ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

新しい皮膚と、剥がれ落ちる冬空

転職して一週間ほどが経った。環境や人間関係に早く馴染むために、進んで自己開示をしたり、妙に明るく振る舞って他の部署の人と接点を持とうと心がけたりしている。妙に、というのが自分自身引っかかるところで、やはりこれは私自身から自然と出る振る舞いというよりは、生存戦略としてあえてそう振る舞うようにしている感覚がある。無理をしている、というほど消耗を伴うものでもないが、なんというかいつまでこうしていようかな、と思わされる。いつまでこうしていればいいか、それは未来の自分がもう十分と判断するまでということになるが、その判断軸をおそらく今の私も未来の私も持ってなどはいない。だからきっと、自分が疲れてそれができなくなるくらいまでこうしていて、そのうちに諦めるように立ち止まるんだろう。

人間関係を深く築いていくことはとても難しい。自己開示を進んでしたところで、相手に自分を知ってもらうことと、相手が自分の話を聞いてくれることは直接的には結びつかない。自分を深く知っている相手であるからこそ話を聞いてもらえないことはよくあることといえる。あなたはこういう人だから、と結論を急がれたり、先入観から偏った視線で話を歪められる。一方で、初めて会った人でも驚くほど話しやすい人がいる。その人は私のことは何一つ知らないはずだけれど、聞く姿勢が心地よい。よくいわれる傾聴という話とは少し違って、私も話しやすいし、相手も話しやすいようなことが実際にある。では、自分を知ってもらうことには意味がないのだろうか。私にはどうもそうとは思えない。知ってもらった上で聞いてくれるのが本当は一番いいことなんだろうと感じるし、どこかそう信じたい部分がある。もしかすると、その順番というものが思いの外大切なことなのかもしれない。聞くが先にあって、その結果として知るが積み上がっていく。これが本来の知るに至るプロセスであって、先に知るを始めると、目的は同じようなものであってもどこか歪みのようなものが生まれてしまうのかもしれない。例えばあの人はこういう人だよ、という前情報を聞いた上でその人と話すのと、何も知らない上でその人を知ろうとして話すのではやはり違いがあるだろう。認知やコミュニケーションが歪み、本来知って欲しいことや知りたいことまでもがその影響を受けてしまったり、順番が前後することで積み上げたいものが逆の形で積み上がってしまって、不安定で不完全なものになってしまったり。

積み上がることと、外から重ねていくことは違う。自己というものは内側からどんどんと生まれ出てくるもので、古くなった外側は風化していずれ剥がれ落ちていく。急速に自己開示をするということは、自分自身に何かをするというより、相手に自分の情報を詰め込んでいくことに性質は近い。自己の一番外側の部分を相手に見せつけて、無理やりに相手にインプットをさせるようなものだ。しかし対話の中で積み上がっていく理解というものは、自己の内側から押し上がってくるものやその一連の様子を観測させる行為であるから、より本質的でより長く維持される理解であると言える。やはりそれが本来の自然な姿であって、らしくない自己開示をしている自分自身をどこか不自然に感じてしまうのは、なんというか致し方ないことのように思える。とはいえその不自然な行為を必要なことと感じている私もまた確かで、こうしていること自体私の私らしい生存戦略とも言える。

承認欲求や自己肯定感についても、最近は自ら充足させようと努力している。人に褒められるようなことを進んでしたり、何かしらの価値を発揮しようとあからさまに誰かの手助けをしたり。これは善性というよりは戦略、自分なりに編み出した自分の居場所を作るための最短距離を行く行為で、我慢強く芯のある多くの人には必要のないことかもしれないが、早く居場所を確保せねばならないと脅迫的な観念を持っている私にはとても大切なことである。期待をされていないうちに、今のうちに、なんとか居場所を作らないといけない。私は自分にあまり価値を置いていないから、逆説的に常に価値を証明しなければならないと考えてしまう。これはあまりよくない傾向だ。生まれつき抱えている生きづらさの根っこの部分は、きっとこれなのかもしれない。しかし今更何かを変えることもなかなか難しい。そもそもとして私はなんでもできる人間ではないから、自分にできることとできないことを認めて、少しずつ存在を広げていくしかないのである。

働いていなかった私が働き始めたということはそもそも大きな変化だ。それに毎日知らない人と話をして、知らないことを知って、目まぐるしく状況が変わっていく。いろいろなことを考えては忘れ、また思い出しては忘れて。三十いくつの人間が新しい環境に感じたことはまあ凡庸なもので、それでもなんとかやっていかないとな、という白いため息と、それが溶けていくただ澄んだ空気の冬らしさだった。