない気がするので、狂気のなかまを考えよう。偏執、偏愛、猟奇なんかだろうか。それの反対はなんだろう。普通、無興味、無愛なんかだろうか。こちらは対義語らしい対義語が出しづらい。比較的フラットな言葉が自然に出てくる。これらはどうだろうか。僕は普通で無興味で無愛な人間か。いや、なんとなくそもそもそれらが並ぶのも何か変な感じがする。普通の人間が無興味であるとも僕には思えない。そして自分のことを、普通より多少は独特であると表現したい。何より、興味もなければこんなことをこねくり回して考えてはいないだろう。であるならば、僕は偏執の側に立つこととなる。

 狂気のはんたいとは距離が遠くて、狂気のなかまと距離が近い。ここまで考えれば、さすがになんとなくわかってくる。おそらく僕に狂気はあるだろう。それがここまでしつこくこだわる言葉に対する偏執といえるものなのか、ここまで怠惰に語る自分に対する偏愛なのかはわからない。あるいは世界に対する猟奇的な思いなのか、僕は知ることができない。

 そして、パッションが狂気と言い換えられるという話が本当のことだと思えるのなら、ようやく僕は僕にパッションがあると理解できる。本当は、パッションなんてものは正義の言葉でもなんでもなく、むしろそのはんたいに位置する言葉であると理解できる。なぜ僕がパッションという言葉に正義性を感じていたのか、今もどこか自分にパッションがあると認めづらいのか、これはなんとなくわかる。一般的にパッションという言葉がきれいな文脈で使われ過ぎているから拒絶感があるのだ。パッションがあるからここまで来られた、パッションがあるとこんなに頑張れる、パッションを持った仲間と繋がる。これらを全て狂気と置き換えてみればよくわかる。狂人が偏執さを隠さず群れて勝利を得ること、それを綺麗に言っているだけなんだ。狂気だと聞こえが悪いから情熱やパッションという言葉に変換しているんだ。彼らは元はどちらかといえば悪者なんだ。悪者が、勝利した結果を正義っぽく語っているだけなんだ。

 僕にはまだ正義は恥ずかしい。だからこそ彼らがなぜそのようなことをするのかわからないし、気持ち悪さを感じる。よくわからないが恐らく僕と同類なのに、なぜか彼らは正義のヒーローのように振る舞う。嫌だなあ、いつかは僕も、正義のヒーローになってしまうんだろうか。

 君にパッションはあるか?  僕にはどうやらあるらしい。

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労働と人材3.0

前段

 新卒の方のメンター(トレーナー)として半年間後輩指導をし、またプライベートではボランティア活動としてプログラミング講座を開催してきた経験から、労働と教育、ひいては人材について語りたい。

1.0時代

 昭和の時代、もっともっと体育会系の企業が多かった時代。当時は体罰パワハラモラハラなどよく見られる時代であったことは今更いうまでもないことである。

 しかし当然、この手法の全てが失敗であったわけではない。それは特に高度経済成長期において、努力の量と成果が直結しやすい土壌が存在したからそう言えるのである。そして、この指導方法により育まれた優秀な新人達は、圧倒的成果を残していった。すると、その指導方法の正当性が補強されることになる。優秀な彼らをモデルケースとし、それらの教育方法は企業における文化となり綿々と継承されていった。自分もそのように育てられ、これまでうまくいってきたのだからそのような教育を為す。とても自然な論理であると思う。

 ハラスメントや過労、サービス残業の強制など基本的人権の侵害の擁護する気は塵ほどもないが、しかし当時の社会情勢にある種「イケイケ感」があったことは想像に容易い。辛いけれど、頑張った分だけ見返りがある。そう信じられる社会情勢であったのだ。飴と鞭。馬を打つような非常に痛い鞭を打たれる一方で、ヴェルダースオリジナルのようなとてもおいしい飴が目の前にぶら下げられていたというわけだ。

 充分に甘い飴と現在の常識に即した鞭を用意できるのであれば、この手法は優れた人材育成のプラクティスとなるだろう。しかしこの手法の最も難しい点は、指導者となる人間の属人性が高まりすぎる点である。飴と鞭を使い分けるバランス感覚は一朝一夕に身につくものではなく、能力と経験が不十分な人間を指導者とするにはリスクが高い。実際にこの1.0時代の手法をモデルに人材育成を成そうとするのであれば、それを成し得る人材、指導者足り得る人間を教育ないし用意する必要がある。

労働と人材2.0

 次に生まれたのが労働と人材2.0とでも呼ばれるべきものであると私は考える。少々領域はズレてしまうが、ゆとり教育のようなイメージに近い。

 1.0の旧時代的なやり方への反発、人権侵害、犯罪の表面化からこのようなものが生まれてきたのであると私は考えている。加えていえば、ホワイトカラーが増え、ホワイトカラー・エグゼンプション領域のような「各個人の生産性の違い」という議論が熱を持ったことにも因果関係はある。

