ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

強い人とか弱い人とか

あの人は強い人だ。

そんな風に形容される人がいる。たとえ本人がそう自覚していなくとも、周りからそう評価される人は確実にいる。 一体何を持ってして強い弱いを断じているのか。僕は昔から、「強い人」とやらに違和感を覚えて仕方がなかった。

強さ、あるいは弱さとは何か

一般的に言われる強さというものは、

「夢がある」

だとか

「めげない」

だなんていう物差しで測られている気がする。naverまとめなんかで纏められている精神論が語るのは、大抵こういったことだ。

けれども僕は、強いと思わせる人が必ずしもそれらを満たしているとは感じない。むしろ弱いと感じる人でも大層な夢を持っていたり、それなりの苦難を経験していたりする。 だからこそ、ただ明るいだけの人を強いとは思わない。まっすぐ信じた道だけを突き進む人を強いとは思わない。僕はむしろ、そういった人を見ると「危なっかしいなあ」とさえ思う。 反対に、ひたすらに暗い人がいたとして、僕はその人を弱い人だとは思わない。生きるのに疲れてしまう人を、僕は決して弱いとは思わない。

弱いことはいけないことか

では僕にとっての強さとは何か。それを語る前に、一つだけ言っておかなければならないことがある。

強くあることは美徳ではなく、弱くあることは悪徳などでは決してない。

これは僕にとっての強さにおいても、世間一般における強さにおいても同じことだ。強くあるのが美徳とされることこそ、むしろ傲慢な社会の重大な欺瞞だ。

誰が強く生きろと言ったんだ。強く生きるも弱く生きるも本人の自由だ。その言葉に靡いて、借り物の意思で借り物の生を歩むことこそ、弱いものの道ではないのか。自らの意志で強く生きたいのならばそうすればいい。弱く生きることを受け入れることもまた、大変な強さを要することだ。どちらにしろ、人に強く生きろなどと言う恥知らずの言葉には、耳を貸さず嘲笑を返してやるべきだ。

僕は心底そう思う。 ありがちな例えを用いれば、人の人生は一枚のキャンバスだ。人の絵をなぞる必要などこれっぽっちもなく、色を現実に合わせる必要もない。描きたいものを描き、描きたくないのならば白紙のままにしておくと良い。その絵の価値など、完成するまで誰にも判断できないのだから。そして、その絵が完成する時にはもう作者は死んでいることになる。ならば、後のことなんてどうだっていいだろう。好きに描くべきだ。

では、僕が思う強さとは何か

結論を言えば、僕が思う強い人とは「考える人」だ。ロダンのことを言っているわけではないが、しかし考える人は像になるほどに美しく、また何よりも尊い。 悩むことと考えることは違う。その二つは、限りなく近く、しかし限りなく遠い行為だ。

考えることは、大切なことを深く深く突き詰め、その輪郭を明らかにする。 悩むことは、大切なことを置き去りにして、何もかもボンヤリとさせてしまう。

信じた道を突き進む人は、信じた道が誤りだったと知った時、どうするだろう。 希望を忘れて悲しむ人は、生きる意味を考え考え考え抜いて、どうするだろう。

一瞬に迸る情熱と、導き出された確かな論理では、総熱量は同じかもしれない。しかし、熱量の質は明らかに違う。確固たる考えを持ち、そしてそれすらを疑い考えることをやめない人がいたとしたら、僕はそれこそニーチェの言う「超人」のような、とても強く尊い人間だと思う。

どちらが良いとかどちらが悪いとか、決してそんな話ではない。 しかし強くありたいと自身が望むなら、やるべきことはただ一つ、「考える」ことだ。

悩むことは無意味だ。人は考えてこそ本質に近づく。

ならばこそ、僕は女子高生にモテないと悩むのではなく、女子高生にモテない理由を冷静かつ多大なる偉大さ及び厳かさを持ってして、今もなお深く深く考えている。