ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

大人になっていく友人達へ

友人達よ、僕は既に道行く可愛い女の子や素敵な女性を見かけども昔ほど熱量のある何かしらの感情を抱かなくなった。それは己が精神が無明の闇を破しかけている嘉すべき変化なのか、若き情火が消えかけている忌むべき凋落なのかよくわからぬままなのもまた僕に打ち棄てられるような諦念を抱かせる。また近頃ではそもそもその或る女性が小学生なのか中学生なのか高校生なのかはたまた大学生なのかさえ更に頼りなくなったこの双眸を出来るだけ大きく瞠き漸く的外れな推考に至るようだ。

ふと気がつけば僕は所謂アラサーと呼ばれる世代に至り、恐らくは敬愛なる聡明な我が友人らもまたその事実に気付き始めた頃合いかと思うが例えば僕は先程大手町の乗り換えにおいてたった数段ばかりの階段を登りきる頃には息も絶え絶えまるで蟇のやうに胸や腹をふくらませてはへこませてふくらませてはへこませて、あまりにそれが続くためこのままでは産婆でも呼ばれようかと気が気ではない思いをした。若かろうが老いてようが全盛期であろうが安定期であろうが衰退期であろうが悉く平等に過ぎる時の流れを憎し憎しと呪うことに日々を費やせば、それまた幾らか歳をとる。是非もなし。漸う世俗に疎くなることに無惨を覚えるその老いた性質こそが若かりし日への憧憬を招く悲しさに他ならぬ。最早我々が時間に賜る報いは昔語りに小さき花を咲かすことのみか、子供のすくすくと聡く賢しくなる様を草葉の陰から見守りくすくすと笑みをこぼすことのみか。悲しきは僕に子供をつくる鉄の意志のないことよ。