ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

死亡律

今夜は雌、雄、あるいは夏の匂いがした。池袋の夜は小汚くて居心地がいい。重篤なADHDの患者が作ったであろうこの街はいろいろな人間を内包する器があって、綺麗なものも多少あるにせよ混沌としている。店も性も罪も新宿二丁目に比べて中途半端なこんな街だからこそ、私はここに居られるのかもしれない。ネオンすらろくに輝けないこんな街は一度壊した方がいい。私が二度壊れたように、きっともっといい混沌を産むと思うから。

今日も水商売の女と酒を飲んだ。何の意味があるのかと問うことももはや無駄だと悟って、何の意味もなくとも消費だけはしていかなければならないという義務感だけでただ日々をこなしている。生産しない人間はせめて消費しなければならない。それだけが生命としての矜持になり得るのだと思うから。

人間としての魅力がある人が言う。金よりも大切なものがあると。果たしてそれは愛なんだろうが、あなたがたが義務教育でそれを教えていないのだから私にはよくわからない。いい加減気づいて欲しいが、不眠症で眠れないのは大したことではなくて、起きられないことが大きな問題なのである。本来は生命及び精神活動のすべてをコントロール下に置かなければならないのに、睡眠という基本的な欲求すら操れない。私の世界はそんな風にできている。夜を飲み干して学んだことなんてこの程度のことだった。人を羨んで、社会を憎んで、人生を憂いて。結局のところ他責に落ち着くことを責められる謂れはないと思う。ただ顔がいいだけの女がすやすやと眠られるこの町で、ただ顔を少しマシにしただけの私が寝られないのは必然とも言える。この瞬間だけしか見えないものなんてあるのだろうか。肌にまとわりつく空気はジメジメとしている。湿気よりもずっと重たい怨嗟がそうさせているように思えて、それが少し誇らしい。自分が世界に影響を与えられているとすれば、おそらくはそれに加担しているのだろうから。

嘘ばかりつく男は、女よりもタチが悪い。嘘ばかりつく女は、嘘ばかりつく男よりもタチが悪い。きっとこれはこの世で唯一と言える程の本当のことだ。彼らの嘘が鼓膜に染み付いているのは払ってきた金銭の唯一の成果と言えるかもしれない。それすらもどうでもいい。今年は、いつかの九月の澄んだ空気とは違って、澱みの中に少しだけ光る思い出のような透明感を覚える。それはどうせ誰も救ってくれないという諦念がそうさせているのか、もしくはあの時犯してしまった許しがたい後悔がそうさせているのか私にはわからない。ただ鬱々とした単語を羅列しているにすぎない日記帳を眺めてはため息を繰り返し、誰かに触れたいと思う。どうしたらいいんだろう。何もする気もないくせにどうしたら、と呟いてしまうこの純然たる本心こそが情けない。

冷凍食品を捨てた。冷凍庫の匂いがするから。昔付き合っていた人が残していった冷凍食品を捨てた。過去の匂いがいつまでもこびりついている気がして嫌だったから。それでも保冷剤は捨てられなかった。何かの役に立つかもしれないと希望を感じてしまうから。どうせ使う機会なんてそうないのに希望を抱いてしまうのは、多分間違いなく魂のようなものがそうさせている。保冷剤で魂を測るだなんておかしいと思うかもしれないけれど、支離滅裂なこの感情をありのまま記録しておくことが慰めになると期待している。あるいは嫌な思い出ではあるが、ないよりはマシだと感じられる朝もあるだろうから。

それで結局何がどうなんだというと、私は今夜一万円を払うことで池袋に許された。金さえ払えば誰でも受け入れてくれる街ではあるか。明日行く築地なんかよりもずっといい街かもしれない。明日も行きたくないな。ずっと家にいたい。家から一歩も出ずにしかし人肌に満たされた生活をしたい。それを許される程度には人に尽くしてきたように思うが、まだまだそううまくはいかないらしい。

ケリをつけたい。眩暈がする。何にも持っていないこの手のひらを強く握ってみれば、肌が白くなるばかりで何かを掴めるわけでもない。胃に取り入れたものも気がつけば体液として漏出する。一瞬の幻のようにそれは過ぎ去って、とどのつまり水分として蒸発していく運命でしかない。何者かになれると思っていた暮らしは無駄でしかない。何のために生まれただとか何の意味があってだとかはさっきも言ったようにもう考えていない。考えたところでいつも同じ結論に至ることを知っているし、そう説教されたところで特に感想も抱けない。明日にはもう忘れているんだろうか、こんな夜のことも。

フレーバード・コーヒーとドクター

眠れない夜に一人で飲む酒は役に立たない。せいぜい風呂に入る気力を削ぐくらいで、孤独を紛らわせてくれなどはしない。酔った状態でスマホを触るといらん連絡をいらん相手にしてしまうこともあるくらいだから、むしろ孤独は加速しているのかもしれない。それなのにどうして一人でも酒を飲んでしまうのだろうか。誰かと話すときは酒を飲むものだから、酒を飲めば誰かと話せると暗黙に期待してしまっているのだろうか。まるでパブロフの犬のようだ。

酒を飲むと楽になることもある。眠りは浅くなるが入眠しやすくはなるし、あまり効かなくなった睡眠導入剤の補助としてはまずまずと言える。飲んでいる間は意識も記憶も飛ばしやすいから、つまらない日々を早送りするために多少はよい。だが結局のところ身体に負担をかけるし、後に襲いくる疲労が精神を磨耗させる行為ではあるから、酒はおよそ人生の役に立つとまでは言えない。いや、人生の役に立つものなんてそもそもそう多くはないが。

対して、コーヒーはもっぱら人生の役に立つ。なにより香りがいいし、味もアルコールなんかよりずっといい。人からもらったハワイのお土産のフレーバードコーヒーなんて特に人生にはよく効く。普段は好まないチョコレートやバニラの甘い風味から始まって、ナッツのようなコクのある後味が少しだけ過去や未来を良いもののように錯覚させてくれる。下手なドリップであればあるほどいい。粉を多く入れすぎてエグ味が出てしまったり、淹れるのに時間をかけすぎてぬるくなってしまったり。誰にも迷惑をかけることもなく失敗を素直に楽しめるから、下手な淹れ方であればあるほどいい。そんな機会はもうこれ以外にない。

なんだかんだ言って、今日も酒を飲む。重たすぎるIPAを一口飲んではタバコを吸い、一口飲んでは明日のことを忘れようとする。ほとんど寝ているような姿勢で椅子に腰掛けて、ほとんど無意識のうちに次の酒のプルタブを引く。これまた人生の役に立つとは到底思えないつまらない番組を流しながら、何も考えないようにして酒を飲む。ふと暗くなった画面を見れば、いままさに馬鹿がたくさん映っていたはずの番組がいつのまにか終わっていて、馬鹿を見るような目つきをした馬鹿が映っている。どこをみてもまともじゃない馬鹿しかいないのだから、我々には何よりまともなドクターが必要なのかもしれない。現実の世界で役に立つものといえば、コーヒーとドクターくらいのものだから。

最近のネット界隈では、ショート動画ばかり観ているドーパミン中毒のガキをドパガキというらしい。いつの時代も酒や薬に溺れるのは結局大人なのだから、いまさらガキだどうのという区別はいらないと個人的には思う。タバコや酒や人間関係に依存している私自身、脳内に何かしらの麻薬めいたものを満たさないと生きてゆける気がしない。勘のいい人間はセロトニンに救いを求めるが、どのピラミッドにも必ずいる愚図はドーパミンやアドレナリンに頼るしかない。食欲や色欲などといった短絡的な生理的欲求はやはりいい。多少金を払えば誰の許可も得ずに満たす方法が溢れているからいい。反対に、社会的欲求や承認欲求、自己実現欲求などのより高級な欲求はよくない。単純な手段では満たせないものばかりだから。無ければ無いでそれなりの人生を送れるだろうに、無いものねだりはやはり途方もない。高次脳にベタベタと癒着して剥がれない。

今日は暑い中コンビニに行けた。コーヒーフィルターを買って、ケバブサンドを買って、タバコを買った。Amazonで緑茶を2ケースとコカコーラゼロを2ケース買って、ビタミン剤とカリウムも、ついでに補充した。あと57円で明日の朝に届くようになると勧められたが、強い心をもってしてそれを無視した。350円のケバブサンドか500円のケバブラップかで数分迷った事実がある一方で、昨日小遣いをあげたお気に入りの水商売の女が、Uber eatsでマクドナルドを注文していた。世の中というものの全てがこの少しの事柄に詰まっているような気がして、早く全てが終わればいいのにな、と、思った。

極大

流星群のピークを極大というそうだ。昔光が丘公園で見たあの獅子座流星群も、ちょうど極大となる時間であったのだろうか。親の気まぐれで陸上競技場の400mトラックの隅に連れて行かれ、ブルーシートと毛布を敷いて夜空を見ていた。周囲にも家族連れやカップルがちらほらといて、みんなで空を見上げていた。それは、流れ星の消えないうちに3回素早く唱えることで願い事が叶うんだと初めて知った夜だった。唱えるといっても、実際に声に出すべきか、頭の中の声でも満たせる条件なのか。私はそういう細かいことが気になって仕方のない性分で、母親に尋ねてみても思うような回答は得られなかった。結局どうしたんだっけな。頭の中で願いつつそれを声にも出して試してみたんだっけ。今の私の状況やこれまでの人生を思えば、おそらく私のやり方が間違っていたか素早さが足りなかったのだろう。

美容整形手術を受けた。昔から自分の顔が嫌いだった。痩せても落ちない顔の肉と、ただでさえ小さいのに左右差のある目。前にも横に広い頬骨に、噛筋の発達した下膨れのエラ。高くない割に丸々とした鼻。一気に治すことはできないけれど、治せるところだけ直していこうという気持ちで百数十万の支払いを済ませ、その週のうちに手術をした。カウンセラーに、どこを直したいですか?と聞かれた時、言葉に詰まってしまった。どこを直したいもなにも、全てを今の状態から変えたくて、今が悪いことはわかっているけれど、何をどう変えたらよくなるのか見当もつかなかった。とりあえずは輪郭や無駄な脂肪を除去してからいじるパーツを選定しよう、という方針が決まり、各種脂肪除去とボトックスをした上で糸リフトをして下膨れをどうにかすることとなった。左右非対称の小さい目であるからか、目付きが悪いと言われいつも人からの第一印象が悪かった。これだけは私のたっての希望ということでとりあえず安価な埋没法で二重にして左右差を減らしたらどうなるか、とパーツの変更も一つ組み込んだ。受けた手術の内容から考えると、それほど私の顔は変わらないであろう。しかし整形手術を受けること自体、私の中では大きな意味があった。今の私ではない私に。それは子供の頃流星に唱えた願いに限りなく近いはずだから。

お金がなくなってしまったので一旦この程度の手術で済ますが、つぎは目頭目尻切開とグラマラスライン、鼻は鼻尖形成かプロテーゼ、最後には輪郭3点の骨切りをしたい。そこまでやってようやく直せるところは直したかな、という感覚であるが、その頃には私は何歳になっているやら。若い頃にお金を貯めて早く整形をしておけばもっといい人生を送れてきたのかな。これまでの人生の自己肯定感の低さのようなものは、少なからず自分を好きになれないことから来ていたはずだから。顔で人を選ぶ歳ではなくなったけれども、見た目に自信のある人の方がきっと魅力的に見えるはずだから、もう少し楽に他人とコミュニケーションがとれるようになるといいな。

整形をする、ということを公言していたのだが、それに対する反応は2パターンあった。する必要ないと思うけどな、といってくれるパターンと、なりたい自分になれるのならどんどんしたらいいんじゃない、と肯定してくれるパターン。しない方がいいよ、という否定的な意見もなくはないがそれは無視するとして、やはり私の周囲にはいい人が多い。なりたい自分になる、というか今のままの自分でいることが嫌だから今の状態を変える、というやや後ろ向きな出発地点から始まったこの整形計画も、他人から見ればなりたい自分になっていっている、つまりは夢を叶えている姿に見えるわけだ。そんないいもんでもないけれど、そう思ってくれるならそう思っていただいていた方がいい。ここに居たくない人と、ここではないどこかに行きたい人と、どこかへ向かっている人というのは、外から見たらあまり変わらないのかもね。

今は絶賛ダウンタイム中なのだが、ダウンタイム中に連絡をくれる人は優しい。ダウンタイム中というものはこの上なく暇なので、経過はどうだとか暇ならゲームでもしようとかご飯は食べられてるかとかそういう声掛けがとてもありがたい。まだ目もまともに開かないから外には出られないし、顔を固定するマスクバンドをしておかないとダウンタイムが長引くらしいので常に変態仮面のような姿で携帯をいじっている。仕事の有給は三日分とったけれど、全然足りる気がしない。今日の時点で片目しか開かないが、三日後私は仕事ができる状況なのだろうか。

