ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

誰がために鐘を鳴らす

マジカルナンバーという概念

 マジカルナンバーという言葉がある。ジョージ・ミラーという心理学者が提唱した仮説/概念であり、人間が短期的に記憶できる物事は7±2個程度であるという話だ。彼自身7という数自体には確信を持っていたわけではなかったそうで、近年ではネルソン・コーワンが提唱した4±1の方がより正しいとも言われている。

 このマジカルナンバーという仮説はUI設計、マーケティング自己啓発など様々なジャンルに応用されている。人が日常的に隙間時間を費やすスマートフォンのアプリは3〜5つ程度であるとか、UIにおける操作方法及びボタンの数はより少ない方が優れているとかそういった論の補強に用いられる。

 経験則でいえば、確かにやるべきことが4±1を超えた数蓄積されると脳がこんがらがってしまうというのは一定の説得力を感じる。仕事や勉強においてタスクが詰まっており、「次はなにをすればいいんだっけ?」と記憶/判断力の鈍りを実感した経験は誰にでもあるだろう。そういった混乱を避けるために私達はTODOを管理するアプリケーションを利用したり、またアナログな方法として付箋でやるべきことをメモしておいたり、手帳に予定を書き込んでおいたりする。

集中と散漫

 マジカルナンバーという概念の正当性は置いておいて、何かに集中していると別の何かが見えなくなってしまう、ということは確かだ。下手をすると目の前のことに過集中してしまい、今やっていることの本来の目的やより本質的な問題を忘れてしまうことさえある。

 例えば私は今後輩のOJTを行なっており、度々OJT用の資料作りや計画の修正をしている。それはそれで重要な作業ではあるのだが、しかしその作業をしている間、後輩に「話しかけづらさ」のようなものを感じさせてしまっていることがある。その仕事における本来の目的は後輩の成長を促進することであり、計画を立てることや資料を作ることは手段に過ぎない。頭では理解している筈のこの事実がすっかり見えなくなってしまって、今目の前の仕事こそが最重要なものであると勘違いしてしまうのだ。正に本末転倒というわけである。

 当然私は完璧な人間ではないから、このようにある程度視野が狭くなってしまうことは仕方のないことである。しかし、そうならないよう気をつけることはできるはずであるから、これは正しく私自身の怠慢であると言える。このような経験と論理から、私は本来の目的を確かに認識し、現在行なっていることはその目的に対しどう寄与するのか、という観点を忘れないよう心掛けている。無論現状でそれが充分であるとは言えない。

 しかし、この視点を持とうとするかしないかということ自体が重要であると私は思う。人が何かを為すということは、何かしらの本質的な目的があってのことである。それは誰のためのことで、何のためのことなのか。果たしてその目的に対し為すことは正当であるのか。私達は私達の脳が完璧でないことを理解し、己の散漫さを正しく認識すべきである。キリストの言葉を借りれば、立ち返れ、というわけだ。

 私がエンジニアをやっているということもあるが、目的に対する手段の正当性、及びその定期的な検証について人間はとても苦手であると感じる。本末転倒、なんてそこかしこで起こっている珍しくもないことだ。

人間の盲目的な性質が影響を及ぼす範囲

 この集中と散漫の性質はなにも仕事のみに見られるものではなくて、プライベートの時間やはたまた人生においても同様である。

 私が最近特に後悔や無力感、失敗を痛感しているのはむしろ仕事以外の部分だ。再度例を挙げれば、私が仕事を早く切り上げて帰宅する時は大抵、自身の休息の為かパートナーとの時間を大切にする為かのどちらかである。

 自身の休息の為、もっと言えば長時間睡眠の為に早く帰宅したにも関わらず、帰ってから仕事をしたりくだらないことに時間を使ってしまうことが多々ある。くだらないことをする時間もまた大切な時間となることもあるが、殆どの場合そうなってはいないのが現状である。せめて本を読んだり映画を見たりと何かしらリフレッシュとなるようなことができれば良いのだが、何をするでもなくスマホを触りながら気が付けばいつもと同じ時間になってしまっている。そんな時の焦燥感はなかなかにキツい。結局、翌朝だるい身体を持て余しもっと寝ておけばよかったとリポビタンDを飲み干すことになる。焦燥の分普段よりもむしろ辛い1日が始まる。

 それでも自分の為に何か出来なかった日はまだマシなのだ。自分自身が辛くなるだけなのだから、自業自得、自己責任であるとして我慢はできる。よりひどいのは、パートナーとの時間を作ろうと早く帰ったのに無為に時間を消化してしまった時だ。自分自身も悲しいし、何より相手のストレスを溜めることになる。後悔、懺悔したところで何の解決にもならないし、自責の念から何もかもが上手くいかないような気分になる。

 人生という大きな括りにおいても正に同様で、何の為に今自分はこうしているんだっけ、と不意の虚無感に襲われることは珍しくないだろう。田舎暮らしをしながら波風立てず穏やかに自分らしく生きていこうと考えていて、しかし実際は都会の荒波の中で一つの小さな歯車にしかなれていない。そんな話は現代において聞き飽きるほどよくある話だ。

 労働をしてスローライフをおくるだけの貯蓄を得る。本来の目的に即した行動を取っているはずなのに、いつのまにか手段の目的化が進行し労働自体に意味を見出すようになってしまう。それはそれで人間の順応性というか自己防衛の尊さを感じさせる適応ともいえる。しかし、それって本当にしたいことだったんだっけ、という疑問からは逃避できない。

摩擦との闘争

 そうした盲目化や手段の目的化に対抗する方法は、何においても先述した通り定期的に立ち返る他ない。自分がしなければならないこと、自分が為したいこと、誰かのためにしたいこと、ありたい姿、そして客観的な現状、理想との乖離。それを振り返ることによって初めて私達は自身の行為の正当性を問える。

 当然ながらそれは非常に激しい自問となる。現実と理想における距離など、出来るならば向かい合いたくないのが人間の心というものだ。実際このようなことを書いているだけで自身に重い枷をかけている感覚がある。しかし一方で、本当にこのままでよいのか、お前は今どこに立ちどこへ向かおうとしているのか、そもそもお前にはそれが見えているのかという魂の絶叫とでも言うべきエネルギーの滾りを確かに認識できてしまう。

 何かをすると、代わりに何かができなくなる。何かを持つと、代わりに何かを持てなくなる。マジカルナンバーがこれほどまでに人々の興味を惹くのもまた、本質的にはこの有限性の真理を象徴する概念であるからかもしれない。何故なら人類は、なるべく多くのことができるよう、なるべく多くのものを持てるよう、この真理に対する闘争の歴史を積み上げてきたのだから。

 きっとこれからも私達はこの摩擦に削られて何かを得る代わりに何かを失っていく。しかし何のために、誰がために鐘を鳴らすのかを今一度見つめ直すことだけは、続けていきたいと私は願う。