ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

主人公っぽい人っているよね

「主人公感」という神秘性

そりゃ誰もが自分の人生を精一杯生きてる訳で、各々の人生において自分が主人公であることは当然だし自然だと思う。けれども、僕は"なんかこいつ主人公っぽいなー"と感じさせる人間が一定数存在するのもまた知っている。一つのコミュニティに一人いるかいないかの特別な存在。学生か社会人か、職種や年次、役職やはたまた顔の良さや性格なんてものも全て関係なく、なんとなく「こいつは主人公で、これからもそうありつづけるんだろうな」と僕に予感させる人がいる。主人公感がある人、僕はそういう人に憧れ、彼らをプロタゴニストやプリンシパルと呼んでいる。

彼らはよく"意識高い系"と揶揄される人とは当然違う。かといって"本当に意識の高い人"というのもまた違う。"主人公感"を出せる人間というのはなんというかもっと自然な雰囲気を持っていて、所詮何かを意識して演じようとしているそれらの人間達とは決定的に違うものを持っている。彼らは主人公役をやっているのではなく、主人公そのものなので、むしろ物語にされ演じられる側なのだ。何者かになろうとしている所謂"演者"とは最も遠い位置にいるのが彼らなのだ。それらしい表現は「カリスマ」かもしれない。けれども「勝手に人が集まってくる人望のあるやつ」とかそういうポジティブな要素を持つ人間のみが主人公感を持つかというと、それはそうでもない。

物語に喜劇や悲劇、神話やジュブナイルがあるのと同様に、彼らの持つ「主人公らしさ」のベクトルは人によって本当に様々だ。暗澹たる道に倒れゆく主人公であったり、自信に満ち溢れ正道を歩む主人公であったり、飄々とした雰囲気を纏い全能を思わせる人間だったり、未熟さの中に果てしない将来性を垣間見せる青臭い人間だったり。僕が今まで見た主人公感を持つ人々には、何一つ共通点がないのだ。何一つ共通点がないように思えるのに、彼らは彼らとしてそこに在るだけで、僕に言葉に出来ない感覚、デジャヴ、リフレイン、追憶と焦燥をもたらし給う。そういった意味では、彼らが持つ唯一の共通点は、僕にそういった感情を持たせる神秘性だと言えるかもしれない。彼らのどこが僕に主人公らしさを感じさせるのか、彼らの何が彼らを主人公足らしめているのか。その神秘性にこそ僕は憧れを抱かずにはいられない。

「大人になる」ということの不可解性

高校のクラスメイト、大学のサークル、前の会社、今働いている会社。今まで僕が所属していた全てのコミュニティや空間に僕が言うプリンシパルたちは存在していた。一つのコミュニティに必ずいる人種というわけでもないだろうから、本当に偶然にそういう人を僕がよく見てきたんだと思う。やはり彼らを近くで見ていた影響か、僕は結構長い間、それなりに強い想いでそういう人になりたいと考えていた。またそうなるべく努力をしていこうとも思っていた。しかし最近その考えは薄れてきていて、やはりあくまで僕は脇役か端役、過大評価して精々アンタゴニスト(敵役)というところだろうと思い始めている。そして例え僕が何かの役割を演じられたとしても、むしろ役割が人の形になったかのようにさえ思わせる彼ら「主人公」との間には、絶対的な隔絶がある、まさしく此岸と彼岸だということを理解し始めている。

なんとなしに、等身大の自分の姿というか限界というか諦めというようなものが見え始めてきているんだと思う。昔は「いつまでも尖った人間でありたい」と考えていたのに、結局そうなれなかったばかりか、「そう成れなくてもそれはそれでいいか」とさえ思い始めている自覚がある。理想と現実のギャップ、という簡単な話ではなくて、理想とするもののそもそもの基準が'スライド'(変化でも退化でも進化でもブレでもなくスライドというのが相応しい)している感覚だ。

友人にそんな話をしたところ「大人になったってことじゃない?」と簡単に片付けられてしまい、なんだか納得がいくまで議論をさせてもらえず、幾許かの寂しさと悲しさを覚えた。きっと、この不満感というか未達感みたいなものさえ僕がプロタゴニスト足り得ない所以なんだろう。友人が言ったように僕が大人になってきているんだとして、僕は自分自身のことなのにその「大人になる」という変化に不可解を感じている。大人になるということは一体どういうことなのだろう。僕は確かに、自分自身に何かしらの波が立っている、「自分が何かになってきている」という感覚だけは持っている。しかし何になっているのかは分からない。だからこそ不可解なのだ。僕はどうやら、なりたかった「主人公」にではないけれど、また違う何かになりつつあるようだ。果たして本当にこれが大人というものなんだろうか。"これぞ大人"という漠然としたイメージは持てるけれど、自分がそうなっていく自覚や道程というものは極めてあやふやだ。人は僕が大人になってきていると言う。しかし僕自身は僕自身が何になりつつあるのか分からない。果たしてそれが善いものなのか悪いものなのか、喜ぶべきものなのか悲しむべきものなのかもよくわかっていない。

別の友人がこんな話をしてくれた。彼に死が迫った時が二つあった。一つは能動的な死、つまりは自殺願望。二つは受動的な死、事故や病によって生が脅かされること。彼は、死という同じ事象に対してのことなのに、出てきた感情や考えが全く違うものだったと語った。それもまた神秘性があり不可解な話だ。

主人公らしい人が主人公としてただ在ることの神秘性、僕が無意識に何かになりつつあるということの不可解性。なるのか、あるのか、なろうとするのか、あろうとするのか。それらはとても似ていることのように思える。しかしその能動性と受動性、ほんの少しの角度の違いが、きっと人の持つ世界や物語、人生そのものに大きな違いを生んできているのだと、僕は最近そんなことを考えている。