ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

食傷気味の鰐とノスタルジア

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夕暮れ

世界の終わりなんて早々来るもんじゃあない。

ノストラダムスにマヤの予言、2000年問題なんかを経験した現代人には、そう気付いてしまっている人が余りに多い。

けれど一方で、本気で世界の終わりを願う人もまた余りに多くいる。

なんとも皮肉で可笑しいことだと思わないか。僕は本当にそう思うし、これから先もそうなんだと思うと何処か世界に安心する。

そういう話。

僕はオカルトが好きだ。とはいえ本気で幽霊だとかパワースポットを信じているわけじゃあない。現実的にそれらを意識するような経験も才能もないから、信じたくとも信じきれない。そう考えると本気でオカルトを信じている人は、特別な何かを持ち得た人なのかもしれない。

例えば一生をUFOに捧げて果てるだなんて、本当に才能だとしか言えないもんだろう。そんな大それたこと、僕に出来るわけがない。他人の運命を占うだなんて、何も知らない僕がしていいことではない。

才能は適切な場所で生かされてこそ意味がある。これは僕が生きた短い時間で見出した唯一つの真理だといえる。 その点オカルトに熱中できる彼らは世間からいくら笑われようとずっと尊い場所にいる。夢物語のような不確かなものを信じているとして、それを内的に世界という単位にまで昇華させているのなら、もうそれは一つの現実と呼んでいい程の質量を持つだろう。

世界というのは迷惑なもんで、角度によって中々難しい表情を作る。僕と誰かがたった二人で存在している世界があるとして、結局のところ僕はそこに広がる無限の世界と対峙しなければならないことに変わりはない。人が二人以上いればそこにはどうしても社会というものが生まれてしまうから、僕はそんな状況でさえ、したいことだけをする人生などきっと送れない。

自分だけの世界、だなんていう言い回しがあるけれども、そんなものは存在しない。絶対に存在しない。UFOを追う彼も幽霊と踊る彼女も、彼らの中では何かしら対峙するモノが確実にあるはずだ。宗教家にとっての神が確実に存在するように、彼らにとっての相手はいつも彼らを見つめているものなんだろう。世間だったりお金だったり恋愛だったりを必死で追う当たり前の人々と、彼らは一体どう違うというのか。僕らと彼らでは、当たり前のモノが違うってだけの簡単な話なのかもしれない。

だとすれば、当たり前の僕は果たして何を追っているんだろうか。どんな才能があるんだろうか。その才能を持って、何と対峙し夢を見ているのだろうか。そんなことを胸に抱きながら今もなお、僕は自称女子高生の裸体を映す薄汚れたディスプレイを眺めている。