まあ仕事なんてどうにでもなるか。それよりも人生幾度とないダウンタイムを楽しもう。願いにも極大があるとするならば、手術を決めた日こそ私の願いの極大だったのだろうから。次は韓国に行ってやろうかなあ。骨切りしたらもっと長いダウンタイムになるかなあ。

人を殺す時の気持ち

ある人を殴りたいと思った。その場にいる他の人に迷惑をかけてしまうな、とタイミングを考えてしまって結局暴力は振るえなかった。都会ではよく駅や電車で喧嘩している人がいるけれども、彼らはすごい。面子を生業にしている輩みたいなのはおいておいて、サラリーマン風の男たちが酔って殴り合いをしているのは本当にすごい。彼らは何らかの原因でブレーキとかストッパーのようなものが壊れてしまったんだろう。普通に生きていて普通に仕事もしているならば失うものも当然大きいだろうから、彼らをそこまで壊してしまった原因も酔いだけではないんだろうと思う。嫌なことが重なったのかな。それともずっと毎日がイライラすることで満たされているのかな。私もそれなりに日々をどうでもいいと思って生きているけれど、いざこいつを殴ろうと行動を始めた時にまで他人を気にしている時点で、どこかまともでいようとしてしまっているんだろうな。今回はそれに救われたわけだけれど、自分のその瞬間の苛立ちが彼らよりも小さいのだと言われたようでそれはそれでイライラする。

殴り合いという行為そのものへの羨望、というのが正しいのか怪しいところではあるけれど、少なくともブレーキが壊れた状態そのものには憧れに近いものがあるのだと思う。壊れるということは、その瞬間だけは何も計算していないということであるから。周りの目も明日の仕事も殴った後の面倒も、何一つ勘定に入れず人を殴れるということは、ある種の純粋さや誠実さですらある。対して私の苛立ちは結局いつも計算を伴っている。殴りたいと思った瞬間にはもう、殴った後の自分がどう見えるか、その場に居合わせた人間にどんな迷惑がかかるか、というシミュレーションが同時に走り出している。感情が先に立って行動を決めているように見えて、実際には行動の前に必ず一枚、理性という名のブレーキがかかっている。そのおかげで誰も殴らずに済んだわけだけれど、それは感情そのものが本物ではなかったという証拠のようにも思えてくる。そこにイライラする。

ただ一つ言えるのは、殴らなかったことに安堵している自分と、殴れなかったことに苛立っている自分が同じ体の中で同時に存在していること。この二つは矛盾しているようでいて、実は同じ根から生えている。まともでいたいという欲求と、まともでいる自分を退屈だと感じるという欲求は、たぶん最初から同じ一つの欲求の裏表でしかないのだろう。今になって、冷静に外に連れ出して2人きりになって殴っておけばよかったと思わないこともないが、もう二度と会わないであろう彼を妄想の中で殴ったところで何も解消されないから虚しいイライラだけが残る。そのことにもまた不満足を覚える。

今回こいつを殴りたいと思った感情にはいくつかの段階がある。段階というかレイヤーというか、抑えられる閾値を三つくらい超えてくる積み重なりがあった。まずなぜこんなクソみたいな場とクソみたいなメンバーに私を呼んだんだ、というその場に私を呼んだ人間に対する疑問がうっすらあって、次に舐めた態度のガキに対する怒りがあって、そして最後にはまた私を呼んだ人間に対してもう少し頭のいい人だと思っていたな、という落胆と失望のようなものがあった。最後が失望だったのがよかったのかもしれない。激しい感情というよりは静かな感情と呼べるもので、あぁ、こんな舐め腐ったガキと横一列で私を並べるような人間で、つまりはこいつは私をそう扱っているんだ、とどこか引いてしまったところがある。そのおかげで人を殴るか殴らないかの際にさえどこか冷静に計算できていたし、結果的にその場から去る選択を取れたのもこの人たちと一緒に居たくないという思いがあったからとも言える。

どこにでもリスペクトを欠く行動をとってしまう人間は居て。それが今回は複数人いたことで相乗的にイライラさせられてしまったわけだ。そんなところに呼ばれたからとホイホイ顔を出す私が悪い。そんな人間と付き合いをもっている私が悪いし、そんな扱いを受けるような行動をしてきた私が悪い。こう整理すれば自責で終えられる。ようやくイライラがおさまってきた。あんな人間と付き合うのは時間の浪費でしかない。無駄だからやめよう。無駄なことをしていた私が悪い。

人間にいちいち興味を持って期待してしまうのは私の悪い癖だ。人間なんて人生上大半はただの通りすがりで、少しの間しか関わることなんてないんだから興味を持ったって仕方ない。落胆や失望をして勝手に嫌うのも無駄にエネルギーを消耗するバカな行為だ。人を殴りたいと思ったのは久しぶりで、これは純粋な怒りからのような気がしていたけれど、結局構造を分解すれば今回も根っこは人への期待や欲求から始まっていることに気がついてしまった。人間の感情を揺さぶるのはやはり人間関係ってことなんだろうな。そして私はそれがすごく苦手だ。

生肌の実感

最近夜遅くまで酒を飲む機会が多い。酒そのものは好きではないが、人々がゆるいコミュニケーションを取るために集まる飲み会という営みは好きである。何かを達成したいとか貢献しないといけないとか、そういう重さがなく、ただその場を楽しみたいという簡単な目的が一致しているから、取るべき態度が選びやすい。

酒は好きではないというものの、素面ではろくに話すことがない。酔いが浅い時に仕事にかける熱い思いを語られた日にはすぐに帰りたくなるし、つまらない自慢話や政治的な謎の褒め合いはもう最悪だ。面白い話があるとき、場が温まるまでは取っておくというかわし方があるが、経験上つまらない話ほど後半に残しておいた方がいい。面白い話はどうせ何度でも繰り返すのだから、先に出してしまっていい。謎の褒め合いが最悪なのは少し別の理由で、褒めるところがない時の気まずさが嫌なだけだ。

酔うということは、日中背負っている体裁や役割の皮を一枚剥ぐような行為でもある。その場だけ楽しければいい。誰もかもがお互いを気持ちよくさせ、相手を傷つけないようにからかい合う。剥き出しになった分だけ、そこで交わされるものは直接肌に触れる。相手を傷つけないこと、敬意をもって接すること。この最低限のルールさえ守られていれば、皮が薄くなった状態でもなんだかんだで楽しい会だったねという実感で終われる。

しかしたまにそのルールさえ守れない人がいる。ちょうどこの間、私はまた一人どうでもいいと思う相手が増えてしまった。私にはこういう癖がある。コミュニケーションの中で不敬を感じた瞬間、その人自体がすぐに嫌になってしまうという癖である。それも徐々に冷めていくのではない。ある一言やある態度を境に、それまで積み上げてきたものが一瞬で価値を失う。切り替えは早くそれは決して戻らない。おそらく私の他人への評価は加点方式ではないのだと思う。ある種の信用の残高として保持されているという感じがある。普段の会話はその残高を少しずつ増やしたり減らしたりしているにすぎないが、不敬を感じると残高どころか口座そのものを閉じてしまう。

なぜそこまで極端に振れるのか。自分の払った努力が蔑ろにされたと感じると、それまでその人と過ごした時間全てが無駄だったように思えてしまうからというのが大きい。過去の時間はそれ自体として楽しかったはずで、後から来た一言がそれを遡って無効にできるわけがないので、冷静に考えればこれは筋の通らないことのように思う。それでも感覚としては確かに無駄になる。おそらく私は相手と過ごす時間を、その場の快楽としてではなく信頼を築くための投資として無意識に勘定しているのではないだろうか。だから投資先が裏切ると、元本ごと失われたように感じる。楽しかった記憶が惜しいのではなく、その楽しさに意味を持たせていた前提が崩れることが惜しいのであろう。

昔よくいた礼儀に厳しいおじさんの気持ちが、今は少しわかる気がする。あの人たちもきっと礼儀そのものに執着しているわけではない。礼儀という形式が守られている限り、相手が自分を一定の敬意をもって扱っているという安心が得られる。その安心が壊れる瞬間に過剰反応していただけなのではないか。私が不敬に引いてしまうのも、根はおそらく同じ場所にあって、相手が私を軽んじたという事実そのものより、この人は最初から私を軽んじる用意があったのだという後追いの認識がこれまでの関係を塗り替えてしまう。

これには二つの層がある。一つは、人を気持ちよくさせることの効用を理解した上での、いわば技術としての配慮。人間がどこにどうプライドを持っているかは生きていればなんとなく見えるようになってくる。相手をやる気にさせる振る舞いを選ぶのは礼儀の一種として当然のことで、それをしないこと自体が無礼だと感じる。もう一つは、その配慮が踏みにじられた時に湧くもっと生々しい反応である。前者は損得の勘定として説明がつくが、後者はつかない。効用で説明できるうちはまだ余裕がある証拠で、本当に引いてしまう時というのは、その計算の層をすり抜けて、酔いで薄くなった皮の下から直接何かが出てくる。理屈ではなく、単に感情として嫌になる。なんで今そんなことを言ったのか、なんでそんなことにも気を回せないのか。これはこれである種期待しすぎなのだろう。もう少し頭のいい人だと思っていたのに、と感じるケースがこれまで多かったからだ。期待とは要するに、こちらが勝手に相手の信用残高を先払いしていたということでもある。裏切られたのではなく、貸していただけなのかもしれない。

いわゆる社会不適合な人はある程度いる。一方で、表面上は適合しているくせに、人間関係の踏み込みが危うい人もいる。あえて人を傷つけたり怒らせたりして、それによって何を得るわけでもないのに、快楽主義的にそうしてしまう人だ。私も自分のコミュニケーションに自信があるわけではないが、最低限人を傷つけすぎないよう気をつけて生きているから、そうした振る舞いを自分なりの社会規範への裏切りのように感じて引いてしまうのだろう。多少のいじりや雑な扱いはまだいい。しかし超えてはいけない一線は確実にある。大抵は相手を自分より下に置こうとする瞬間にその線は超えられる。コントロール下に置きたいにせよ、ただ見下しているにせよもう少し上手くやってほしい。

私も説教おじさんの風格が出てきたなと思う。もう少し上手くやってくれれば楽しいおじさんのままでいられたのだが。人に期待しすぎるのはよくないとわかっていても、そんな最低限のルールも守れない人だったのかという落胆は、私を静かにつまらない気分にさせる。

謙虚、敬意、信頼、HRTの精神はやはり大切だ。そこが欠けている人間とは、プライベートでも仕事でも深く関わりたいとは思えない。それだけのことで、恨むほどのことでもない。ただ、皮の下まで踏み込ませる相手を選ぶ権利くらいは、自分にもあっていいはずだと思う。

彼女と世界の終わり

パートナーと別れた。

別にだからどうだといいたいわけじゃないが反省は止まない。お母さんにしすぎたかな。もう終わりだな、と思ってからもダラダラと関係を続けていた。なんだかんだ言ったって、パートナーとして性的な魅力を感じているかどうかは重要だと思う。

性欲もないし独占欲もない。でも承認欲求はあるので、身体に触れることを拒否されたらもう終わりに近いなと思う。そういった意味で我々はもう初期段階で破綻していたのかもしれない。ウサギを飼い始めた時かな、もしかすると私たちはもう終わってしまったのかもしれないな、と最初に気づいた時は。ペットが暮らしの中心となることによって生活リズムがズレて、私たちはうまくいかなくなっていった。前のパートナーと別れた時も、毎日6時間以上酒を飲むような人だったから、このままでは生活が成り立たない、リズムがどうしても合わないと感じてしまった。狂ってしまったんだろう、私たち、すなわち彼女も私も今回のあなたも。

舐められるのは嫌い。私は低俗な人間ではあるが、だからといって甘く見られるのは嫌いだ。私には私なりの論理があってあなたを大切にしていた。私の観測範囲では、しかしあなたはそれを返そうと努力をしなかった。ただそれだけのことだけれども、確実に温度差は我々の生きる道を違えた。くだらないことからズレは始まるんだろう。支えられなかったんだろうな、私もあなたも。でもそういうことなんだろうな、とも思う。人生タイミングと熱量次第だからね。そこに差が生まれる時点で破綻していたのかもしれないね。

私はパンセクシャルなので、好きになった相手が男性だろうが女性だろうが気にしない。しかし相手からのリスペクトを感じなかったらすぐに興味を失する。男性だろうが女性だろうが相手が人間なら変わらない。今回は罪はお互いにあるはずで、私も心底反省しているし、あなたが悲しんでいるのも想像はつくけれども、どうしようもないよ、この性分は。

あぁ、もう嫌になる。無責任な弱音を吐露すれば、あなたのせいでお金も無くなったし、生きる理由も無くなってしまった。自分に原因があることも自覚した上で、何も生まない別れだったし何も生まない付き合いだったと断じてしまいそうになる。

