ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

「日本国籍が条件」で門前払い について考えること

【衝撃事件の核心】「やってることはさべつやで」会社に資料請求すると「日本国籍が条件」で門前払い…トルコ人男性“正義”の法廷闘争 - 産経WEST

この記事、奇しくもニートである僕が普段行なっている行為と同じ名前をした方「イエネルさん」が出てきたせいか何か惹かれるものがある。よくよく見ると、なぜイエネルさんは関西弁なのか、なぜイエネルさんは在日韓国人を例に挙げて質問を送りつけたのか、なぜイエネルさんは住所欄に大阪市までしか記載しなかったのかなど思わずツッコミを入れてしまうピースが散りばめられた記事だ。 果たしてイエネルさんはとりあえずの勝訴に至ったわけだが、しかし僕としては

「判決内容は契約の自由および企業活動におけるコンプライアンス上の合理的判断を否定するものであり、控訴を含め検討している」

という会社側の反応にこそ驚きを禁じ得ない。そもそもこの問題は担当者が記載不十分かつ外国人らしいイエネルさんの申込みを適当にあしらうつもりで不適切な一言を返答に入れてしまっただけの話という想像は容易い。それをまあポーズだけかも知れないとはいえ判決に不満タラタラですよ、という態度を取るのは企業として悪手だろう。不適切な発言があったことを認めて謝罪し、今後同じことがないように努めると言うような大人な対応がなぜ出来なかったのだろうか。

日本は差別が多い国かどうか。

調べてもなかなか明らかになるものではないけれど、しかし僕も一人の日本人として日本人は恐怖心と好奇心が強いという印象がある。外国人と明確に比べたわけではないけれど、僕が車椅子に乗っていた時期、確かに電車内や街にいた時明らかな視線をイヤってほど感じた。何かずっとこっちを見ていた青年に、障がいをお持ちですか?と声をかけられたこともある。一言目の印象とは裏腹に、彼は彼なりに僕を助けようとしてくれていたらしい。そのことから僕がなんとなく思うのは、日本人は様々なマイノリティに対してどう対応していいのかよく分からず、しかし何かしらの対応方針を決めたいと考えている生き物なのだろうな、ということだ。実際僕は大学の頃研究の一環で障がい者の劇団を訪れたことがある。研究していたとは言え、確かにその場になってみればどう接していいのか分からず困惑した記憶がある。何が相手を傷付けるのか、どんなコミュニケーションが自分と相手の間に生まれるべきものなのか、全く想像ができなかったのだ。多分、僕はあの時怖がってしまっていた。 こういったことは日常生活でもよくある。こういうタイプの人とはああいう付き合い方をしようだとか、あの人はよく分からないからあまり関わらないでおこうとか。人間はよく分からないものを怖がるというのはよく言われる話だが、日本人は特にその傾向が強いんじゃあないだろうか。自分自身がそうだったからよくわかる。ある程度の対応方針が決まっていれば大して怖くもないんだけれど、外国人やマイノリティと触れ合う機会がとても希少で、まだその経験を日常レベルの習慣や慣習にまで昇華できていないのだと思う。だからこそ、不意に出る言葉や態度が相手を傷付けることも多く、そのことから互いに拒絶感を持ってしまうことになるのだろう。

「結局のところ差別なんて人による」という主張も一理はあるのだけれど、社会的な取り組みとして外国人やマイノリティの過ごしやすい社会を作ろうとしているのならば、もう少しこの問題を解決するやり方は規制を増やす他にもあるんじゃないかと僕は思う。あの時声を掛けてくれた青年は、きっとコミュニケーションを怖がってしまった僕と同じなのだと思う。やろうとしたけれど、やり方が分からず相手を傷付けてしまう、必要以上に身構えて怖がってしまう。こういった問題はやはり交流が'日常'になってこそ解決に近づく話なのだろうなあ。