ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

心理的安全、コミュニケーションの複雑性、期待値のコントロール

id:konifarさんの記事を見て、よく分かるなあと思ったので共感している思いと自分なりの解釈を書く。記事は以下。

https://konifar-zatsu.hatenadiary.jp/entry/2021/11/09/152137

会社という範囲で言うと、経営側は社員や従業員へ説明責任を果たす必要がある。これは労働者の不意の離職防止や円滑な業務遂行を促進するという企業にとってのメリットからの側面と、そもそも企業というものは営利目的を前提としつつ計画に基づいて経済活動をしていくものであるから、当然その計画の説明は十分にすべきであるという論理からそう考えている。加えていえば、企業は一定の社会的責任を負うものであり、労働者への責任は殊更重い。労働基準法における労働者への不利益変更や解雇の予告条文を見てもその重さが読み取れるが、俗に言う説明責任というのもこの責任のうちに含まれるものであり、義務といっても過言ではない責任であると解釈している。

言うまでもなく、まともな経営陣であれば労働者には納得感を持ってパフォーマンス高く働いてもらいたいと考える。だからこそなるべく齟齬なく説明を果たそうとするし、欲を言えば労働者にも目標や理念やビジョンの推進、もう一歩引いて共感、さらに一歩引いて認識だけはしてもらおうとする。しかしながら冒頭で挙げた記事にもあるように、説明している側としても絶対的な自信を持って方針や理念等を説明出来ているわけではないこともある、というかむしろ明確な正解があるシーンの方が少ないと思う。未来の不確実性と向き合うために、こうしていきたい、こうしたらいいと思う、というような不確実な方針を、できる限りの議論や熱量をふりかけて確からしく発信するのが精一杯というのが実情であったりする。

この不確実性・不安定性を前提として、それでも経営陣がなるべく正確に思いと理論を伝えようとする。しかしやはり結局のところ人間同士どこまでいっても完全には分かり合えないという問題は残ってしまう。そんな中で重要になるのが信頼関係、心理的安全であると思う。経営陣から労働者に対する「彼らならわかってくれる、良い方に向かってくれる」という信頼もあるし、従業員が経営陣に対し「あの人なら大丈夫」という信頼もある。いずれにせよいつかは信頼関係による踏ん張りの有無が大きく状況を左右する瞬間が来る。

信頼関係、心理的安全性があることで危機を回避出来る可能性が少しでも高まる。そのためには労働者同士や労働者と経営陣、さらにいえば経営陣内での相互理解が必要であるため、一方的な説明以外のコミュニケーション方法も設計しておいた方が良いのは言うまでもない。人事評価や目標設計で賄っている企業があったり、採用部分で厚めにフォローしている企業があったり、ランチを推奨している企業があったり、狙ってのものかどうかは置いておいてタバコミュニケーションがその担保をしている企業もあったりする。そういったコミュニケーションの中で難しいのは、互いの期待値コントロールに失敗してしまうと状況がより悪化してしまう可能性がある点だと思う。コミュニケーションにも正解はなく、過剰に自分を大きく見せてしまうと逆に大きな失望を生んでしまう可能性があるし、パワハラだのモラハラだの悪質なコミュニケーションをして信頼関係を構築する以前の問題も発生しうる。コミュニケーションの複雑性はただフォーマットを決めたり、頻度を増やすだけでサッパリ解決できるようなものではない。やらないよりマシ、とおもえることを手探りでやっていくしかない。

コミュニケーションの複雑性を踏まえた上で、では経営陣が労働者に対して「完璧なものが出ているわけではない。自分も一緒になって作り上げるんだ、という温かい目で説明を受けろ」と期待するのかというと、そうしてもらえると非常に助かるだろうとは思いはあれ、やはり過度な要求に思える。同じく労働者が経営陣に対し「私が納得する完璧な方針を出してください」というのも、労働者をしていた経験から言えば一定の正当性を感じるものの、やはり完璧を求めてしまうのは過度な要求に感じる。結局どうしてもお互いわからなさから認識の余白部分は生まれてしまうもので、その余白を期待値のコントロールをした上での好意的な解釈で埋められるよう、良い関係を構築していく以外に道はないと思う。

これまでの経験上、そういった信頼関係を構築するのは仕事の中でも相当に難しいことだと感じる。単純に仲良しになれば一定の信頼が得られるかと言えばそうでもない場合もあるし、かといって無機質に付き合っていては早々に限界がくる。人によって接し方を変えた方が良い場合もあれば八方美人になってしまって謎の関係が作られるだけの場合もある。人を減点方式で判断する人もいれば、加点方式で判断する人もいる。その特質にさえも、役に立つシーンと損をしてしまうシーンがある。デコボコのままゴツゴツとしたコミュニケーションをとることで改善することも、角をとったなめらかなコミュニケーションでしか解決できないこともある。

冒頭の記事で「ゆるい信頼」という言葉を見た時、それが出来たら本当にいいなあと共感するとともに、ゆるいと言えどもそれは簡単には得られない、むしろとても複雑で難しいことに挑んでいかなければ作られないものだから、これからも頑張ってやっていかないとなあと改めて思った。そんなに大変なんだから、全部投げ出して沖縄に住みたくなることだってあるよな、でも難しいことだけど、本質的につまらないことではないよな、ということまで思った。