ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

かなわねえな

かなわない、僕は善い人間には、かなわない。

僕は、世界には善い人間がいることを知っている。そしてその少なさと尊さもまたよく知っている。

善い人間はいつも僕を助けてくれる。悩みごとがあれば一緒になって考えてくれて、放っておいて欲しい時は放っておいてくれる。何かをお願いすれば快く引き受けてくれるし、僕が何かをお願いしたことを喜んでくれたりもする。少し時が経てば、最近どうだと不意の連絡を寄越してくれ、正にそれが欲しいというタイミングに僕の心配をしてくれていたりする。そして、僕に心配をさせてくれることもある。

善い人間は、きっと僕以外の人間も助けている。彼等はいつも誰かの為に考え、行動し、一緒になって喜んでいる。少なくとも僕にはそう見える。本当にかなわないよ。仕事をして生活をして、彼等にも僕と同じような暮らしがある。彼らも僕と同じように悩むことだってあるはずなのだ。しかし彼等は僕と違い、いつだって優しく善い人間でいることが出来る。どうしていつも、凪いでいられるのだろう。なんでそんなに、静謐であれるのだろう。

僕はといえば、根っこの部分からもう善くない人間だ。善悪の二元論で語るならば、当然僕は悪人に近い側にいる。私欲が喉の渇きのように付き纏い、呼吸をする度に厭忌の粘りは増す。これぞ嫌な人間というような行動を取ってしまうこともあり、本当に嫌になるよ。こんなことばかりの時間と、こんなことばかりの自分が。そしてどこか善い人を羨んでしまうこの浅ましさも。

それでも僕は今、仕事や生活、この暮らしにそれなりに向き合った形で日々を費やせている。僕が思うに、その少しの前向きさの源泉になっているのはやはり、今や今までに一緒に居てくれた善い人達の存在であると思う。これからくる過去も、これまで見た未来も、全部が全部彼等のお陰であって、それが心から分かってしまう。本当にかなわないと何度も思い知らされるよ。

僕はやはり、彼等のように穏やかでありたい。病める時も健やかなる時も、そうありたい。ただ生きているだけで苛烈さは寒風の如く吹き荒ぶけれど、もうそれに慣れるのも嫌なんだよ。もう彼や彼女にかなわないと思い知らされるのは、嫌なんだよ。

善い人間って奴は、ほんと参っちゃうよな。