 社会の相互監視機能が向上し、国民の平均的知性も向上した。すると前時代的な教育手法をそのまま流用することは出来なくなってきた。労働者は労働者としての権利を認識し、自衛のための主張をすることは決して常識外れの異端的行為ではなくなった。そして企業側で言えば、多くの企業は公器としての責任を強く請求されるようになった。1.0でのやり方でいう飴も質の良いものを用意することが難しくなり、より企業はがんじがらめの状況に陥っていると言えるだろう。

 現在管理職についているであろう40〜50代の方々はまさにこの変遷の渦中におられるのである。その困惑と途方のなさには非常に共感を覚える。サイボウズ社やその他働き方改革、HR改革を建前上でなく本気で成そうとしている各企業はこの問題と真っ向から戦おうとしている尊い存在である。私は内部事情は知らないけれど、すくなくともサイボウズ青野社長の発言を見る限り、働き方に対する本気度を感じ取った。

サイボウズ社長の青野慶久が官僚を一喝した本当の理由 | サイボウズ式

 話は変わるが、私はここまで敢えて働き方の話と人材育成の話を混在させてきた。なぜなら私の結論は、労働とは人と人とのコミュニケーションによる生産、またそれが内包する人類の社会性内面化作用を指すと考えているからである。この労働と人材2.0時代がもう少し成熟すれば、労働やコミュニケーションに即殺されてしまう新卒や人生を終わらせてしまうような方は減っていくように思う。希望的な観測ではあれど、私はそれを信じたい。

労働3.0

 私はフリーランスになれとか副業をしろとかそういったことを言いたいのではない。残念ながら今もまだ1.0の時代から継承され、さらに2.0で複雑化した労働と人材に関する義務と権利のスパイラル構造、それを今一度見つめ直す時代が到来しつつあるのではないか。そのような一石にもならない礫を投じているつもりだ。

 大の大人が涙を流し、嗚咽を漏らしながら毎朝定刻に満員電車に揺られることは本当に必要なことなのか、それはルールとしてあるべきなのか。それで心を壊したら誰が責任をとれるというのか。結局のところ自己責任であるというのなら、私があなたの息子に同じ扱いをしてみせたとして、それでも同じことが言えるだろうか。

 逆に言えば、権利ばかり主張して利益をもたらさない労働者など企業が守ってやる必要などない。会社はなかなか人をクビにできないという。そのルールは本当に必要なのか。毎朝定刻に出社するとがそんなにも重要で、欠かせないルールであると心底思っているのなら、それが守れない社員などクビにしてしまえばいいのではないか。現状では中々それは難しいことであると理解している。しかしそれももう、時代遅れの悪法とさえなっている面もあるのではないだろうか。労働、それにまつわる社会は今、新しい時代を迎えるべきように思う。

人材3.0

 もっとも語りたいことはこの点。

 私はそもそもヒューマンリソース、という言葉をあまり好かない。人が資源であることは一定は認めるし、人材、という言葉も常用する。しかしこれらの言葉からは何か無機質な印象を受ける。

 生命というものの尊さを語るつもりなどないが、しかし数値で表されるには生命があまりに崇高であることに疑念はない。現在私は「人を育てる」という立場の仕事を任されている。けれど、私は「育て」ているつもりなど毛頭ない。共に働き、時間を共有しているという認識にすぎない。人はどこまでいっても個人であり、個人はどこまでいっても他人を理解することはできない。生命の特異性、言い換えれば崇高さと独立性がこの問題を非常に難しくしている。一人の人間が救える人はあまりにも少なく、あなたは誰かの人生の責任を100%負うことはできない。万人は平等であり、差異があるとすればその場その場の役割の違いにすぎない。たとえあなたの子供であれど、その子は決してあなたの作品ではない。彼の人生や心をデザインはできない。私はこのような理念のもとで、私は教える側の役割として教わる側の方々と共生している。その間に上下関係を産むことのないよう常に意識して人々に接している。

 時代の変遷により、今を生きる人々が「飴」と感じるものも変化しつつある。それは現金である場合もあるし、彼ら自身の成長である場合もある。何に対して魅力を感じるか、ひいては何を人生の軸に置く人間なのか、社会の多様性の広がりとともにこれらは無限に拡散しているように感じる。

 であるからこそ、企業は1.0のやり方では有効であったはずの「魅力的な飴」を用意することが非常に難しくなって来ている。そんな彼らの成長を手助けしたいというのであれば、まずは彼らの求める飴の全体像を把握するか、そもそも飴以外で彼らのモチベーションと成長促進を促す方法を模索するしかない。自由と束縛、そのような概念の彼岸となる新たな概念を獲得し、人と人としての向かい合い、擦り合わせ、コミュニケーションを我々は取らなければならない。

俺の前で未来の話をするのはやめろ。繰り返す。俺の前で未来の話をするのはやめろ。

 言いたいことは掲題に尽きるのでここからは余談、と今文字に起こしてみて「そもそも余談じゃないことなんて書いたことあったか」と情けない気持ちになった。よって改めてタイトルコールをすることでアニメの最終回的なお茶の濁し方をして自分を慰めることとする。余談の極致ではあるが僕はお茶ならおーいお茶か烏龍茶が好きで生茶はあまり好かない。