人生どうしようかな。もともと自分の人生になど価値はないと思っているけれど、それでもなんとかできるなら努力はしていきたい。どう考えても私には似合わないマッチングアプリも始めたけれど、やはり今のところ何も生まれないよ。自己紹介から始めないといけないのが面倒でしょうがないし、それを乗り越えた先になんの得があるんだろうと思い悩んでばかりだ。それでも私は1人では生きていけないから、何かすがるものが欲しいんだと思う。承認欲求ってのは面倒だね。これはあなたへの断罪でもあるし私にとっての後悔でもあるけれど、私たちはいつも同じことばかり繰り返してきて、それを今も、きっとこの先も、このままではいけないと知りながら続けてしまっている。それが人間らしさなんだと思うけれども、私もあなたも早く救われて欲しいと願っている。

何もかもうまくいかないし、退屈な時間ばかりが私にのしかかるから、毎日を酒で早送りしようとしている。早送りしたところでなんの解決にもならないのにね。それはわかっているんだけれど、それでもこの考えが染み付いて離れない。これ以上のアイデアが思い浮かばないよ。どうしたらいいんだろう。何もかも難しい。生きづらさみたいなものが常に吹き荒んでいる。

仕事はそれなりに楽しいし、ダイエットも順調に進んでいるけれども、なんのためにやっているのか、よくわからないよ。もう、どうでもいい。どうなったって、どうなったっていい。鬱病とかそういうことは置いておいて、本当にどうなってもいいんだって思う。もちろん明日死んでいても、なんにも未練も問題も無いと思う。

前に付き合っていた人が、塩のビンに米が入っている理由をすごく長い時間考えてくれたのを思い出す。しかも場所が相当滑稽で、汚い駅の駅前のファミレスで考えていたんだ。私はそれが愛おしいと思ったし、どう結論するにせよ、納得のいく答えを出す人なんだろうなと思った。良くも悪くも、そういうタイプの人と付き合うことが多かった。これはもしかするとラブレターであり決別の証でもあるけれど、あなたは決してそういうタイプではなかったね。何もかもなあなあにして、それでもなんとか前進していけるタイプだった。分からないことは分からないままにしておける、生きるのに向いている人間だった。私はあなたのそういう面が素直に羨ましいと思ったし、私にはない部分で尊敬していた。でもそのことはうまく伝えられていなかったのかもしれない。あなたにとって私はそういう存在ではなかったようで、あなたからの尊敬はなかったように思う。結論としてはそこに尽きるのかもね。何度も何度も好きだとか愛してるだとかお互いの立ち位置と相手への尊重を確認していたけれど、結局のところきっと一度も通じ合うことはなかったんだね。それが無駄だったとは思わないし、お互いの重ね合わせられる部分を確かめていたんだと理解もしている。私たちの三年は、それに必要な期間だったのかもしれないね。

好きな人がいなくなるのは、寂しいね。いなくなって欲しいけど、いなくなってしまうと勿体ないと思うよ。何か違えば少しでも分かり合えたのかな。今でもそんなこと思うよ。

掌握について

どちらかといえば、という程度で構わない。深く考えなくていい。

あなたは、人に誘導されやすい方だと思うか。それとも、誘導には引っかからない方だと思うか。

おそらく今、あなたの中で答えはもう出ている。明示的に言葉にしていなくても、どちらか一方に体が傾いている。そして多くの人は、後者に傾く。自分はそう簡単には引っかからない、という方に。少なくとも、わかった上で引っかかる側だ、という留保つきで。

もしあなたが、そんなことは聞かれるまでもない、と少し苛立ったのなら、それはちょうどいい。その苛立ちは、自分は見抜ける側だという自己像が、軽く小突かれたときに出る反応であるから。覚えておいてほしいことは、今この瞬間、あなたは答えたということ。深く考えないでくれと言われたから、構えずに軽い気持ちで。その軽さが何を意味するか、もうあなたはわかっているかもしれない。

答えが一つしかない問い

少し前、登壇する機会があった。冒頭で、聴衆にひとつ問いを投げた。内容そのものはここでは関係がないので伏せるが、構造だけ取り出すとこうだ。

それは誰も肯定できない対象についての、好き嫌いを問う問いだった。世間的に好きだと答えるのが難しいものがある。その手のものを選んで、あなたは好きですか、と尋ねる。当然、聴衆はほぼ全員が心の中で、いや好きではない、と答える。

ここで起きていることを分解しておく。

第一に、答えが事実上ひとつしかない。好きだと答える余地が最初から塞がれている。第二に、それでも問いの形をしているから、聴衆は受け身で聞いているつもりのまま、自分の意志で答えてしまう。同意させられたのではなく、同意を、自分で作らされたと言える。第三に、その自分で作った答えが後から自分に跳ね返ってくる伏線になっている。

私はこの問いを投げて、わずかな共感を得た。みんなが同じものを嫌っている、という連帯がその場に生まれた。話し手の私は何も主張していないのに、もう聴衆の一歩内側に入ることに成功したわけである。

これが、掌握の最初の一手かもしれない。

そのときの私は自分が何をしているか、正確にはわかっていなかった。場が温まる、つかみがうまくいった、くらいの感覚で投げていた。それが具体的にどういう装置なのかを言葉にできたのは、ずっと後になってからだ。ある日まったく別の話の流れで、営業のクロージング技術の話になった。買うか買わないかを問わず、支払いは一括か分割か、と問う。受け取りは今週末か来週末か、と問う。買うことを暗黙の前提に置いた上で、その下位の些末な二択だけを差し出す。客は提示された枠の中で考え始め、いつのまにか購入そのものは決定事項として処理されている。

それを聞いて、少し寒くなった。私が登壇でやっていたことと、構造が完全に同じだったからだ。私は、詐欺師と同じ道具を握っていた。

譲歩の顔をした退路封鎖

ここでこの文章の冒頭に戻ってほしい。私はあなたにこう前置きした。どちらかといえばという程度で構わない、深く考えなくていい、と。

あれは優しさではなかった。あれは、あなたの退路を塞ぐ最後のひとひらだった。

人が答えたくない問いから逃げる手は、いくつかある。どちらとも言えない、と言う。程度の問題だと言う。そもそも前提がおかしい、と問いを疑う。ところが、どちらかといえばでいい、と先に言われるとその全部が使えなくなる。どちらとも言えない、はもう許されない。これだけハードルを下げてもらったのに、それでも答えないのは、過剰な抵抗に見える。場の空気が、この程度の問いにすら答えられないのかという圧に変わる。

譲歩のふりをして、答えないことのコストだけが跳ね上がっている。

しかもこの前置きはあなたに、ハードルを下げてもらった、と感じさせる。優しくされた、と錯覚させる。だから警戒がゆるむ。守りを解いたことにすら気づかない。むしろ、ありがたいとすら感じる。話し手が先に無害さを差し出して、聞き手の警戒というコストを肩代わりしてやる。共感とは、しばしばこの警戒解除の別名だ。

そして最も巧妙なのは、答えを軽くさせることがかえって深く刺さるという逆説だ。どちらかといえば、で出させた答えは本人にとって軽い。たいして本気で言ったわけではない、というつもりの答えだ。だから無防備に口から出る。ところが軽い気持ちで漏らした答えほど、後で言い逃れができない。本気で答えたわけじゃないと言っても遅い。むしろ軽く答えたつもりが本音が出た、という形になって、本人の中で重みが増す。慎重に身構えて出した答えなら撤回もできるが、つい漏らした答えは取り消せない。前置きで軽くさせること自体が、撤回不可能性を仕込む罠だったのだ。

あなたは冒頭で軽く答えた。だからそれは、あなたの本音だった。その論理が完成されてしまう。

見抜けると思った者が落ちる

あなたが、自分は誘導されない側だ、と答えたとする。あるいは、わかった上で引っかかる側だ、と留保をつけたとする。

その留保こそが、最も柔らかい急所だ。

本当に誘導されやすい人間は自分が誘導されやすいことに気づいていない、という言い回しがある。これはよくできていて、たちが悪いことに反証ができない。この言い回しを一度受け入れると、こういう含意が生まれる。自分は誘導されやすいと自覚しているということは、メタ認知があるということ。つまりは、実は誘導されにくい側であると。自覚の有無が、能力の指標にすり替わる。

すると、見抜ける側だと思っている人ほど深く落ちる。なぜならその人は、自分が今まさに落とされている最中だという可能性を、最初の自己像によって視界の外に追い出しているからである。そんなことはわかっている、と苛立った人。その苛立ちは抵抗のつもりで、実は服従かもしれない。一番突っ張った読者が、一番きれいに落ちる。

私が登壇でやったのもこれだ。聴衆の中で、こんな単純なつかみには乗らないぞ、と身構えた人ほど、その身構えのぶんだけ私の話の本筋に対して無防備になっていく。入り口で警戒を使い切らせて、肝心の中身が入ってくるときにはもう警戒が残っていない。

ここまで読んで、あなたは気づいているはずだ。この文章は何かを説明しているのではない。実際に何かをやっている。掌握とは、と論じるふりをして、あなたを掌握しながら書いている。冒頭の前置きも、答えが一つしかない問いも、すべて、この文章自身が今あなたに対して使っている道具だ。

そしてあなたがそれに気づいたこの瞬間も、私は予見していたわけだ。この記事、自分に対して実演しているな、と気づくこと。気づいて少し愉快になり、少し不愉快になること。その反応の場所に私は先回りして立ったつもりでいる。あなたの覚醒すら、この文章の予定のうちにあると言いたいわけである。

なぜ正しいことを言うのに、操作が要るのか

ここで、本当に居心地の悪い問いに入る。

私が登壇で伝えたかった主張は、真っ当なものだった。少なくとも私はそう信じている。間違ったことを言うために操作したのではない。正しいと信じることを伝えるために私は操作した。ここに、どうしても飲み込めないものがある。

正しいなら、まっすぐ言えばいいはずだ。なぜつかみが要るのか。なぜ、答えが一つしかない問いで同意を生成させ、退路を塞ぎ、警戒を解かせる必要があったのか。

答えはおそらくこうだ。正しさそのものには、伝達する力がない。まっとうな主張を平場に正論として置いても、人はそれを自分のこととして受け取らない。コストのかからない言葉は、聞き手の中を素通りしていく。一度心を動かされ、自分の中の矛盾に気づかされてはじめて主張は届く。つまり、正しい主張ほど届けるために修辞という燃料を要求する。

これは、認識としてしんどい。

誠実であろうとすればするほど、伝えたいことが本物であればあるほどその伝達は操作に近づいていく。説得と操作の境界は、中身が正しいかどうかでは引けない。構造はまったく同じだからだ。そして中身の正しさは、道具を浄化しない。

だから私は、おそらく次も同じことをするであろう。次に何かを伝えたいとき、私はまた答えが一つしかない問いを探し、退路を塞ぐ前置きを置き、聞き手の警戒を解きにかかるだろう。やめられる気がしない。伝えたいことを本気で持っているかぎり、修辞を手放せない。これは見抜けたから卒業できる類のものではなく、見抜いてなお繰り返してしまう業のようなものだ。

あなたは、これを得意げに話す

正直に予言しておく。

この文章を読み終えたあなたは、近いうちに誰かにこれを話す。答えが一つしかない問いを投げると人は誘導されるんだと。どちらかといえばでいい、と前置きすると逃げ場がなくなるんだと。少し得意げに。自分は仕組みを見抜いた側だという顔で。

その瞬間、あなたは私がさっきまでいた場所に立っている。

見抜く側に立ったつもりが、語った瞬間に使う側に回り、使った瞬間に私と同じ業を背負う。あなたが見つけた出口は、入り口に繋がっている。この罠を見抜いて誰かに語ること自体が、罠の中にとどまる行為だ。あなたは読み終わっても、外には出られない。

これを無敵の構造として誇ることもできる。詰ませて、覚醒を予言し、その先の自慢まで予言して閉じる。読者は一歩も外に出られない。ある種の掌握の実演として、これは完成しているとさえ言えるかもしれない。

しかし私はここで降りることを選ぶ。

最後に

私は今、あなたを掌握したつもりで書いてきた。退路を塞ぎ、急所を突き、覚醒を予言し、業を継がせた。手際よく組み上げた論理であると思う。けれどおそらく、この文章のどこかで私は間違えている。

掌握したつもりで、本当は何も握れていないのかもしれない。あなたは冒頭の問いに、私の想定とはまるで違う答えを返していたかもしれない。苛立ちもせず、得意げに語る気もなく、ただ静かにこれを読み流して明日には忘れているかもしれない。私が予言したあなたの反応は、全部、私が見たかったあなたであって、本当のあなたではないのかもしれない。

完璧に閉じた罠を組み上げた書き手は、その完璧さによって、ひとつだけ確実に負けている。目の前の相手を、自分の設計図の中の人物に縮めてしまっている。掌握とは相手を理解することではない。相手を自分の予測が届く範囲に押し込めることだ。だから、掌握が完成した瞬間に相手の本当のところは視界から消える。

