ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

労働と人材3.0

前段

 新卒の方のメンター(トレーナー)として半年間後輩指導をし、またプライベートではボランティア活動としてプログラミング講座を開催してきた経験から、労働と教育、ひいては人材について語りたい。

1.0時代

 昭和の時代、もっともっと体育会系の企業が多かった時代。当時は体罰パワハラモラハラなどよく見られる時代であったことは今更いうまでもないことである。

 しかし当然、この手法の全てが失敗であったわけではない。特に高度経済成長期においては、努力の量と成果が直結しやすい土壌が存在したからである。そして、この指導方法により育まれた優秀な新人達は、圧倒的成果を残していった。すると、その指導方法の正当性が補強されることになる。優秀な彼らをモデルケースとし、それらの教育方法は企業における文化となり綿々と継承されていった。自分もそのように育てられ、これまでうまくいってきたのだからそのような教育を為す。とても自然な論理であると思う。

 ハラスメントや過労、サービス残業の強制など基本的人権の侵害の擁護する気は塵ほどもないが、しかし当時の社会情勢にある種「イケイケ感」があったことは想像に容易い。辛いけれど、頑張った分だけ見返りがある。そう信じられる社会情勢であったのだ。飴と鞭。馬を打つような非常に痛い鞭を打たれる一方で、ヴェルダースオリジナルのようなとてもおいしい飴が目の前にぶら下げられていたというわけだ。

労働と人材2.0

 次に生まれたのが労働と人材2.0とでも呼ばれるべきものであると私は考える。後輩指導2.0と少々領域はズレてしまうが、ゆとり教育のようなイメージに近い。

 1.0の旧時代的なやり方への反発、人権侵害、犯罪の表面化からこのようなものが生まれてきたのであると私は考えている。加えていえば、ホワイトカラーが増え、ホワイトカラー・エグゼンプション領域のような「各個人の生産性の違い」という議論が熱を持ったことにも因果関係はある。

 社会の相互監視機能が向上し、国民の平均的知性も向上した。すると前時代的な教育手法をそのまま流用することは出来なくなってきた。労働者は労働者としての権利を認識し、自衛のための主張をすることは決して常識外れの異端的行為ではなくなった。そして企業側で言えば、多くの企業は公器としての責任を強く請求されるようになった。1.0でのやり方でいう飴も質の良いものを用意することが難しくなり、より企業はがんじがらめの状況に陥っていると言えるだろう。

 現在管理職についているであろう40〜50代の方々はまさにこの変遷の渦中におられるのである。その困惑と途方のなさには非常に共感を覚える。サイボウズ社やその他働き方改革、HR改革を建前上でなく本気で成そうとしている各企業はこの問題と真っ向から戦おうとしている尊い存在である。私は内部事情は知らないけれど、すくなくともサイボウズ青野社長の発言を見る限り、働き方に対する本気度を感じ取った。

サイボウズ社長の青野慶久が官僚を一喝した本当の理由 | サイボウズ式

 話は変わるが、私はここまで敢えて働き方の話と人材育成の話を混在させてきた。なぜなら私の結論は、労働とは人と人とのコミュニケーションによる生産、またそれが内包する人類の社会性内面化作用を指すと考えているからである。この労働と人材2.0時代がもう少し成熟すれば、労働やコミュニケーションに即殺されてしまう新卒や人生を終わらせてしまうような方は減っていくように思う。希望的な観測ではあれど、私は青野社長の言葉を信じたい。

労働3.0

 私はフリーランスになれとか副業をしろとかそういったことを言いたいのではない。残念ながら今もまだ1.0の時代から継承され、さらに2.0で複雑化した労働と人材に関する義務と権利のスパイラル構造、それを今一度見つめ直す時代が到来しつつあるのではないか。そのような一石を投じたいのである。

 大の大人が涙を流し、嗚咽を漏らしながら毎朝定刻に満員電車に揺られることは本当に必要なことなのか?それはルールとしてあるべきなのか。それで心を壊したら誰が責任をとれるというのか。結局のところ自己責任であるというのなら、私が君の息子に同じ扱いをしてみせよう。それでも同じことが言えるだろうか。

 逆に言えば、権利ばかり主張して利益をもたらさない労働者など企業が守ってやる必要などない。会社はなかなか人をクビにできないという。そのルールは本当に必要なのか。毎朝定刻に出社するとがそんなにも重要で、欠かせないルールであると心底思っているのなら、それが守れない社員などクビにしてしまえばいいのではないか。法の力で現状では中々それは難しいことであると理解している。しかしそれももう、時代遅れの悪法とさえなっている面もあるのではないだろうか。労働、それにまつわる社会は今、新しい時代を迎えるべきなのである。

人材3.0

 私がもっとも語りたいことはこの点である。

 私はそもそもヒューマンリソース、という言葉をあまり好かない。人が資源であることは一定は認めるし、人材、という言葉も常用する。しかしこれらの言葉からは何か無機質な印象を受ける。

 生命というものの尊さを語るつもりなどないが、しかし数値で表されるには生命はあまりに崇高である。現在私は「人を育てる」という立場の仕事を任されている。けれど、私は「育て」ているつもりなど毛頭ない。共に働き、時間を共有しているという認識にすぎない。人はどこまでいっても個人であり、個人はどこまでいっても他人を理解することはできない。生命の特異性、言い換えれば崇高さと独立性がこの問題を非常に難しくしている。一人の人間が救える人はあまりにも少なく、あなたは誰かの人生の責任を100%負うことはできない。万人は平等であり、差異があるとすればその場その場の役割の違いにすぎない。たとえあなたの子供であれど、その子は決してあなたの作品ではない。彼の人生や心をデザインはできない。私はこのような理念のもとで、私は教える側の役割として教わる側の方々と共生している。その間に上下関係を産むことのないよう常に意識して新卒に接している。

 時代の変遷により、今を生きる人々が「飴」と感じるものも変化しつつある。それは現金である場合もあるし、彼ら自身の成長である場合もある。何に対して魅力を感じるか、ひいては何を人生の軸に置く人間なのか、社会の多様性の広がりとともにこれらは無限に拡散しているように感じる。

 であるからこそ、企業は1.0のやり方では有効であったはずの「魅力的な飴」を用意することが非常に難しくなって来ている。そんな彼らの成長を手助けしたいというのであれば、まずは彼らの求める飴の全体像を把握するか、そもそも飴以外で彼らのモチベーションと成長促進を促す方法を模索するしかない。自由と束縛、そのような概念の彼岸となる新たな概念を獲得し、人と人としての向かい合い、擦り合わせ、コミュニケーションを我々は取らなければならない。