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君にパッションはあるか?

正義っぽさが恥ずかしい

 パッション、という言葉を聞く度に、何か胸やけをするような感覚があった。それを持っているのはまさしく正義であり、それを持たないのはすなわち悪である、という何かぼんやりとした押し付けがましさを僕の嗅覚が訴えていた。他にも努力、根性、使命、やりがい、生きがい。これらもパッションと同様の香りがする言葉だ。なんというかこう、正義っぽいものを名乗る恥ずかしさというか、ついつい「巨人の星じゃないんだから」と揶揄したくなるような、そんなものを感じる。自身をそのようなものとは程遠い人間だと思っていたし、ンーンー言いながら自身の胸を殴るパッション何某さんをみて、なんとなくパッションというものから距離を取りたくなっていたところもあるかもしれない。

 しかし先日、ある先輩の「パッションという言葉は狂気とも言い換えられる」という話をきいて、何か違った視点を持てるようになった。なるほど、狂気。それなら僕にもあっていいかもしれない。なんだか暑苦しくなくて、恥ずかしくない気がする。正義のヒーローは恥ずかしいけれど、狂気のマッドサイエンティストはかっこいい。ならば探し当ててみせよう僕の中のパッションをということで、すこし考えてみることとする。

"はんたい"を考える

 何かを考えるとき、とても便利な方法が一つある。「"はんたい"を考える」という方法だ。とても簡単な割に効果が高いので、僕はこの方法を好んで使う。ソシュールさんやロランバルトさん、いわゆる記号学記号論と呼ばれるような、とても小難しい講義から僕が得た唯一の獲物だ。ラング、パロールシニフィエシニフィアンなんて言葉は僕には難し過ぎたけれど、この考え方だけは学べた。あの神経質でやっかいそうな試験問題を出す教授の講義を気まぐれに受けてよかった。

 "はんたい"の例を出そう。今日たまたま「漠然とした不安がある」という個人的な相談を受けたり投げかけたりしたので、改めてそれを考えてみたい。

 この方法を使うときのコツは、文字通り"はんたい"を思い浮かべるだけでいい。辞書をひいて正しい対義語を調べる必要はない。自分の言葉で「"はんたい"っぽい言葉」を並べてみるのだ。そこでいうと今回のテーマは面白い。「漠然とした」という言葉や「不安がある」という、はんたいを見つけやすい言葉が複数ある。僕の思う「漠然とした」のはんたいは「明確な」「具体的な」というような言葉だ。そして「不安がある」のはんたいは「安心感がある」と、前半を入れ替えることも出来るし、「不安がない」というように後半をはんたいにすることもできる。では、これらの言葉をそれぞれ組み合わせて使ってみるとする。

明確な安心感がある

具体的な不安がない

組み合わせはいくつかできるであろうが、的を射ていそうなものはこのあたりだろう。ここで翻って元の文章を見てみたい。

漠然とした不安がある

こうして並べてみると、「明確な安心感がある」というのはベクトルや正負が真逆というか、まさにはんたいに進んだ文章になっている。対して「具体的な不安がない」でははんたいではあるけれどもゼロに近い状態、フラットな印象を覚える。なんとなく"はんたい"の言葉を並べて繋げてみたけれど、しかし出来上がった文章の意味が少し違うのが分かるだろうか。

 こうして考えることで、元の文章、つまりは「課題」が解決されている状態を微妙に違う複数のものとして捉えられる。不安を解消すること、安心感を与えること、大きく分けてこの二つの対処法があることがわかるだろう。当然不安を解消すれば自然と安心感が湧いてくることもあるかもしれないし、別の安心感があれば不安なことも減るかもしれない。二つは決して独立したものではないけれど、少なくとも必ずしも同一というわけではないということを認識しよう。

 僕は「漠然とした不安がある」という相談をもらった時、反射でどういった不安なのか探ろうとしてしまった。瞬時に"はんたい"を考えるほど僕の頭の回転は速くなく、どうにか「こうすればいいだろう」という予想を立てて行動を開始してしまったのだ。このように、我々はすぐに「解決された状態」を想像してその方向へ歩き出そうとしてしまう。しかしゆっくりとモノを考えれば「漠然とした不安がある」という少ない情報からでも行動の選択肢を作り出せることを忘れないようにしたい。相手が求めているものが何なのか、伝えられたメッセージはどういう意味なのか、時間をとってでも真剣に考えるように心掛けたい。

