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人間の才能について最近考えること

眼差しという才能

 性質ともまた違う、もっと潜在的かつ根本的な領域で、天才的な眼差しを持つ人間がいる。上辺に踊らされることなく、本質を見抜こうとするその鋭さは正に才能と言える。最近そういった才能を持つ人々の強さをまざまざと見せつけられることがあって、非常に感銘を受けた。彼らに物事はどう見えているのだろう。僕は飽きっぽく専門性を高められない人間であるから、どうにかして彼らの才能を盗みたいと常々考えている。しかしなかなか難しい。ふとした瞬間に甘えのようなものが出てしまって、充分に真理を探究出来ない。正しくは、その努力を継続することが出来ない。僕は、意識して努力しないとその眼差しを持つことが出来ない。

 歳をとり、人の才能に嫉妬をすることが減った。嫉妬する前に尊敬してしまうようになった。これはこれで善い変化にも思えるが、対抗心というか、強いエネルギーをもって彼らと対等以上の眼差しを持ち続けようという意志が揺らいでしまう。諦念をつらつらと書くのもあまりにデカダン過ぎるか。しかしまあ、若い才能や若さという資質にはどこか眩しさを感じるようになってしまったのは事実だ。羨ましいとも妬ましいとも思わない。ただただ感嘆してしまう。失いたくないものだ、若さというものは。

努力を継続する才能

 元々の能力、成長速度に驕らず努力を継続できる人間がいる。これもまた相当な才能だと言える。そして僕が持ち得なかった才能だ。最終的に勝つのはこういう人だ。驕らず努力を続け、気がつけば誰よりも専門性や信頼を獲得している。少しずつの積み上げを苦に思わず、堅実に信用残高と能力を身につけていく。素晴らしい。僕が一番欲しかったのはこの才能だ。そして僕が凄まじく遠い距離を自覚しているのもこの才能に対してだ。

 四半世紀以上生きてきたことによって、一瞬の辛さにはある程度耐性が出来た。しかし継続的な苦しみにはまだ弱い。とくにエンジニアという職種においては、日々進化していく技術を追わなければならない。考えれば途方も無い話だ。常に新しいものをキャッチアップしていかなければならないわけであるが、しかし確かにそれが出来る人間は一定数いるのだ。先程僕は歳をとり、妬みや羨みを持たなくなったと言ったが、僕はこの才能を持つ人に対しのみ未だ劣等感を覚える。客観的に捉えて、明らかに彼らの方が優れた人間だと僕の眼差しは語っている。

素直さという才能

 自分が分からないことを素直に認めることは非常に難しい。自分に非があるなんて考えたくもない。歳をとるということはそういうことだ。人間は元来嘘をつき誤魔化す能力に非常に長けている。残念ながらそれが役に立つシーンも確かにあるのだが、基本的にそれは素直さという才能に勝てることはない。素直でいられる人は自然と周囲の人間に助けられ、人を助ける。何事も真摯に受け止め吸収する。そしてまたそれが同時に人々を助けることになる。他人を巻き込み、他人から吸い上げ他人に還元する。理想的なサイクルだ。

 僕が自分から最も遠い才能であると感じるのがこの素直さという資質だ。もはや距離がありすぎてそうなりたいとも思えない。自分が少しも近付けないからこそ、本当に心から尊敬できる。

 たまたま今所属している組織にはこの才能を持った人が多く、その点で言えば僕は非常に恵まれている。彼らは常に自らを省み、人の意見を素直に受け止める。本人はただがむしゃらにか自然にか生きているだけなのかもしれないが、僕のような上辺だけではない本当の意味での他人に対する尊敬、自身に対する謙虚さを忘れずにいられる人間はまさしく彼らしかいない。彼らとは非常に付き合いやすく、共にいるととてもいいことがある。なんだか、彼らの放つ眩いばかりの光は僕さえも明るく照らし、僕の抱える醜い部分を消し去ってくれるような感覚がある。

