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男性学について

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男性学とは何か

男性学とは、文字通り男性についての学問である。

ジェンダー領域において、女性についての議論は常に意識され、十分とは言えずともそれなりに発展してきた。それは男尊女卑の歴史への反発からとも、文化水準の高まりが人々に知性をもたらしたからとも言える。

しかしその一方で、男性に焦点を当てたジェンダー論は長い間見過ごされてきた。 女性には女性の生きづらさが、男性には男性の生きづらさがある。

ならば女性のことだけではなく、今一度男性の生きづらさ、男性らしさとは何なのか見つめ直そう。 そうした動きから、男性学が生まれた。 歴史上培われた「男性らしさ」という偶像は、今や男性を苦しめる枷となっている場合がある。「自分らしさ」を追求することが美徳となりつつある現代において、僕たちは「らしさ」の呪縛から逃れられない。「男性らしさ」というものは、あまりにはやすぎる時代の変化に追い付けない。男性学は、そのギャップに深く切り込む。

恋愛の男性学

女性は守られるもの、男性は守るもの。

女性の自立を促進させようとする社会の動きがある一方で、こういった思想は未だ色濃く残っている。

それは人々の中だけではなく、社会システムとしての「常識」にまで存在している。女性が男性の戸籍に入籍する、という通例は正にそれを示している。この思想の由来が男性にあるか女性にあるかという問題は難しい。鶏が先か卵が先か、という水掛け論にしかならない。男性が示威のために女性を「所有」しようとしたのか、女性が保身のために「所有」されることを望んだのか。歴史を鑑みても、その答えはきっと見つかりはしない。

2000年代中ごろ、「草食系男子」という言葉が流行した。初めて命名された時期については諸説あるが、2006年の深澤真紀による日経ビジネスオンラインにおける記事が初めて使われたという説が主流である。深澤によると、その定義は

恋愛やセックスに「縁がない」わけではないのに「積極的」ではない、「肉」欲に淡々とした「草食男子」です。

(日経ビジネスオンライン U35 男子マーケティング図鑑 第5回 草食男子http://business.nikkeibp.co.jp/article/skillup/20061005/1... より抜粋)

とされている。また、1994年にギルマーティンが提唱した「シャイマン・シンドローム」という概念がある。こちらは端的に言えば「恥ずかしがり屋」な男性のことを示している。

草食系男子とシャイマン、これらはそもそも男性が積極的に女性に関わろうとする、という暗黙の前提から生まれた言葉である。 真の意味での男女平等が叫ばれている現代社会にも、いかに色濃く男性主導文化の名残が存在しているかがこのことからも見える。そして、そこに「意識のギャップ」のようなものが生まれつつあるからこそ、草食、シャイマンのような概念が流行しているのではないか。 また、インターネットの台頭、更に言えばe-mailの普及がそのギャップ認識を加速度的に人々に広める装置となったとも考えられる。e-mailは私たちに、敷居の低いコミュニケーションをもたらした。結果として恋愛までの道のりは簡略化され、恋愛自体が「常識」として人々に浸透していった。

現代の若者の間では、恋愛は半ば義務化しているといっていい。その証明として、アミューズメント産業や食品産業がクリスマスやバレンタインを「市場」として捉えていることは今更言うまでもない。 パートナーが居る、ということがある種のステータスとなり、反対にパートナーがいない人間はどこか欠陥しているという認識を持たれる。その現状を、当然のものとして人々が受け入れていることは言わば不気味なことだ。

男性学の課題は、問題を問題として認識することが第一の関門であると僕は思う。

そもそも「らしさ」というものについて男女間で認識を共有できていないという指摘もある。

女性は痩せ形のモデルに憧れることに対し、男性はふくよかな女性を好む。逆にボディビルダーに女性は強く反発するのに対し、男性はそれほど反発しない。

これは『女性学男性学 ジェンダー論入門』(伊藤公雄 樹村みのり 國信潤子共著 有斐閣 2002年)の一部要約である。

これが正しいとするならば、男女共に異性の視線よりも同性の価値観を重要視しているとも考えられる。男の話をする女は、大抵女に対してその話をしているのである。

異性との交際がステータスであり、価値観を同性寄りに設定するのであれば、それは同性に対する自己演出の一環、言わばパフォーマンスとしての恋愛である。異性との恋愛は、同性という観客に向けて繰り広げられるものなのだ。

現代の若者達は主に同性という社会からの承認を求めており、その手段として恋愛をとっている。そして、それを相互に確認し合うことでアイデンティティを獲得していくというプロセスを持っているのではないか。大きい話をするわけではないが、晩婚化や少子化の要因の一部として、あるいはこの意識の変化が影響しているのかもしれない。

まとめ

以上の全てを文脈として捉えると、男女の「生きづらさ」はむしろ同性同士の間に生まれているものであるように思える。互いに悪循環を構成し、真の意味で「自分らしさ」を求めようとする時代の流れにうまく対応できていない。僕らの根底に存在している男女不平等感がさらなる不平等を生み、ステータスやアクセサリーとしての恋愛を互いに求めていることになる。

当然、「自分らしさ」というものを求めることについての是非はそれぞれの意見があっていい。しかしそれを望む人々にとってこの問題は大きな壁として立ちはだかることは確かだ。

グローバル化が進み、文化の進化はさらに加速していく。その中でこの問題は取り残されてしまう。人々の認識を深めない限りは表立って何か事が起こることはない。解決すべきであるか、放置すべきであるか、安易な結論が出せる問題ではない。しかし、表面化しづらい問題こそが更なるうねりを生み出すのは世の常だ。「生きづらさ」に苦悩する僕ら自身が作り出す「生きづらさ」は、果たしてこれから僕らに何を齎すのであろうか。少なくとも僕は、この問題を認識する人々が少しでも増えることを望んでいる。

そしてなにより、なんかいい感じにかわいくて性格も良い女子高生が合法的にぼくの生きづらさを心身を持って解消してくれることを望む。