ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

鬱病患者から見る座間の事件

http://m.huffingtonpost.jp/2017/10/31/zama-case_a_23262698/

座間の事件については上記参照のこと。

彼がシリアルキラーなのか異常性欲者なのか、あるいは希死念慮を持つ人々にとっての救いであったのかはわからない。

事件について意見をするのは彼のこれからの供述をしっかりと見定めた上行いたい。

僕はそれよりもいま、ツイッターで「#自殺募集」というハッシュタグが流行っていることについて語りたい。

生きたい人と死にたい人は紙一重

今はそんなことはないが、僕自身昔はよく首を吊る想像をしていた。死ぬ方法にこだわりはなかった。電車に飛び込むのでもいいし練炭でも漂白剤かなんかを混ぜて死ぬのもいい。当時は完全自殺マニュアルという自殺の方法を痛みや綺麗さで評価する本があった。そこで一番お勧めだとされていたのが首吊りだった記憶があり、なんとなく自殺をするのならば首吊りがいいかなと考えていた。

改めて断言しておきたいのだが、今の僕は決して死んでしまおうとかは考えてはいない。

しかし、気分の落ち込みや気分の高まりが病気によってうまくコントロール出来ない人にとって、死なんてものは本当にすぐそばにある、いや寄り添っているものだと思う。痴漢をしてしまった男性の何割かが「魔が差した」と供述する。彼らの言っている「魔が差す」という言葉について、僕は本心から共感ができる。

痴漢や暴行、飲酒運転や殺人や自殺なんて正直いつでもどのタイミングでもできるものだと思う。ではその逸脱行為をする人としない人の差は何なのだろうか。僕はなんとなくまとまってはいないが想像がついている。

上記した逸脱行為の内、暴行や殺人に関しては例えば「怒り・焦り」という感情がトリガーとなって行われる行為であると思う。

しかし常習的でない痴漢、そして自殺というものについてはその明確なトリガーがない行為のように思えてしまうのだ。

そのトリガーのようなものがないからこそ、行為に至ってしまう人は本当に紙一重なんだと思う。この瞬間ホームに飛び込むかどうか、その瞬間の気分によって決まってしまう。それも実は気分なんて言うほど大したものでもなくて、言わば単なる「思いつき」とか「ひらめき」なんていう弱い衝動でことは起こってしまうのだろう。

僕はそんなようなことをずっと考えてきたから、単体で自殺を行なってしまう人の気持ちはとても理解できる。

自殺募集をする人々について。

では、自殺募集をしている人の気持ちはどんなものなのだろうか。

正直に言って、僕は彼らのその行動を全く理解できない。

例えばツイッターで自殺仲間を募ってスケジュールを合わせて実際に会って死ぬ。

鬱病だった僕から言わせると、この工程はかなり長く、目的もよくわからない行為だ。先述した通り、僕が持っていた希死念慮というものは本当に単発でふいに訪れるものであった。例えば今日すごく死にたいな、という日があるとして、それが来週まで続くかどうかは僕自身にもわからないものだった。

彼らと僕の違いは一体なんなんだろうか。鬱じゃなくて面倒くさがりな僕としてはそもそも自殺だろうがカラオケだろうが予定なんて立てたくはない。しかし彼らは彼らなりの手続きを踏んで、長いやりとりを経て知らない人と知らない地で死のうとしている。もしかすると彼らは僕に比べ、死をしっかりと予定していたいのかもしれない。死んでもいいや、という意識ではなく、間違いなくこの日に死ぬんだと決め込んでいる。彼らの根元的な死への欲求が僕より強いと言ってもいいのかもしれない。僕のような短慮的に死にたい人間は瞬間風速的には彼らを上回ることはあっても、やはり継続性という面では彼らの方が希死念慮が強いのかもしれない。

死にたい気持ちには、二種類あると僕は思うのだ。 瞬間的に痛いものと、継続的に痛いもの。これはちょうど怪我と病気の関係に似ている。

それでもやっぱり、彼らにしろ一緒に死ぬ人が欲しいというのは人が社会から離れられない生物であるという証左なのだろうか。

その点についても僕なんかは不思議に思う。死ぬ寸前に知り合った人と一緒に死ぬことに何か価値があるとは思えない。彼らのその一人で死にたくないという欲求は一体どこからくるのだろうか。

例えば集まった彼らに、今日死ななければ500万円をあげると説明したとして、それでも彼らは今日死ぬ事を選ぶのだろうか。