 人の上に立つ者がどうあるべきなのかは僕にはわからない。しかし、僕は少なくとも共に歩くのならば素直な人がいい。

魅せ方という才能

 世の中には、自分の魅せ方が極端に上手い人がいる。他人からどう映るか、どうすれば自分に利のある見え方をするか、彼らは自然にその観点を持ち続けられる。刹那主義かつ快楽主義の極みのような人間である僕には、当然ながらこの才能もない。やることはやっていても、すごいことをやっていても、それを巧く魅せることができない。普通の仕事を普通にこなしているだけなのだが、何故か根拠もなく信頼したくなる人はいる。

 キャラクターというよりは、セルフプロデュースに関する才能なのだろう。この才能を持つ人が困っていると、無性に手を差し伸べたくなる。堪え性のない僕なんかは、いくらいけ好かない相手でもすぐに助けようとしてしまう。弱みの魅せ方まで彼らはうまいのだ。計算づくだとしても素晴らしい。この才能だけは唯一自分になくてよかったと思う才能だ。思うに、僕は魅せ方が下手だからこそ平凡にまで成り上がれた。この才能があったなら、僕は無能も無能、何も出来ないくせに口だけ達者な奴になってしまっていただろう。

楽しめるという才能

 何をやるにしても楽しめる人間がいる。信じられないが、確かにそんな奴がいる。何か異常な神経伝達物質が脳内に充満しているのではないかと疑ってしまうくらいの奴だ。彼らは果たして本当に僕と同じ種族の生き物なんだろうか。何をやっても楽しいならば、きっと彼らは何にでもなれる。好きこそ物の上手なれという格言があるけれども、ならば彼らは全知全能になり得る存在とまで言えるかもしれない。

 働くのが楽しいという人に、思い切って聞いてみたことがある。何がそんなに楽しいのか、家にいる方が楽だし疲れないんじゃないかと。すると彼はこういった。

会社で仲のいい奴と集まれるってだけで楽しくないか?

 僕には全く同意できない発言だった。例えば家に帰るのが嫌な理由があるとか多動的な性質があってじっとしていられない等の話なら理解出来なくはないが、彼の場合はそうではなさそうだった。もう全くもって意味不明だ。人生を美しいとか、生きてるだけでいいことだとかいう人はもしかするとみんなこの才能を持っているのかもしれない。少しの理解も共感も出来ないが、生物として最も優れた才能はこの才能だと感じる。

非才を自覚する才能

 僕が唯一持ち得た才能はこれだ。僕にはどうやら上に挙げたような才能はない。彼らと同じ空の下で同じように生きているはずなのに、僕はやはり彼らのようには生きられない。

 勘違いしないでほしいのは、これを悪いことだと考えているわけではない。諦めが肝心なんてよく言うけれど、僕はそこに関しては非凡な才能を発揮できるというわけだ。

 自分は天才だ、やれば出来る子だ、と思い続けてきた四半世紀。それは長い年月だった。しかし僕はこの才能故にその莫大な時間の威力を凌駕する熱量で、自分を諦めることができたのだ。この点について、僕は自分の才能に感謝の念を覚えている。

過去の自分と今の自分を振り返って

 恐らく、前職の同僚達は僕の能力を低く感じていただろう。彼らの意見は一方では正しい。みんながそれぞれ持っている上で列挙したような才能がぼくには欠落していたから、そう見えても仕方がない。

 みっともないようだけれども、僕はもう人になんと言われようが誰にどう見られようが本当にどうでもよくなってしまった。自分が明日生きていようが死んでいようが本当にどうでもいいのだ。世間体とか、お金とか、生きる意味とか、全部が全部どうでもいいのだ。今はまさしく慣性の法則に従順に、ただただ日々をこなしている最中であるし、恐らくこれからもきっとそうしていくのだろう。他人に叱られても嫌われても何も思わない。仕事上の建設的な話は半ば無我の境地というような感じではあるが真摯に聴く。一生懸命という程は決して頑張れないけれども、それなりの質でにそれなりのことをそれなりの速度でそれなりにやれる。それが僕の今のところだ。

 しかし一方で、それでもどこか心の中に自身の才能を見つけ出したいという無自覚の欲求があり、ぼくの心は未だ無知の知と呼べるほど成熟はしていない。この厚かましい感情は不思議なものだ。救えないのは、先述したような才能のある人間、または成熟した人間になりたいというわけでもないところである。このままの僕で出来ること、なれるポジションのようなものを模索しなければならない。何かいいアイディアがあったら教えてくれ。