私はあなたを掌握しようとして、あなたがどういう人間なのかを結局ひとつも知らないままここまで書いた。

だから、わからない。この文章が、あなたに何をしたのか。本当に何かをしたのか。それとも何もできなかったのか。私にはわからない。勝ったかどうかも、わからない。

ただ、勝ち負けの軸の上に立っているかぎり、私はあなたを、駒としてしか見られない。その軸から降りたとき、はじめて、あなたが何を考えてこれを読んでいたのかを、聞いてみたくなる。

教師と詐欺師は、同じ道具を使う。

シクラメンの種子たち

反転した非対称性

オープンネスや透明性は、長らく先進的な組織の理想像として語られてきた。フラットな意思決定、社内Wikiの公開、議事録の全社共有。こうした実践は、どこか道徳的な響きをまとっていた。良き組織はそうあるべきだという、実利の裏付けが曖昧なままの憧れである。

むしろ実務の現場では、開くことのコストのほうが見えやすかった。情報漏洩のリスク、管理工数、誤解されるリスク。閉じておくことには明確な防御の論理があり、開くことには曖昧な理想しかなかった。

それがAI時代に反転する。閉じた組織はAIに知識を辿らせられない。開いた組織はそれができる。この差は、もはや思想の差ではなく、計測可能な生産性の差として現れる。憧れだったものが、ある日突然、競争力に化けた。

大企業の縦割りという負債

サイロ化はもともと組織論の弊害として語られてきたが、AI時代にはその弊害が指数関数的に露見する。なぜなら、AIの価値は横断できる情報量に比例するからである。

部門ごとに権限が切られ、Wikiが分断され、これは某部署に聞いてくださいが常態化している組織では、AIに渡せる文脈が極端に細る。マーケティングのAIは経理の知見を知らない。エンジニアリングのAIは事業戦略の議論を読めない。それぞれの部署で局所最適なアシスタントが動いているだけで、組織全体の知性として機能しない。

これは単に不便というレベルの話ではない。組織の意思決定の質そのものが、横断性を持つ組織と持たない組織で決定的に分かれていく。縦割りは昔からの課題だったが、これからは課題どころか、組織の生死に関わる負債になる。

反転の力学 ー 隠し事ができない時代へ

ベンチャーが戦っている相手は、結局またベンチャーである。AIに組織のすべてを食べさせている相手と同じベロシティ、同じ精度で動くためには、自分も同じことをするしかない。うちは慎重にやるという選択肢は、相手が走り続ける限り、相対的な敗北を意味する。

そして同じ力学が大企業にも働く。先進的な大企業がAIで横断性を獲得し始めれば、他の大企業も追随せざるを得ない。レイヤーが違うだけで、競争圧力の構造は同じである。

つまりこれは、個別組織の戦略選択ではなく、社会全体に働く一方向の力になる。AIに対して隠し事ができる組織は、その分だけ競争から降りていることになる。開くか閉じるかが選択肢だった時代から、どこまで早く開けるかが問われる時代へ。

オープンネスはかつて思想だった。次に競争力になった。そして今、それは重力になりつつある。

default openと、秘密の例外化

従来の組織では、情報を出すたびにこれは公開していいかが問われた。判断を求められれば、人は安全側に倒れる。結果、知識は静かに閉じていく。誰も悪くないのに、組織はサイロ化する。

この設計の決定的な弱点は、閉じる方向に重力がかかっていることである。デフォルトが閉じるである限り、開くには毎回エネルギーがいる。書き手は萎縮し、読み手は辿り着けず、AIは横断できない。閉じることが楽な設計のままでは、どれだけオープンネスを掲げても、組織の重心は閉じる方向に滑り落ちていく。

反転は単純である。デフォルトを開くにして、閉じる理由があるものだけを例外として閉じる。人事評価、未公開の財務情報、セキュリティに関わる情報。それ以外は全部開く。公開していいかではなく、閉じるべき理由があるかを問う設計に変える。

これは運用ルールの話に見えて、実は組織の態度表明である。我々は知識を閉じることでではなく、流通させることで価値を作る、という宣言。default openを選べない組織は、その時点で自分たちが何で勝負しているのかを答えられていないと言ってもいい。

理想としての知識流通 ー AIが辿れる組織とは何か

完全にdefault openな組織で何が起きるかを想像してみる。

すべてのドキュメントは、書かれた瞬間に全社の知識ベースに接続される。誰がどの議論をしているか、どの意思決定がなぜなされたか、過去のプロジェクトで何が失敗したか。すべてがAIにとって辿れる文脈になる。

新入社員が入ってきた日に、AIはこう語れる。あなたのチームは過去にこういう議論をしていて、現在はこういう状態にあります。エンジニアが設計を始めるとき、AIは他チームが似た問題をどう解いたかを引いてくる。

そしてPdMが新しい企画を立てるとき、AIはこう答える。過去三年でこのドメインに対して試された企画は七つあります。うち成功したのは二つ、失敗したのは五つ。失敗の主因は、三つがユーザーセグメントの読み違い、二つが実装コストの過小評価でした。今回の企画は、過去の失敗パターンのうちセグメント読み違いと近い構造を持っています、と。

これがどれほど異質なことか、立ち止まって考えたい。これまでのデータドリブンは、KPIダッシュボードを並べ、A/Bテストの結果を蓄積し、決定の根拠として数字を引く文化だった。それは確かに進歩だったが、結局のところ数字の断片を見ているにすぎなかった。なぜその企画を試したのか、なぜ失敗したのか、その時の議論はどうだったのか。そういう文脈は、ドキュメントの森のどこかに散らばったまま、誰も辿らないし、辿れなかった。

default openな組織でAIが知識を横断できるようになると、この構造が変わる。再現性が高まるのではない。再現性の検証自体が、初めて容易になる。なぜあの施策は成功したのか、別の文脈で再現可能なのか、ただの幸運だったのか。こうした問いに、組織が記憶として答えられるようになる。

これまでのデータドリブンは、数字を見ることだった。これからのデータドリブンは、判断の系譜を辿ることになる。

そして、AIが辿れない領域、すなわち組織が無自覚に閉じている領域は、そのまま組織の情報設計の通信簿になる。秘密でもないのに閉じているなら、それは設計ミスである。

開くことの引き受け方

オープンネスが重力になったということは、もはや誰もそれから自由ではないということである。開くことは美徳ではなく前提になった。だが前提になったからこそ、組織がそれをどう引き受けるかに態度が出る。

恐る恐る開く組織と、覚悟して開く組織は、同じ開いているでも組織の体温が違う。前者は閉じる重力に抗いきれず、いずれサイロに戻る。後者は開くことを設計の中心に据え、AIと共に組織知を編んでいく。

知識を閉じることで守れるものより、開くことで生まれるものの方が大きくなった。この事実を引き受けるかどうかが、これからの組織の分水嶺になる。

シクラメンは下を向いて咲く。重力に逆らうことなく、しかし確かに開いている。これからの組織のありようは、たぶんこれに近い。胸を張って開くのでも、誇らしげに透明性を掲げるのでもなく、重力を受け入れた姿勢のまま、ただ開いている状態を保つ。それがいいことなのか悪いことなのかは、まだわからない

AI中心主義という働き方。あるいは、逃げ場をなくす技術について

エンジニアはもう変わっている。あなたたちはどうだ

最近、エンジニアの間では「AI駆動」という働き方が当たり前になりつつある。コードの叩き台をAIに書かせ、レビューの下読みをさせ、設計の壁打ち相手にする。ワークフローの中にAIが自然に組み込まれていて、もはやAIを使っているという意識すらない人も多い。

一方でBiz側、つまり営業、マーケ、企画、バックオフィスはどうか。ChatGPTを触ったことはある。便利だとは思っている。Claudeがすごいという話を聞いたことのある人もいるかもしれない。しかし日常のワークフローがAI中心に再設計されているかというと、全くと言っていいほどそうはなっていない。議事録の要約くらいはやっているかもしれないが、仕事の構造そのものは変わっていない。

なぜか。

AIに置き換えられない仕事が多いから。それは違う。もっと手前の問題がある。

「置き換えられない」のではなく「置き換える設計がされていない」

エンジニアリングという分野がAI駆動しやすいのは、エンジニアが賢いからではない。ソフトウェア開発が何十年もかけてプロセスの形式化、洗練化にコストを支払ってきたからだ。

要件定義、設計、実装、テスト。インプットとアウトプットのセットが明確で、プロセスが定義されている。コードという成果物はテキストであり、AIが最も得意とする入出力形式にぴったり合致する。つまり、エンジニアリングとAIの親和性の高さはたまたまだといえる。過去の努力の積み上げが、偶然にもAIの能力と噛み合ったにすぎない。

Biz側の仕事はそうなっていない。

「営業する」「企画を通す」「ステークホルダーを調整する」

これらは塊のまま存在していて、プロセスに分解されていない。判断基準は人の頭の中にあり、ワークフローは属人的で、AIに何を渡せばいいのかが定義されていない。

ここで問いが立つ。Biz側の仕事は本当に分解できないのか、それとも分解していないだけなのか。

両方とも正解であると言える。しかし、多くの人の直感とは比率が違う。本当にできない部分は思ったより小さく、やっていないだけの部分が圧倒的に大きいのが現実である。

なぜやっていないのか

理由はシンプルである。自分の仕事を分解して言語化するのは、その仕事をやるのと同じくらい頭を使う。しかも短期的にはリターンが見えにくい。今の自分がなんとなくこなせている仕事を、わざわざ手順に落とす動機がない。失敗も成功も脆弱性すらも明け透けに共有するオープンソースという精神を持ったソフトウェア開発は、そもそもが失敗の歴史であり、Biz側は逆に上手くいったフレームワークこそ尊ばれる成功の歴史である。

また、Biz側は仕事を一番うまくやっている人が一番忙しく、分解する暇がないという矛盾もある。本人は暗黙知で回せてしまっているから、その人にとっては分解するインセンティブがない。今のやり方で回ってるのに、なぜわざわざそんなことをしようというのか。これは合理的な抵抗であって、決して怠慢とは言えない。

エンジニアの言葉で言えば、Biz側の仕事は例外処理の塊に見える。顧客が怒っている、想定外の要求が来た、社内政治が絡んでいる。毎回コンテキストが違うから手順に落とせない、と第一印象では感じる。だが実際には、例外処理が多すぎてメインロジックが見えなくなっているだけで、メインロジック自体は定型化できる可能性が高い。

問題は、そのリファクタリングを誰がやるのか、ということだ。

机上論から組織論へ

仕事を分解すればAIに渡せる。これは正しいが、机上論だ。

現実の組織は「分解しましょう」と言っても動かない。トップダウンでAI活用推進の号令を出しても、現場も知らない上が何かを言っているな、で終わってしまう。ボトムアップで有志が旗を振っても、一部の物好きがやっているな、という以上の広がりを見せない。

新卒でエンジニアになり、その後会社を経営し、少ないながら上も下も経験してきた私の経験則から言えば、そんな時に唯一機能する、というかそんな時はこうするほかない、と言えるアプローチがある。それはトップダウンとボトムアップのサンドイッチである。

上からと下から同時に挟み込んで、逃げ場をなくす。

もう少し醜く、しかし正確に言い換えよう。AIを使わない人間は上から評価されない。隣を見れば、AI を使っている同僚のほうが仕事が速い。下からは「なぜまだ手作業なんですか」と突き上げられる。三方向から逃げ場のない圧力がかかる状態を作ること。これが核心である。

プロスペクト理論が教えてくれること

なぜサンドイッチ構造が効くのか。行動経済学のプロスペクト理論がその構造を説明してくれる。

人は得をすることより損をしないことに強く反応する。損失回避バイアスと呼ばれるこの性質は、AI導入の文脈でも同じだ。「AIを使うと便利になりますよ」という利得の提示より、「AIを使わないと評価が下がる、遅れをとる、突き上げられる」という損失の提示のほうが、行動を駆動する力が圧倒的に強い。

三方向のサンドイッチとは、要するに三方向から損失回避を発火させる設計だ。上からの評価損失、横からの相対的な遅れ、下からの突き上げ。どこを向いても「使わないことのコスト」が見える。

これは行動経済学で言うところのナッジ、強制や禁止ではなく選択の自由を残したまま望ましい方向に行動を押す設計の、かなり過激な応用だといえる。本来のナッジはトイレの小便器にハエの絵を描くような穏やかな介入だが、サンドイッチ構造は三方向から退路を断っている。思想は同じだが、圧力が違う。

正しさで人は動かない

この構造の本質は、正しいことを正しいと伝えるのを完全に諦めているところにある。

人間の合理性を信頼しない。AIを使うべきだという正論では人は動かない。代わりに、損失回避というバイアスを逆手に取って、結果的に正しい方向に押す。道徳や啓蒙ではなく、インセンティブの構造設計で動かす。