 この"はんたい"の話をするときによく用いるのが、日本仕事百貨というサイトのキャッチコピーだ。

日本仕事百貨

生きるように働く

 とてもいい言葉であるのは確かだが、初めてこのコピーを読んだときはよく意味がわからなかった。しかし、この"はんたい"を使うとどうだろう。僕は、この言葉の反対は「死ぬように働く」だと思う。こうするととてもわかりやすい。はんたいの言葉を考えたからこそ、僕はこのコピーに込められた想いに気付けたのだ。

パッションの"はんたい"

 では、パッションの話に戻ろう。なんとなく正義っぽい印象を受けるこの言葉。この言葉のはんたいを考えよう。果たして僕にパッションがあるのかないのか、あるいはその二元論で語るべきことではないのか。

 僕はカタカナ語が苦手なので、まずは日本語に置きかえる。冒頭に話した先輩は、パッションは狂気とも言い換えられるとしていた。ならば、狂気のはんたいを考えればいい。狂気のはんたいで思いつく言葉は正気、正常という感じだろうか。パッションは正義っぽい言葉なのに、狂気のはんたいもやや正義っぽい言葉が出てくる。これらの言葉を自分に当てはめれば、僕は僕を誰よりも正常であるとは到底思えなく、またこんなにも辛いのが正気であると信じたくもない。今のところ正しさとは距離を置いておこう。

 まだ掘り下げたりない気がするので、狂気のなかまを考えよう。偏執、偏愛、猟奇なんかだろうか。それの反対はなんだろう。普通、無興味、無愛なんかだろうか。こちらは対義語らしい対義語が出しづらい。比較的フラットな言葉が自然に出てくる。これらはどうだろうか。僕は普通で無興味で無愛な人間か。いや、なんとなくそもそもそれらが並ぶのも何か変な感じがする。普通の人間が無興味であるとも僕には思えない。そして自分のことを、普通より多少は独特であると表現したい。何より、興味もなければこんなことをこねくり回して考えてはいないだろう。であるならば、僕は偏執の側に立つこととなる。

 狂気のはんたいとは距離が遠くて、狂気のなかまと距離が近い。ここまで考えれば、さすがになんとなくわかってくる。おそらく僕に狂気はあるだろう。それがここまでしつこくこだわる言葉に対する偏執といえるものなのか、ここまで怠惰に語る自分に対する偏愛なのかはわからない。あるいは世界に対する猟奇的な思いなのか、僕は知ることができない。

 そして、パッションが狂気と言い換えられるという話が本当のことだと思えるのなら、ようやく僕は僕にパッションがあると理解できる。本当は、パッションなんてものは正義の言葉でもなんでもなく、むしろそのはんたいに位置する言葉であると理解できる。なぜ僕がパッションという言葉に正義性を感じていたのか、今もどこか自分にパッションがあると認めづらいのか、これはなんとなくわかる。一般的にパッションという言葉がきれいな文脈で使われ過ぎているから拒絶感があるのだ。パッションがあるからここまで来られた、パッションがあるとこんなに頑張れる、パッションを持った仲間と繋がる。これらを全て狂気と置き換えてみればよくわかる。狂人が偏執さを隠さず群れて勝利を得ること、それを綺麗に言っているだけなんだ。狂気だと聞こえが悪いから情熱やパッションという言葉に変換しているんだ。彼らは元はどちらかといえば悪者なんだ。悪者が、勝利した結果を正義っぽく語っているだけなんだ。

 僕にはまだ正義は恥ずかしい。だからこそ彼らがなぜそのようなことをするのかわからないし、気持ち悪さを感じる。よくわからないが恐らく僕と同類なのに、なぜか彼らは正義のヒーローのように振る舞う。嫌だなあ、いつかは僕も、正義のヒーローになってしまうんだろうか。

 君にパッションはあるか?  僕にはどうやらあるらしい。

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