ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

正当な対価を要求するための責務、またその難しさについて

前回のエントリで不適正な対価で優秀な人材を雇おうとする企業について、長々と批判と愚痴をごちゃ混ぜにして書いた。

社員に「クリエイティビティ」,「イノベーション」を求める企業と支払う対価について - ここはクソみたいなインターネッツですね

この問題に関し、翻って求職者や労働者、つまり雇われる人間の側にはどんな責任があるのかを改めて考えたい。一連のエントリが、単なる一労働者の企業に対する愚痴になってしまっている現状から脱却したいという思いだ。

自身の価値を伝えることの難しさ

結論から言って、雇われる側の人間が正当な対価を要求するためには、自身の価値を雇う側にアピールすることが必要だ。

就職や転職、評価面談の際に自身が積み上げてきた実績、現在の能力とその価値を正確にアピールしなければ、適正な対価など得られるわけがない。しかし、それはとても難しいことだ。上手くそれをこなせている人間は非常に少ない。

その"難しさ"は一体どこからくるものなのだろうか。

事例

僕は以前所属していた企業にて、ある制度を作った経験がある。その制度とは、企業が定めた数十の評価基準について被評価者があらかじめ1〜5の定量的な自己評価をつけておき、評価面談の場で実際の評価と突き合わせ、そのズレについてすり合わせを行うというものだ。正当な対価を要求するために自身の価値を数値化する。これは正に"自身の価値をアピールする責務"を実行させる制度であった。そして、この制度を実施することにしたきっかけは、労働者側に「自分が正当に評価されていない」という不満が散見されたことだった。果たしてその結末はと言えば、この制度は失敗に終わった。一度か二度と実施した後、僕が想定していた不満の軽減や労働意欲の向上といった効果が全く得られていないことが分かったのだ。

なぜこの制度は失敗したのか。なんとその原因は被評価者にあった。評価に不満を持っていたはずの被評価者たちのほとんどは、杜撰な自己評価を行ったのだ。ある人は事実として残したはずの成果を低く申告し、ある人は根拠もなく自身に高評価を付け、ある人はすべての項目を中間の点で埋めた。一方で当然ながら評価者は被評価者の実績データを根拠とし、出来る限り公正な評価を持ってきた。評価者からすれば、被評価者が提出した自己評価は余りにも粗慢であり何の参考にもならない紙切れに過ぎなかった。この制度は、この制度を欲していたはずの被評価者が原因で失敗したのである。これは僕にとって、予想外の事態だった。

なぜ正確な自己評価が出来ないのか

僕の考えでは、この問題には二つの原因がある。

一つ、そもそも人間は自身を正確に認識することが苦手な生き物であること。

二つ、実績のアピールと自身の誇示を混同していること。

人間にはアプリオリな機能として、虚栄心、闘争心、猜疑心、敵対心、嫉妬心、羞恥心など自身を大きく見せたい欲求や、逆に自身を小さく見せたい欲求などが備わっている。極論として、人は物事を主観でしか捉えられない。可能な限り客観に寄せようとしても、やはり主観的客観という不確かな客観性までしかどうしても到達できない。それは自分自身を"観る"ときも同様であり、そして主観というものは基本的に先に挙げたような感情による影響を受ける。例え観る対象が定量的に測れる実績や明確な事実であったとしても、それをどう捉えるか、どう観るかという点には感情の影響がでてしまうのだ。自分自身のことを定量的に評価する場合、思い入れ、つまりは感情の強さが他者へのそれとは圧倒的に違う。感情のバイアスがより強くかかってしまうのは道理であると言える。感情が多様であるように、それがもたらす影響の方向も様々だ。客観的であろうとしすぎれば恐怖や恥ずかしさといった感情のバイアスから自身を過小評価してしまうし、主観のみで捉えようとすると虚栄心や闘争心といった感情が過大評価を呼んでしまう。反対に、他者を観る場合は思い入れに比例して感情のバイアスは弱くなり、比較的客観的らしい判断ができる。要するに、人は自分のことになると冷静さを欠きがちなのだ。

二つ目もそれに連なる話であり、冷静に考えれば、自身の正確な価値を評価者に伝えることは必要なことで、恥ずかしがったり謙遜などをすべきことではないと理解できるはずだ。しかし冷静さを欠いた人間はそれが分からなくなってしまう。積み上げてきた成果を正確に伝えれば良いだけだというのに、どこか「自慢話のようになってしまうのではないか」とか「あの人に比べればまだ自分はダメだ」だとか、不必要な謙遜や卑下をしてしまう。一般的に、自分はまだまだだ、というフレーズは向上心を示すポジティブなニュアンスを感じさせる。たしかに謙遜は美徳であり向上心があることも優れた資質であると言える。しかしこの場合では、それらはなんの役にも立たない。正確な事実を伝えるべき場でのそれらは、観たいものをボヤけさせるフィルター、磨りガラスで作られたレンズの様なものだ。謙遜や卑下、羞恥やセルフハンディキャッピングはこの場では一切必要がない。当然、虚栄も誇張も同様だ。ありのままの事実をありのまま伝えるだけで良いはずなのだ。

この問題をより難しいものにしているもう一つのこと

残念ながら、現実社会においては先述した二つの原因を克服したとしても正当な対価が必ず得られるわけではない。

これまでの話は全て評価基準が定量的に測れるものであり、かつ評価者が職務に忠実公正であった場合の話である。現実には、評価基準がそもそも定まっていない場合や、曖昧かつ定性的かつ不透明な基準が設定されている場合、評価者の主観的な好き嫌いが大いに評価に反映される場合もある。むしろそういった環境の方が割合としては大きいだろう。

つまり、非常に悲しいことではあるが、僕が先程不必要だと切り捨てたはずの謙遜やセルフハンディキャッピング、虚栄や誇張というものが、処世のテクニックとして非常に有効なものになってしまう現実があるのだ。無能な人間が上司や評価者に気に入られているだけで高評価を得たり、実績の伴わない"やる気"や"向上心"を不必要な残業をもってして表現する人間が「あいつは頑張っている」と評判になることなんてザラにあることだ。これはこの社会を構築する一人の人間として悲しいことで、恥ずかしいことだ。

そして更に、僕が最も悲しく最も恥ずべきことは、今のところその状況を打破し得る考えを僕が持ち合わせていないことだ。