これは冷たい話に聞こえるかもしれない。しかし、あらゆる技術導入の歴史がそうだった。Excelが普及したのは表計算は素晴らしいから、という正論のおかげではない。Excelを使えない人が仕事で困るようになったからだ。メールもSlackもSaaSも、すべて同じ構造で普及した。AI駆動もその例外ではない。

結局、何をすべきか

組織全体を一気に変えようとするのは現実的ではない。サンドイッチ構造を作るにも、まずは材料が要る。

やるべきことは小さい。自分の手の届く範囲で、一つの具体的な業務にAIを組み込み、「これだけ楽になった」「これだけ速くなった」という実例を見せる。隣の席の人が楽になっている姿は、どんな号令より説得力と嫉妬を煽る力がある。

その小さな成功が可視化され、上が旗を振るタイミングで接続されたとき、サンドイッチ構造が成立する。ボトムアップの実績とトップダウンの方針が噛み合った瞬間に、組織はようやく少しだけ動き始める。

AI駆動の前に必要なのは、結局のところ、自分の仕事のメインロジックと例外処理を分離するというリファクタリングだ。これはAI以前に、仕事の質を上げる行為そのものでもある。そして、それは言語化能力というAI時代に必要不可欠なスキルを磨く機会でもある。

AIはその触媒にはなれる。しかし、分解する主体は人間だ。そして分解された仕事は、AIがあろうがなかろうが、より良い仕事になる。AI中心主義の仕事をしたいのであれば、まずは人間の頭で人間の仕事を棚卸ししなければならない。自分というオブジェクト、それがもつ機能や行動一つ一つをリストアップし、課題をインプットとし、状況を変数とし、判断を条件分岐に変換し、結果をアウトプットとして出力するよう仕事を二次元のチャート化しなければならない。あなたがAIにまだ仕事を任せられないと思うのは、AIの能力の問題ではなく、タスクのインターフェース、つまりは入出力の設計が未定義であることが原因なのだから。

エンジニアはもう変わっている。まだあなたたちは変わらずにいられると思うか。

時間を食べる人々

桜が散り始めた。ついこの間咲いたと思ったのに、もう花びらが風に攫われている。毎年同じことを思い、毎年同じように驚く。一年というものがこれほど短いものだったかと、桜の季節が来るたびに思い知らされる。こんなことを言い出したら歳を取った証拠だと分かっている。入学式で校長先生が「桜の美しい季節となりました」と切り出すたびに、子どもの頃の私は何も感じなかった。あの言葉の重みが分かるようになってしまったこと自体が、少しだけ悔しい。

使い古された疑問ではあるが、日本人はなぜこれほどまでに桜をありがたがるのだろう。美しすぎるわけではない割に、意味を持ちすぎている。

春になれば人々は連れ立って桜の下に集まり、宴を開く。わざわざ開花予想を追いかけ、満開の日を狙って予定を立てる。「花は桜木、人は武士」などということわざにまでなり、散り際の美しさは人の生き様にまで重ねられてきた。一本の木にここまで意味を託す国民性は、冷静に見ればなかなか異様である。国を象徴する木なら他国にもある。カナダ人にとってのメープルがそうだろう。しかしメープルは樹液という実用から出発して国の象徴になった。桜は違う。実用的な価値などほとんどないのに、ただその儚さだけで特別な存在になった。日本人にとって桜は、役に立つから愛されたのではない。

しかし、少し視野を広げてみると、この異様さは桜に限った話ではないことに気づく。年を重ねるにつれて、人は季節の行事をやけに大切にし始める。餅をつき、七五三に着飾り、お盆には帰省して手を合わせる。若い頃は面倒に思えたそれらの儀式を、いつの間にか自分から守るようになっている。

あれはきっと、時の流れを大切にしているのだと思う。日常の中で時間はあまりにも静かに流れていくから、行事という杭を打ち込むことで、ここからここまでが一年だったのだと身体で確認したいのだ。正月があり、花見があり、盆があり、年の瀬がある。それらは暦という抽象的なものに手触りを与える装置であって、時間を感じるための技術のようなものだと私は思っている。

桜の話に戻ろう。

日本人の桜へのありがたがり方は、眺めるだけにとどまらない。桜餅、桜茶、桜ラテ、桜アイス。あの淡い桜色をしたものを、私たちはせっせと口に運ぶ。しかし正直に言って、桜味というものはそれほど美味しいものではない。花を塩漬けにしたものを湯に浮かべれば、酸っぱいようなしょっぱいような、なんとも中途半端な味がする。桜餅の葉にしても、風味というよりは食感の異物に近い。そもそもあの桜らしい香りは、生の花にはほとんどない。塩漬けにして細胞が壊れることで初めて立ち上がる香りだという。つまり自然のままでは存在しない味を、人間がわざわざ作り出してまで春を味わおうとしている。それでも私たちは毎年それを食べ、「ああ、春だ」と呟く。

これは味覚の体験ではない。儀式である。

美味しいから食べるのではなく、春を身体に取り込むために食べている。桜という象徴を口にすることで、「今年もこの季節を迎えた」という事実を内臓にまで届けたいのだと思う。もし桜味が本当に美味しかったなら、それはただの食材になってしまう。美味しくないからこそ、食べる理由が純粋に残る。私たちは味ではなく、意味を食べている。もっと言えば、時間を食べているのだ。

人間の身体には、放っておいても時間は刻まれる。シワが増え、白髪が混じり、年輪のように歳月が顔に刻まれていく。黙っていても時間は身体を通過していくのに、それだけでは足りないらしい。塩漬けの花びらを噛みしめ、舌の上で春を確認し、わざわざ感覚として時間を味わおうとする。

なんとも欲張りな生き物だなと、少し呆れる。呆れながら、今年も私は桜餅を手に取るのだろう。

学ぶ前に、学ばざるを得ない場所に立つ

技能を身につけるとき、効率を重視するのは当然のことである。体系的に学ぶのが好きな人もいれば、落下傘方式で必要な知識だけを取りにいくのが得意な人もいる。どちらが優れているかは状況と人による。そんなことは誰でも知っている。

しかし私が最近考えているのは、その手前にもう一段あるのではないか、ということだ。学び方の巧拙ではなく、学ばなければならない状況に自分を持っていく力というものがある。

世の中には学習法についての言説が溢れている。ポモドーロ・テクニック、アクティブリコール、フェインマン・テクニック。どれも学ぶと決めた後のパフォーマンスを上げる手法であり、それ自体は有用だろう。しかし学習効率の議論は何を学ぶかが既に確定した後の戦術にすぎない。何を学ぶべきかが決まっている状態というのは、実はかなり恵まれた条件であり、多くの人が見落としているのはその手前の戦略、つまり自分を学ばざるを得ない場所に立たせるという行為の方である。

二種類の仕事

仕事で何かを成さなければならないとき、それはつまり自分がその仕事のオーナーであり、自分がやらなければ進まない状態を指す。そしてオーナーとして抱える仕事には、大きく分けて二種類ある。

一つは、自分に遂行能力があると信じられる仕事。過去にやったことがある、手順が見えている、最悪うまくいかなくてもリカバリの方法が想像できる。もう一つは、自分のスキルで実行できるかどうかが不確実な仕事。やったことがない、全体像が見えない、失敗したときの影響範囲すら正確に見積もれない。

エンジニアで言えば、十年書いてきた言語で新機能を実装するのは前者だし、触ったことのない技術スタックでインフラを一から構築するのは後者だ。前者はどうやるかを考えればよいが、後者はそもそも自分にできるのかという問いがつきまとう。

心理学者バンデューラはこれを自己効力感という概念で整理した。自分がある行動を遂行できるという確信の度合いである。そしてバンデューラによれば、自己効力感には四つの源泉がある。直接経験、つまり自分でやったことがあること。代理経験、つまり他者がやっているのを見たこと。言語的説得、つまりあなたならできると言われること。そして生理的・情動的状態、つまり心身の余裕があること。この四つのうちどれがどれだけ確保されているかで、人が不確実な仕事を引き受けられると感じるかどうかが変わる。

重要なのは、この二種類の仕事の比率が、学習のトリガーの有無を構造的に決めるということだ。確実な仕事だけを抱えている状態は、ぬるま湯というよりも学ぶ必要が構造的に発生しない状態と言った方が正確である。

必要と興味のあいだ

必要に迫られた状況では他に類を見ないほどに学習は進む。これは私の実感として確かだ。しかし人間には興味というものがある。ある種のことは自然に学びとってしまう。だから必要がなければ人は学ばないと言い切ると少し嘘になる。

たとえば立ち居振る舞いやコミュニケーションの型はちょうどその間に属するものだと思う。社会生活上必要に迫られて身につける側面と、内発的動機から積極的に経験していこうとする側面の両面がある。私個人の話をすれば、昔から社会不適合感を覚えていて、最初は必要に迫られてコミュニケーションの型を身につけようと努力していた。しかしだんだんとそこに興味を持つようになっていった。必要から興味へのグラデーション、あるいはスライドとでも呼ぶべきものがそこにはあった。

つまり学習の駆動力には必要と興味という二つの極があり、多くの学びはそのあいだのどこかに位置している。ただし興味だけで駆動される学習は、優先度が下がった瞬間に棚上げされる危うさがある。必要という外圧が加わったとき、学習は棚上げを許されなくなる。だからこそ、自分を必要に迫られる場所に立たせるという行為には意味がある。興味の芽があるなら、それを必要という構造で支えてやれば学習は止まらなくなる。

状況設計という技術

ここでだから不確実な仕事に飛び込めと書けば話は簡単だが、それは精神論であり、精神論は再現性がない。

私が言いたいのは、学ばざるを得ない状況を設計するという行為そのものを技術として認識すべきだということだ。意志力で机に向かうのではなく、仕事を持ってしまうことで学習を不可避にする。外的な構造に自分を組み込むことで、意志の強弱に依存しない学習の駆動力を得る。

たとえば私の話をする。バックエンドエンジニアとして十年以上やってきたが、直近の転職でインフラの仕事を持つことになった。Terraformもecspressoも業務で本格的に触ったことはなかった。AWSのネットワーク設計、CIDRの切り方やALBとECSの繋ぎ方やセキュリティグループの設計も、概念としては知っていても自分の手で設計した経験はなかった。

その仕事は誰かがやらなければならないもので、期待される役割上、私がそれに相応しかった。明確にやれと言われたわけではないが、私がやった方がいいだろうと誰もが思っていた。だから手を挙げた。これは崇高な挑戦心からではない。状況を読んで、ここで手を挙げることが合理的だと判断したにすぎない。しかしこの判断そのものが状況設計の一部なのだと今は思う。降ってきた仕事をただ受けたのでもなく、無関係な領域に無謀に飛び込んだのでもなく、自分が手を挙げるべき場面を見極めて踏み出した。

仕事として持った瞬間、学ぶかどうかは意志の問題ではなくなった。CIDRを理解しなければネットワークが設計できない。セキュリティグループの意味がわからなければサービスが動かない。そして実際に手を動かしてみると、概念として知っていたことと自分の手で設計することの間には大きな溝があった。CIDRブロックの計算は理屈では理解していたが、実際にサブネットを切ってみると考慮すべきことが次々に出てくる。この溝を埋める作業は、教科書を読むだけでは絶対に発生しない。仕事として持ち、動くものを作らなければならないからこそ初めて直面する種類の学びがある。

これは追い込まれたら人は頑張るという根性論とは違う。追い込まれること自体を設計する、という話である。

ポートフォリオを管理する

ただし、不確実な仕事を闇雲に引き受ければいいわけではない。全部が初めてのことだと、何を優先すべきかの判断基準すら持てなくなる。学習が駆動されるどころか、仕事を回すこと自体で精一杯になり、学びの余白が消える。

ここで重要になるのが、確実な仕事と不確実な仕事のポートフォリオ管理である。

私は入社直後に新規プロジェクトを任された。一般的な転職であればOJT的なタスクを通じてクイックウィンを積み上げていくものだが、その機会が構造的に存在しなかった。新規プロジェクトの成果が出るまでには時間がかかる。その間、私が何をできる人間なのか、何をしている人間なのかが周囲から見えにくい状態が続く。これは心理的にも良いものではない。

だから私は戦略的にもう一本の柱を立てた。簡単な社内向けのツール開発である。SlackのBot連携やGASを使った業務改善ツールなど、バックエンドエンジニアとしての十年間の蓄積がそのまま効く領域で、すぐに完成し、かつエンジニア以外にも成果が見える何かを作ることにした。信用残高の積み立てという目的と、自分自身の中にクイックウィンを積み上げるという目的の二つがあった。この人は何ができるのか、この人に何かを頼めるのではないか。そう思わせる存在感を早期に確立することが中長期的に有効だと考えた。