俺の前で未来の話をするのはやめろ。

 僕が以前から常々叫んできた主張の一つに「未来のことなんてわかんないんだから、何かを決めつけることはやめろ。生き急ぐな」というものがある。というものがある、と言ってみたものの、いや知らねえよという諸兄の思いも理解できる。だがちょっと待ってほしい。他の主張には「俺専用橋本環奈が欲しい」だとか「水族館の水槽で飼われたい」だとか間違いなく世間の共感を得られる牧歌的なものもあるのでその尊さに免じて僕の話を聞いてほしい。

 未来の話を嫌うようになったきっかけはなんだったろうか。なんとなく最近似たようなことを書いた気がすると思い昔の記事を漁ってみると、二年ほど前に似たようなことを書いていた。

1年後、3年後、5年後どうなっていたいですか?という質問 - ここはクソみたいなインターネッツですね

 尚、二年の月日が流れた今でも全く同じことを叫んでいる僕の成長の無さやすぐ同じ話をしたくなってしまう陰険さなど僕に不利な事実については今回の話と直接関係ないので放っておいて欲しい。

 最近、「不確実性」というなんだかよく分からない言葉が(特にそれっぽい言葉を好むビジネスマン向けの)オシャレワードとして世に氾濫していることは皆様よくご存知の通りである。その言葉を借りるのならば、僕の主張は「不確実性とは向き合えない。諦めろ。」ということになる。また身もふたもない話になってきたが、不確実性なんて難しい言葉を乱用するやつと、それを最先端なものとして崇める社会が悪い(つまり僕は悪くない)。

 そもそもビジネスマンが好む言葉は難しすぎる。なんなんだよビジョン/ミッション/ゴールって。何を指してるのか毎回毎回ググって「ビジョン・ミッション・ゴールの違い」というようなクソ記事をこれまた毎回熟読しないといけない僕の気持ちにもなって欲しい。というかそんなクソ記事がわざわざ作られるような、説明が必要とされる言葉を使うなよ、と僕は言いたい。もっと直感的な言葉を使ってくれれば少なくとも僕にかかるストレスは減り僕が撒き散らす怨嗟もいずれ幸福の鐘の音となり人類の生産性は保たれやがて宇宙に平和が訪れるであろう。これは、諸兄がこれ以上難しい言葉を使うのであれば僕だってよくわからない話を繰り広げるぞという布告、つまりは無慈悲な報復も辞さないという脅迫である。雲が夕日に照らされて美しく輝くこの季節、貴様らにおいてはこのことを臓腑という臓腑に銘じて欲しい。そっちがその気なら的外れな季節の挨拶を小学校の校長のように延々と貴様の母親へと突きつけることも僕には可能なのだから。いいか、これだけは覚えて帰れ。つまりはお前らが悪い。俺は悪くない。

来年の話をすると鬼が笑い俺が泣く。

 話が大きく逸れたのはいつものこととして、掲題の件に戻ろう。今更ではあるが大切なことなので言っておく。僕には、未来はわからぬ。僕は激怒はしないが、未来のことなど何一つわからぬ男だ。今夜食べたいものさえ決められず、未だこの文章の終着点を見据えることもできていない。だが、これは決して恥じるべきことではないと考えている。人間という生き物は理解、把握、掌握できない物事を恐れるものだ。怖いからこそ、計画や規範というものを打ち立て不確実性や未来を制御しようと試みるのだ。僕から言わせてもらえば、そのような人類の熱意ある挑戦はちゃんちゃらおかしい。いやいや無理無理絶対無理だからマジでやめとけ間違い無いっしょといった感じである。

 無理なことを試し続けるその根気というか執念には多少の感動を覚えないこともない。が、まあそれは元気な人がやってください。お願いだから巻き込まないでください怖いから。というのが僕の(負け犬的)思考だ。例えば20年前、携帯電話がこんなにも小さくなり多機能になると絶対の自信を持って世間を口説けた人がどれだけいるだろうか。フリマアプリで現金がトレーディングカードと称されて売買される時代が来ると、誰が予想出来ただろうか。こんな例えは僕に有利すぎて、どこか卑怯に思えるかもしれない。しかしそれは、過去は未来よりずっと確実に決まっており、未来の予測が非常に困難であるとあなたの脳がどこかで認めてしまっていることの証明に他ならない。

 いつ来るか、そもそも来るかもわからないシンギュラリティに期待したり、この仕事はAIに奪われるとか奪われないとかそんな話で無駄に一喜一憂するのはすぐさまやめろ。怖いなら怖いでいいんだから、明日地球がまだ存在しているかどうかさえわからないような未来、巨大な不確実性と無理に向き合おうとするな。何より、それを人に強いるのをやめてくれ。

 僕は、僕なりに人類であることを自認している。つまり、僕は他の人類と同じようにわからないものに怯えている。そんな僕に未来の話をするなど、凶器をちらつかせることと何が違うというんだ。怖いからやめろ。俺の前で未来の話をするのはやめろ。

 どうでもいいけど前半の方が書いてて気持ちよかった。奇しくもこれもまた予想外のことだったわ。