この二本立てが結果として今のところ機能している。確実にできる仕事で信頼を積み、その信頼がバッファとなって不確実な仕事にも猶予と支援が得られる。この人は確実な仕事ではちゃんと成果を出している、だから不確実な仕事で多少時間がかかっても投資する価値がある。信頼は不確実な仕事に対するバッファである。

バンデューラの四つの源泉で振り返ると、インフラの仕事を引き受けられた条件が整理できる。直接経験はなかった。しかしチームにインフラの経験者がいて、詰まったときに相談できる環境があった。これが代理経験にあたる。タスクとして任されたこと自体が一定の信任の表明でもあった。これが言語的説得にあたる。そして確実な仕事の方で成果を出せていたことが、精神的な余裕を担保していた。これが生理的・情動的状態にあたる。四つのうち三つが確保されていたからこそ、直接経験がゼロでも踏み出せた。

逆に言えば、四つの源泉が全滅している状態で不確実な仕事を引き受けるのは設計ではなく無謀である。状況設計の要諦は、飛び込む前に自分が持っている支援構造を棚卸しし、最低限の条件が揃っているかを確認することにある。

設計は万能ではない

ここまで書いてきたことを自分の経験に照らして美しく整理しすぎたかもしれない。正直に言えば、私の設計は想定通りには進んでいない。 代理経験としてカウントしていた相談先は、CTOか業務委託で週二日しか出勤しない人の二択だった。どちらも忙しい。拘束できる時間は限られている。つまり質問を絞らなければならない。何がわかっていて何がわからないのかを自分の中で明らかにしてからでないと、相手の時間を使う正当性がない。これは学習効率の観点では良い規律かもしれないが、詰まったときにすぐ聞けないという制約は想定より重かった。 加えて私には人に遠慮しすぎて自分の仕事を低く見積もるきらいがある。忙しい人のカレンダーを無理やりおさえるという行為が苦手だ。相手の時間を奪うほどの仕事なのかと自分で自分にブレーキをかけてしまう。これは性格の問題であると同時に、設計の前提条件として織り込んでおくべきリスクだった。

さらにガバナンスの問題があった。組織の都合上インフラ周りの権限がかなり制限されていて、AWSコンソールから各種設定がどうなっているのかを調べることさえ困難な状態だった。手を動かして検証するスタイルで学ぶと言っておきながら、手を動かす前提となる環境への可視性が制限されていた。その結果、当初想定していたよりもステージング環境の構築に時間がかかっており、今まさにバッファを圧迫している。

つまり私が確保していたと思っていた三つの源泉のうち、代理経験は想定より薄く、生理的・情動的状態もバッファの圧迫によって徐々に削られている。設計は破綻したわけではないが、前提条件が想定より脆かった。

ここから得られる教訓は、状況設計は一度やれば終わりではないということだ。四つの源泉は固定値ではなく、プロジェクトが進むにつれて変動する。代理経験の厚みが想定と違ったなら質問の精度を上げるか別の相談先を開拓するか、自分の性格的な制約が障壁になっているならそれ自体を設計に組み込むか。設計とは一枚の図面を引くことではなく、前提が崩れるたびに修正し続ける継続的な行為である。

設計の問題として捉え直す

まとめると、こういうことだ。

学習効率の議論はすべて学ぶべきものが決まった後の最適化であり、それ自体は重要だが、もう一段手前がある。学ばざるを得ない状況に自分を置くという戦略である。そしてその学習は、最初は必要に迫られて始まったとしても、やがて興味へとスライドしていく可能性を持っている。必要が興味の入り口になるのだとすれば、自分を必要の場に立たせることは、未来の興味の種を蒔く行為でもある。

その戦略は、不確実な仕事のオーナーシップを引き受けることで実現される。ただし手を挙げるべき場面を見極める目利きが必要であり、闇雲に引き受けるのではなく、確実な仕事と不確実な仕事のポートフォリオを意識的に管理し、自己効力感の源泉が最低限確保されていることを確認してから踏み出す。確実な仕事で信頼を積みながら不確実な仕事で学ぶ。この二本立てを戦略的に設計することが、学習の持続性を構造的に担保する。

精神論は再現性がない。勇気を出して飛び込めは、たまたま条件が揃っていた人の生存者バイアスにすぎない場合が多い。本当に必要なのは、飛び込める条件を自分で整える技術の方である。学ぶ前に、学ばざるを得ない場所に立つ。ただしその場所が崖っぷちではなく、足場のある高台であることはしっかりと確認しなければならない。ほとんど安全で、少し危険な位置。コンフォートゾーンから一歩踏み出した、小さなストレッチを意識せざるを得ない場所。よく言われるのはそこまでで、その座標を作り出し割り出す技術、そしてそこへ自分を追い込む力というものは見過ごされがちながら非常に重要な能力である。

プロトコルでコミュニケーションを解剖する

エンジニアは比喩で世界を理解する生き物である。データベースで記憶を語り、キャッシュで習慣を語り、負債で組織の歪みを語る。であれば、人間のコミュニケーションを通信プロトコルで解剖してみるのもまた、エンジニアらしい営みといえるのではないか。

この記事は、自分自身の対人関係のパターンを振り返るうちに「これはプロトコルの問題だったのか」と腑に落ちた話を書く。技術的に厳密なアナロジーではないけれども、自身や周囲のコミュニケーションを理解するフレームワークとしてはかなり使える気がしている。

TCP — 私のデフォルトプロトコル

私のコミュニケーションは、基本的にTCPで動いている。

TCPは信頼性のあるプロトコルである。通信の前に三方向ハンドシェイクで接続を確立し、データが届いたらACKと呼ばれるデータ受領を伝える確認応答パケットで確認し、パケットの順序も保証する。確実だが、オーバーヘッドが大きい。

私は人と話すとき、常にACK、つまり相槌やリアクションのようなものを求めている。自分の発言が届いたか、相手がどう受け取ったか、接続は今も生きているか。沈黙が訪れると不安になる。パケットがドロップしたのではないか、接続が切れたのではないかと疑ってしまう。であるからあえて無駄口を叩く。ふざけて場を軽くする。これは言ってしまえば次に挙げるpingのようなものだ。

ICMP — 接続確認用の軽いプロトコル

ICMPとは、接続確認やエラー通知に特化した非常にシンプルで軽量なプロトコルである。ハンドシェイクや再送などの機能もなく、大した容量も送れない。

私が軽い冗談や無駄口を叩くのは、まさにこのプロトコルを使って接続を確認するだけの行為である。相手にpingを打って、pongが返ってくることで、まだ繋がっているな、と確認する。ただそれだけの行為と言える。

このコミュニケーションの問題は、pongが返ってきても安心が持続しないことだ。通信は一瞬で終わる。確認できたのはその瞬間だけの事実であって、次の瞬間にはもう不確定に戻っている。沈黙が訪れると、接続ができているのかどうか不安になる。通信相手とのつながりが本当にまだそこにあるのか、相手が何を考えているのかがわからず不安に襲われる。だからまたpingを打つ。永遠にステートレスな関係が続き、過去の通信が信頼として蓄積されない。

普通の人はある程度のやりとりを経ると、接続の信頼性をキャッシュできるらしい。この人とは大丈夫だ、という前提で動けるようである。しかし私はそのキャッシュが効かない。もしくは、この方式の通信におけるキャッシュの寿命、つまりはTTLが極端に短い。毎回ゼロから接続を確認しなければ気が済まない。

本来ステートフルであるべき接続を、ステートレスに運用しているのだから、疲れるのは当然なのかもしれない。

UDP — 届いたか確認しないという自由

UDPはTCPの対極にいる。接続の確立もACKの確認もしない。データを投げたら、届いたかどうかは気にしない。パケットが落ちても再送しない。

多くの人の「中間距離のコミュニケーション」はこれだと思う。同僚との雑談、すれ違いざまの挨拶、Slackのスタンプ。送りっぱなしで、たまに返ってくればそれでいい。パケットロスなんて誰も気にしていない。

私はUDPのようなコミュニケーションが得意でない。得意でないというのは嫌いだとかそういう意味ではなく文字通りの意味で、上手でない。しかしこういったコミュニケーションに憧れている。届いたか確認しない。相手の反応を追わない。投げっぱなしで平気。それは無責任なのではなく、「通信が途切れても自分が壊れない」という前提を持っている人にしかできないことだ。UDPで通信できるということは、接続の維持に自己の存続がかかっていないということであると私は思う。

私にはその割り切りがない。接続が切れることと、自分の居場所がなくなることが直結しているような感覚がある。だから仮にUDPで送信するふりをしていても、裏ではTCPのハンドシェイクを要求してしまう。言いたいことを一方的に言っているような無遠慮な通信の体裁をとっていたとしても、その実相手の反応を注視してしまっている。表面はUDP、中身はTCP。無意味なプロトコルの偽装をするケースもあるわけだ。

HTTP — 虚無のプロトコル

HTTPはリクエストとレスポンスの一問一答で成り立つプロトコルである。クライアントがリクエストを送り、サーバーがレスポンスを返す。それで終わり。接続は閉じられる。

ビジネスメール、事務連絡、問い合わせへの回答。用件があるときだけ通信して、用件が済んだら接続は消える。私はHTTPに最も虚しさを感じる。

接続の確立は一瞬で、通信内容は簡潔で、終わったら何も残らない。私にとってはキャッシュに書き込まれる余地がない。こちらがどれだけ丁寧にレスポンスを返しても、相手にとってはAPIを一回叩いただけのことだ。次のリクエストが来るかどうかもわからない。来なければ、それで関係は終わりだ。何の痕跡も残らない。

HTTPの世界では、通信の質は問われない。ステータスコード200が返ればそれでいい。私が返したレスポンスの内容がどれだけ練られていようと、相手が見ているのは「正常に処理されたかどうか」だけだ。

これが虚しいと感じること自体が、おそらく私の偏りなのだろう。世の中の大半のコミュニケーションはHTTPで十分に機能しているし、それで誰も困っていない。困っているのは、すべての通信に接続の実感を求めてしまう私のほうだ。

WebSocket — 常時接続という安心

WebSocketは、一度接続を確立したら双方向に常時開かれたままになるプロトコルである。いつでもデータを送れるし、いつでも受け取れる。接続の確認は不要。回線はずっとそこにある。

親友、恋人、家族の一部。ごく少数の、深い関係がこれにあたる。

WebSocketの関係においてだけ、私は安心できる。pingを打たなくても接続が確立されていることは保証されているから、沈黙がまったく怖くない。黙っていても接続は維持されているという確信がある。キャッシュがようやく永続化される領域であるといえる。

しかしやはり、WebSocketの接続を確立するまでのコストは高い。最初はHTTPでハンドシェイクして、プロトコルをアップグレードして、ようやく常時接続に至る。私の場合、そこに至るまでの閾値がおそらく人より高い。かなりの通信量と深度を経ないと、「この接続は信頼できる」というフラグが立たない。

当然、WebSocketの関係は数が少ない。それは意図的に絞っているわけではなく、単純にアップグレードの条件を満たす関係が限られていることに起因する。

マルチキャスト — 一方向だからこそ安全な通信

マルチキャストは、一つの送信元から複数の受信先に同時にデータを配信するプロトコルだ。テレビの放送、ライブ配信、そしてLTの発表やブログ。

社会に出てから気づいたのだが、私はマルチキャストが得意で、プレゼンのような場で普通の人が感じる緊張もあまり感じないらしい。私にとっては比較的気楽なプロトコルといえるかもしれない。

理由は明快で、双方向の確認が不要だからである。一対一のTCP通信では常にACKを追いかけてしまう私が、一対多の配信になると途端に楽になる。受信者の個別の反応を逐一確認する必要がないし、沈黙もあって当然であるという認識のもと成り立つ通信であるから、今更どうとも思わない。送信し続けている限り、通信は成立しているわけである。

LTで何か技術的な発表をするとき、ブログで思考を書き下すとき、私はTCPのオーバーヘッドから解放されている。伝えたいことを伝えたい形で送信して、それが届いたかどうかは受信者に委ねる。これは私が普段の一対一では決してできないUDP的な投げっぱなしに近い。

最近入社した会社で、すでに複数回LTを実施している。これはなぜかと考えると、マルチキャストは私にとって、TCPの苦しみを回避しながら人と繋がれる貴重な生存戦略だったのかもしれない。一対一の接続を確立せずに、不特定多数に自分を送信できる。仮面をかぶらなくていい。むしろ、マルチキャストしているときの自分が一番素に近いとさえ感じることもある。

MQTT — 生存確認という最小限のやさしさ

MQTTはIoTの世界でよく使われる軽量プロトコルである。常時接続ではあるが、通信量は極めて少ない。「生きているか」という最小限のシグナルを、定期的に、低帯域で送る。

誰もが一度はこんな経験をしたことがあると思う。不意に古い友人から「元気か」「生きてるか」と、それだけのメッセージを受け取る。何か重要な連絡でもないし、また今度飲もうだなんて言いながらも、内容はほぼない。しかし、そのメッセージを受け取ったこと自体に、なんだか安心するような感覚を持つ。

数年間の沈黙があったのに、接続が生きている。しかもそれは相手からの発信だから、自身がpingを打つ必要もない。向こうから来る。こういった通信は、最小限でありながら、十分で、意味があって、何にも代え難い価値のあるものであると私は感じる。

MQTTの関係では、私のキャッシュはちゃんと効いている。数年分の沈黙に耐えられている。これは重要な発見だった。私にキャッシュが一切効かないわけではない。十分に深い通信を過去に経た関係では、ちゃんとキャッシュが残り、むしろ他の人よりもずっと長期間有効であり続けるように思う。

ここでもやはり問題はキャッシュの書き込み閾値が高いということだ。UDPレベルのやりとりでは書き込まれない。WebSocketレベルの深い通信を経て、ようやく永続化される。一度永続化されれば、あとはMQTTの最小限のシグナルだけで維持できる。

不意に受信するMQTTのメッセージは、私にとってとてもありがたい。「お前との接続はまだ生きているぞ」という、最も低コストで、最も確実な存在証明、友情や愛情の表明ようなものである。

結論 — 自分のプロトコルスタックを知ること

ここまで書いて見えてきたのは、私の通信プロファイルだ。

  • WebSocketで常時接続できる少数の関係が生命線
  • MQTTの古い友人が、静かな安心の層として存在する
  • マルチキャストは、TCPの負荷を回避しながら自分を表現できる安全な形式
  • TCPの中間距離が最もコストが高く、ここで消耗する
  • UDPで通信できる人たちに憧れるが、自分にそのプロトコルは実装されていない
  • HTTPの一回限りのやりとりに、最も虚しさを覚える

これを知ったからといって、自分のプロトコルを書き換えられるわけではない。TCPで動いている自分を、明日からUDPにはできない。キャッシュのTTLを延長するコマンドもない。

しかし、なぜ自分は中間距離の関係で疲れるのか、なぜ一人のときは楽なのか、なぜLTやブログでは自然に振る舞えるのか。これらの問いに、プロトコルという言葉が一貫した説明を与えてくれた気がした。

自分のOSを書き換えることはできない。けれども、自分がどんなプロトコルスタックで動いているかを知ることはできる。相手に合わせたプロトコルを選ぶことが重要なことと同様に、自分自身が好み必要とするプロトコルが何なのかを把握することもまた重要なことであると気付かされた。そしてその理解が正確であれば、少なくとも理不尽な社会不適合感は減る。

バグを直せなくても、バグが起きる作用機序や再現手順さえわかっていれば、致命的なエラーは回避するよう運用でカバーできる。これはおそらく、そういったタイプの対処法を取るべき問題なんだと思う。やりにくさや気まずさ、コミュニケーションの難しさは日々感じるけれども、それは自分にも一因は当然あって、その傾向を知ることで大なり小なりやり方のようなものを見つけていけるのかもしれない。なかなか難しいけれど。

哲学論考 - 日本語と暗黙知とAI時代の哲学について

哲学について議論をして、実務としての仕事の考え方にまで発展したのでメモとして記録しておく。

きっかけ:弁証法とヘーゲル

弁証法の話から入った。テーゼ(正)とアンチテーゼ(反)をぶつけて、より高い次元のジンテーゼ(合)に至る思考法。ヘーゲル(1770-1831)がこれを歴史全体に適用して、「歴史は弁証法的に進歩する」と言った。

ただ、これには納得いかなかった。歴史が一方向に良くなっていくなんて楽観的すぎる。同じ愚行が繰り返されてるのを見れば、アウフヘーベンで上昇し続けるなんて思えない。

ヘーゲルがああいうことを言えたのは、ナポレオン戦争後のプロイセン復興期にベルリン大学の教授(のちに総長)だったという立場が大きい。「歴史は理性的に進歩する」という思想は、近代化を推し進める国家にとって都合が良かった。ポジションが思想を規定する。これはセネカがネロの側近だったことと同じ構造。

サルトルと実存主義

ヘーゲルから時代が飛んで、サルトル(1905-1980)。彼の実存主義の核心は「実存は本質に先立つ」。人間には設計図も目的もなく、まず存在してしまって、自分が何者かは自分の選択で事後的に決まる。

ここから「人間は自由の刑に処されている」というフレーズが出てくる。神も運命もないということは、何を選んでも正解だと保証してくれるものがない。全部自分で選ぶしかなく、結果も全部自分が引き受けるしかない。

サルトルはノーベル文学賞を拒否し、レジオンドヌール勲章も辞退し、権威を徹底的に拒んだ人。5万人が葬儀に来たというのだから、影響力は凄まじかった。

実存主義の弱点

ただ、サルトルの「完全な自由」には無理がある。生まれる国、家庭、身体、言語、時代は一切選べない。そして選べなかった条件が、その後の選択可能な範囲を決定的に制約している。 さらに幼少期は自分で意思決定なんてしていない。親の価値観や文化を無自覚に内面化して、それが「自分」の土台になっている。20歳で「さあ自由に選べ」と言われても、選ぶ基準自体が選べなかった環境で作られている。行き過ぎた自己責任論にも聞こえる。

パリの名門校で哲学を学んだサルトル自身が「全部自分の選択だ」と言えるのは、選択肢が豊富に用意された環境にいたから。

メルロ=ポンティ:身体に根ざした哲学

このサルトル批判を正面から引き受けたのがメルロ=ポンティ(1908-1961)。サルトルと同世代で、高等師範学校の同窓。 彼の核心は「身体を哲学の主役にした」こと。西洋哲学はデカルト以来、精神(意識)が主役で、身体はただの入れ物だった。サルトルの実存主義も「意識が自由に選択する」話であって身体はあまり問題にならない。

メルロ=ポンティはこれをひっくり返した。身体は精神に従う単なる客体ではなく、主体的な側面を持っている。キーボードを打つとき、指がどのキーにあるかを意識的に考えない。身体自体が一種の知性を持っている。 知覚も両義的で、同じ石を触っても自分の体温や手の状態で感じ方が変わる。世界は「客観的にそこにある事実」ではなく、常に身体を通して立ち現れるもの。

人間の自由は「宙に浮いた純粋な意識の自由」ではなく、「身体的な状況に埋め込まれた自由」。過去の経験が身体に沈殿していて、現在の選択を方向づけている。これは自分の実感に非常に近い。「登れる山を登れ」という感覚は、まさに状況に埋め込まれた自由の中で最善を選ぶ態度だ。

「本質」は存在するのか → 構築主義へ

メルロ=ポンティの「身体を通じてしか世界に触れられない」を突き詰めると、「本質そのもの」にアクセスする手段が原理的にない。本質があるかないかという問い自体が意味を失う。物事の本質は、身体というレンズを経由した意識が測るものでしかなく、本質そのものは存在しない。構築主義的な結論に至る。

構造主義:要素より関係のパターン

構築主義を理解するには構造主義を経由する必要がある。構造主義は「個々の要素ではなく、要素同士の関係のパターンにこそ意味がある」という考え方。

原点はソシュールの言語学。「犬」という言葉に犬の本質が含まれているのではなく、「猫」でも「狼」でもないという差異のネットワークの中に位置づけられることで意味が生まれる。個々の要素に固有の意味があるのではなく、システム全体の構造が意味を生み出している。

これをレヴィ=ストロースが人類学に持ち込み、ラカンが精神分析に適用し、1960年代に思想運動として爆発した。構造主義のラディカルさは「人間を中心から引きずり降ろした」こと。サルトルが「人間は自由に自分を作る主体だ」と言ったのに対し、「人間は自分が意識していない構造に規定されている」と返した。

ポスト構造主義と構築主義の関係

構造主義の「構造は安定している」という前提を批判したのがポスト構造主義(デリダ、フーコー)。構造はあるが、常にズレや揺らぎを含んでいて完全に閉じたシステムにはならない。 構築主義(社会構成主義)は「現実や知識は社会的な相互作用の中で作られる」という立場で、ポスト構造主義より広い概念。両者はベン図で言えば重なりが大きいが完全には一致しない。共通するのは「自明に見えるものは実は作られたものだ」という懐疑の姿勢。

ソシュールとシニフィアン/シニフィエ

ソシュールの最もラディカルな発見は、シニフィアン(意味するもの=音のイメージ)とシニフィエ(意味されるもの=概念)の結びつきが恣意的だということ。「犬」という音と四本足で吠えるあの動物の概念の間に必然的な関係はない。英語ならdog、フランス語ならchien。 これは「言語は現実を映す鏡だ」という西洋の長い伝統の根っこを引き抜いた。言語は現実を「映している」のではなく「切り分けている」。虹の色の数が言語によって違うのはその証拠で、虹のスペクトルは連続的なのに、言語が恣意的な境界線を引いている。

言語化の精度が違えば見えている世界が違う。この差がAIの時代に致命的になる。

後期ウィトゲンシュタインの合流

ソシュールとは別ルートで同じ結論に至った人がいる。ウィトゲンシュタイン。彼は初期の『論理哲学論考』で「言語は世界の像である」という写像理論を展開したが、後期になって自分の理論をひっくり返し、言語の意味は使用の中で決まる(「言語ゲーム」)と主張し始めた。

宗教と言語観:日本の立ち位置

「言語が現実を映す」なんて、宗教的な視点のない立場からはあり得ないように思える。でもキリスト教圏では、神が世界を言葉によって創造した(「光あれ」)という聖書の記述があり、言葉と事物の対応は神が定めたものだという発想が自然だった。中世ヨーロッパの知識人はほぼ全員が聖職者か修道院で教育を受けた人間で、言語と現実の対応に根拠がないと言うことは神の創造の秩序を否定することになりかねない。

ソシュールが恣意性を主張できたのは、20世紀初頭のフランスという世俗化が進んだ環境にいたから。知識の正当性の根拠が「神」から「科学的方法」に移行した後でなければ、この理論は成立しにくかった。ここでもポジションが思想を規定する。 無宗教的な世界観が当たり前の日本は世界的に見るとかなり特殊で、「言語が現実を映すなんてあり得ない」という感覚は日本の文化的文脈があってこそ自然に出てくる。それ自体もまた構築されたもの。

日本語・英語・AIの構造的な関係

ここからが実用的な話の核心。 AIとの協働は、本質的に「自分が何を求めているかを明示的に言語化する」行為だ。プロンプトエンジニアリングという言葉の存在自体が、暗黙知では機械と協働できないことの証明。「いい感じにやっておいて」が通じるのは同じ文化的文脈を共有した人間だけで、AIにはコンテクストを全部言葉で渡さなければならない。

英語圏が有利なのは、英語の構造だけでなく、明示的に言語化する文化的訓練を何百年もやってきたから。小学校からエッセイライティングやディベートで「主張を明確にし、根拠を示し、論理的に構成する」訓練を受ける。プラトンの対話篇から続く「言葉で説得する」文化が教育に埋め込まれている。

一方で日本の教育は読解と感想文が中心。「筆者の気持ちを答えなさい」は、テキストに明示されていない意図を文脈から推測する訓練で、自分の主張を構造的に言語化する訓練とは正反対。これは高コンテクスト文化と整合しているが、AIとの協働には最悪の準備になっている。

プログラミング言語自体が英語の論理構造ベースで設計されている(if-then-else)という点も含めて、ここには言語的・文化的な構造差がある。 結論:暗黙知の明文化は義務になった

これまでの日本では暗黙知で仕事ができた。同質的な組織の中で「空気を読む」ことが機能し、「当たり前」を言語化する必要がなかった。 だがAIの登場で状況は変わった。

  • AIに仕事をさせるには、暗黙知を明文化する必要がある
  • 明文化されていない知識はAIが活用できない=組織の資産にならない
  • 暗黙知を抱え込む人は「あの人に聞かないとわからない」という属人性で権力を持てたが、ナレッジベース×AIの時代にはその権力構造が崩れる
  • 知識を抱え込む人は価値を失い、知識を言語化して共有する人が価値を持つようになる

「当たり前」を言語化しないということは、なぜそれが当たり前なのかを検証する手段を持たないということだ。エンジニアリングで言えば「なんとなく動いているコード」は技術的負債と呼ばれる。「なぜ動いているのか」を言語化する行為は、当たり前をこねくり回す作業そのものだ。

日本では当たり前のことをこねくり回して理屈を再発見しても評価されない。しかしAIという「空気を読まない他者」が日常に入り込むことで、初めて自分たちが何を暗黙の前提にしてきたかが可視化される。暗黙知を明文化する文化的訓練は、もはや知的な趣味ではなく、組織が機能するための義務になりつつある。

言葉の精度にこだわることの意味は、「正しい言葉で現実を正確に写す」ためではない。ソシュール以降の言語観に立てば、そもそも言語は現実の鏡ではない。言葉の精度にこだわる意味は、「言葉の選び方が現実の見え方を変える」からだ。そして今、その「見え方」の精度が、AIを活用できるかどうかを直接的に左右する時代になった。

私たちがこれまであいまいにしてきたこと、あえて言語化してこなかったことですら、これからはAIにコンテクストとして与えるために明文化せざるを得なくなる。人間は、AIを使おうとすることで文化や思想を一歩前進させなければならないのかもしれない。特に日本においては、民族特有のことなかれ文化が破壊されうる事態に直面しているのかもしれない。使う側が使うものに試されるというのは、これまたなんとも哲学的でおもしろいことだと私は思った。

目覚ましが鳴る

最近仕事に1時間ほど早く出勤して朝活をしている。朝活では何か30分から1時間で作れる範囲のコミュニケーションツールや分析botなどを作っている。コミュニケーションのきっかけや促進につながればいいという思いからそんなようなプチハッカソン的なことをやっているが、いくつか作っていくうちに思わぬ方向に波及していくことがあった。これまでslackで特定のスタンプの数を集計して最も多くもらった人を表彰するような仕組みであったり、全社員が受けている心理テストからその人と関わる上で注意すべき点や組み合わせによって期待できる役割分担などを提示するAIエージェントであったりを作った。良かれと思って作ったというよりは思いつきで作ったものであったが、相性診断エージェントの場合は相性が悪い相手を調べることに使われてしまったり、特定のスタンプを送りあっている人の相関図のような見方をする人が出てきてしまったり。

私は基本的に性善説に基づいて物事を考えるから、そのような使われ方をするとは全くもって思っていなかった。包丁は確かに人を傷つけられるが、それは料理に使うべきものであって、普通は自分にとって便利なように使うものである。しかし一定数、包丁の鋭さに怖さを覚えたり、それを振りかざす人が出てくる可能性を危惧して包丁の存在自体に異議を唱える人というものは出てくるようだ。作った道具が思ったように使われない、という事態はエンジニアにとってあるあるといえるものではあるが、しかしこうも作るもの作るものにネガティブな反応が出てくるとは思わなかった。私の考えの浅さというのもあるが、いやいや、普通に考えて普通の大人ならこう受け取るだろう、という期待が通用しないというのもなかなかストレスフルなものである。思いつきとはいえ、少なくとも最初はハッピーなコミュニケーションを目指してその役に立つものを作ったつもりであったのに、なぜかその存在に対する認識の時点でディスコミュニケーションが起きる。ままならないものである。私の感覚では、進んで人を傷つけたい人なんているわけもなく、自ら自分を傷つけたい人も多少はいるとしても基本的には少ないはず。しかし現実はそうでもなくて、私が作ったものの受け取られ方も多種多様のようであった。

現実の人間の相関図というものはなかなか扱いが難しい。確かにラベリングのようなことが起きてしまうし、コミュニケーションに何かしらのバイアスをかけてしまうこともある。とはいえ、そんなことは分かった上でそれをうまく使おうとか、占い程度の認識でお遊びでそれを使うとか、そういった受け取り方をどこかで私が期待してしまっていたのかもしれない。その期待が裏切られた感じでなんというかモヤモヤが残る。当然人を傷つけないように最低限のガードレールを敷いて作っているし、伝え方のトーンも私なりにポジティブな表現を選んでいる。それでもやはり変な伝わり方はしてしまう。今は正直、それを全て自分の責任であるとは考えにくい。普通に受け取って普通に考えて欲しいのに。そんなに難しいことや悪意の見えるような態度で物事を頼んでいるわけでもないのに、ネガティブなフィードバックがくると水を差された気分になって、なんというかワクワクしていた気持ちが一瞬で萎えてしまう。

だからというわけでもないが、あまり物を作るにあたってそういうことを深く考えすぎないようにした。何を出したところで喜ぶ人もいれば無視する人もいるし、批判したがる人もいる。ただの意見や構造の指摘を出しているつもりでも、自分自身が否定されたと信じ込んでしまう人もいる。もう考えていたって仕方ないことなんじゃないかと思う。実際に使ってもらって、フィードバックを反映させてツールに対するエンゲージメントや学習をどんどん高めていくしかこれを克服する方法はない気がする。というか、元々自己満足で作っているものなので正直称賛は募るが批判はどうでもいいというところもある。必要ないコミュニケーションは意識的に遮断するに限る。

既存の仕組みを破壊するものであるとか、仕事のやり方を変えてしまうものであるとかで批判が飛んでくるのは職責の性質上慣れているが、そういった性質でないものでさえ反発があることに驚いた。まあそんなものだよな、という諦念と、いやいやこれは流石に自分のせいではないな、と思う他責の念が渦巻いてなんというか塩っぱい感覚に陥った。今日も納得のいかない1日であった。おやすみなさい。

セネカ - ストア派の巨人と矮小な私について

セネカという哲学者がいる。紀元前1年頃に生まれた古代ローマのストア派哲学者で、暴帝ネロの家庭教師を務め、最期はネロに命じられて自ら命を絶った人物である。質素倹約を説きながらもローマ随一の富を築き、心の平穏を説きながらも権力闘争の渦中に身を置いた。彼ほど哲学と人生が矛盾し続けた人間はなかなかいないだろう。しかしその矛盾こそが、二千年後の今なお読まれ続ける理由であり、それこそが人間であるということなのだと思う。

最近、私は自分がストア哲学に近いことをしていると感じるようになった。感情から距離を取り、理性で構造を把握しようとする。ロバート・キーガンの免疫マップで自分を客体化し、ストア派の根本思想であるディコトミー・オブ・コントロールや仏教の教えから苦の構造を整理する。方法論としては実にストア的なことをしているように見える。しかしセネカの思想により詳しく触れてみると、私はセネカと同じ道具を使いながら、まったく違う場所を目指しているのではないかと思い始めた。

怒りについて

セネカは『怒りについて(De Ira)』の中で、怒りを「一時的な狂気」と呼び、完全に排除すべきものだと主張した。制御すべき対象というような余地のある言い方ではなく、根絶すべきものとした。怒りは一旦心に入り込むと理性を乗っ取ってしまうため、適度に留めることは不可能だというのがセネカの立場である。「正義のための怒り」すら認めない。アリストテレスが「不正に対する適度な怒りは正義の原動力になる」としたのに対し、セネカは真っ向から反対した。

では理不尽をどうするのか。セネカは言う。医者が患部を切り取るように、冷静に処罰を下せと。医者は患者を憎んで手術をするわけではない。それと同じように、怒りや憎しみからではなく、理性から冷徹に対処すべきだと。

私は2018年に「怒ること、叱ること、たしなめることの違い、理不尽との死闘」という記事を書いた。

怒ること、叱ること、たしなめることの違い、理不尽との死闘 - ここはクソみたいなインターネッツですね

その中で怒りについてこう書いている。「怒っている人間の視野は非常に狭く、自身のことしか見えていない。盲目的であり、建設的な思考が出来ない状況にある」。ここまではセネカとほぼ同じことを言っている。怒りは独善的な感情で、理性を曇らせるものだという認識。

しかし、その先が違う。

殺しにいく

セネカは怒りを排除した後、「冷静な処罰」で理不尽に対処せよと説いた。対して私は当時の記事でこう書いた。「遭遇した理不尽は確実に殺しきらなければならない」。処罰ではない、殺すのである。セネカが選ばなかった強い言葉を選んでいるのにも、私なりの理由がある。

現代の理不尽というものは、容赦なく我々を殺す。実際に、労働において理不尽に晒された人間が死に瀕したことや、自分を追い込んで病んでしまうシーンを私は目の当たりにしてきた。もう一つ踏み込めば、病んだ当事者であったことさえある。であるから、私はやはりこう思う。我々は生存戦略として、コントロールできる・できないの境界線を引く前に、目の前の理不尽は必ず殺しきらなければならない。これは2018年の私の結論であり、2026年の今も全く変わっていない。

どちらかといえば、変わったのは手段の方である。2018年の私は怒りのエネルギーを燃料にして相打ち覚悟で理不尽に抵抗していた。反骨の憤怒を燃やし、目が合った理不尽から順に殺していく。しかし今現在の考えとしては、怒りのエネルギーというものはベクトルを制御しにくいものであると理解している。思わぬ方向に暴発し、自分自身や周囲を意図せず傷つけることがあることを知った。よって怒りのエネルギーを用いて理不尽を殺すことは、そこまで悪い方法ではないが、最善とはいえないという結論に至った。

2026年の今、私は怒りから距離を取り、哲学や論理によって構築された大きな正義の肩に乗り、自らも武装してから理不尽に立ち向かうようにしている。セネカの「医者のように冷静に」という方法論に似通っている部分はあるかもしれない。しかし医者が目指すのは治癒であり、私が目指すのは殺害だ。同じメスを持っていたとしても、用途が真逆である。

平穏という問題

セネカが目指した心の平穏(Tranquillitas animi)とは何か。それは感情が全くない無感動な状態のようなものではない。冷水を浴びて震えたり、親しい人の死に涙がこぼれたりするような、初期の感情的反応(primus motus)は人間として自然なものだとセネカは認めている。重要なのは、その揺れに対して理性がストップをかけ、感情の増幅に同意しないこと。海面が風で波立っていても、深海は常に静まり返っている状態。それがセネカの理想だった。

この「嵐の中の深海」という比喩は確かに美しく理想的であるというふうに見えるが、私にとっては疑念に溢れる理想でもある。

私には、感情を知性で覆い隠す癖がある。不安を構造化で無害化し、苦しみを言語で制御可能な対象に変換する。フロイトの言葉を借りれば知性化という防衛機制だ。セネカの「感情の揺れに同意しない」という思想とは似ているようで違う。セネカは感情を認めた上で同意しない。私は感情を構造化で覆い隠している。セネカの深海は静かだが、感情が存在している。私の深海は、感情に蓋をして無理やりに静めた状態にある。

そしてもう一つ、より根本的な問題がある。セネカは平穏を目指した。果たして、私は彼のいう平穏の中で無事生きられるのだろうか。

狂気と生

私にとって怒りは一時的な狂気であると同時に、生きるエネルギーの供給源でもあったのではないかと思う。理不尽と戦っている時、少なくとも書いている文書には力があった。敵がいて、怒りがあって、殺すべきものがある。その構造の中でこそ、私は生きる動機を持てていたのかもしれない。

今、目の前に殺すべき理不尽がない。転職して一ヶ月、新しい環境は悪くはない。明確な敵もいない。怒りもない。すると狂気がない。狂気でもないと、こんな地獄みたいな世界、普通は生きようだなんて思わない。

セネカは怒りという狂気を鎮めて平穏を目指した。しかし狂ってでもいないとそもそも生きる動機が薄い人間にとって、平穏は最も危険な状態といえるかもしれない。ドラマを見ても何も感じない。娯楽を楽しめない。すべてを生産性で測ろうとする。これらは平穏というよりは、エネルギーの枯渇による停滞と順応なのではないだろうか。

セネカの矛盾、私の矛盾

セネカは質素倹約を説きながら巨万の富を築いた。批判されると「愚か者は富の奴隷になるが、賢者は富の主人になる」と弁明した。「私から富が失われても一切動揺しない。だから所有しても構わない」と。後世の歴史家はこれを詭弁だと批判したが、セネカが最期にネロから死を命じられた時、取り乱すことなく堂々と命を絶ったことで、その言葉に一つの証明を与えた。

私にも矛盾がある。ストア哲学の方法論を借りて感情から距離を取りながら、その哲学が目指す平穏は自分にとっての解ではないかもしれないと感じている。感情を理性で制御する道具は使いこなせるようになった。しかしその道具で目指す先が、セネカとは違う。

セネカは平穏を目指した。私は理不尽を殺すためにその道具を使う。セネカのメスで、セネカが切らなかったものを切りにいっている。

セネカの方法論、私の結論

整理すると、セネカと私の関係はこうなる。

方法論はストア的だ。感情から距離を取る。構造を理性で把握する。怒りに振り回されない。ここまでは同じ。

しかし結論が違う。セネカは「怒りを排除して平穏を得よ」と言う。私は「怒りから距離を取り、論理で武装して理不尽を殺しにいけ」と叫びたい。セネカは理不尽に対して冷静な処罰を説いたが、私は処罰では足りない。殺しきらなければ、理不尽はこちらを殺すものであるから。

そして目指す先が違う。セネカは心の平穏を目指した。私にとって平穏は、生きるエネルギーが枯渇した停滞と区別がつかない。怒りという狂気が、皮肉にも私を少しは世界への順応に導いていた。

ストア哲学の方法論を借りつつ、結論は反骨。それが今の私の立ち位置だ。セネカに学ぶことは多いが、私はセネカにはなれない。なるつもりもない。修道に生きるつもりもない。私はセネカという巨人の道具を用いて、セネカが認めなかった矮小な戦いをするしかない。怒りを燃料にはしない。しかし理不尽を許容するつもりはない。冷静に、論理的に、我々はそれを殺しきらなければならない。