ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

物語は作者の手を離れるか

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物語は、作者のみならず受け手にさえ創造的行為を求めている。そのような主張をしたのがロラン・バルトだ。

彼に影響された訳ではないが、僕も物語は作者の手を離れるものであり、またそうあるべきものだと思っている。例えば100年以上もの間たくさんの人々に語られている童話に、著作権の議論や作者の議論を持ち出すことはナンセンスであると僕は感じる。そういった議論が価値を持つのは、物語がどのような人々を経由してどのように進化を遂げたのか、という一点のみである。

童話に限らず、物語というものは少なからず独立性があるものだ。語り手によって、伝えようとする事柄も変化する。もちろんそれに伴い物語の筋も変化し、むしろ原型を留める必要性など欠片もないのだから、語られるたびに新しい物語が生まれているというべきだ。

漫画家の荒木飛呂彦が、最も古い職業は語り手なのではないかと言った。本当のところはわからない。娼婦が正解かもしれない。しかし彼のその言葉は夢のある言葉で、そして少しの現実味もある話であると思う。

物語というものは、作り手の想像を遥かに裏切る速さで伝染し進化する。いわばウイルスのようなものだ。語り手の数、あるいは受け手の数程それは膨れ上がり、いずれ自ら一人歩きを始める。 最低限の骨組みであったはずのそれも、いつからか必要以上の肉付きを抱き、最早骨組みの形状を無視した体型にまで進化する。

誰かが大事にしているプライドだとか、革命者のアナーキズムだとか、両親の優しさだとか。それらを全て内包する肉体は、誰が誰に宛てたものなのか、今ではもう誰にも分からない姿にまで成り果てている。 狡賢い高潔さと、理不尽な魅力。それだけをひたすらに表現する昔話・おとぎ話の類は、国境を越え、歴史を越え、人種を越えて語られる。そこには定義なんてものの居場所はなく、ちっぽけな規則など存在さえ許されない。 グローバリゼーションだとか、情報化だとか、そんな小手先の進化では汚せないほどの純粋さと、宗教だとか、努力だとか、愛情だとか、そんな小手先の退化では救えないほどの残酷さ。私はこれこそが物語の内臓であり、美しさとグロテスクさを感じさせる肝であると思う。 物語は人々の相互依存であり、鏡でもある。人々の創造力が作った一つの世界、というのはいささか夢想的すぎるか。しかしながら物語は人々の常識となり、宗教となり、文化となり、歴史となった。積み重なる歴史はいずれ世界を構築し、同時に観測者としての側面をも得始める。歴史に鑑みるという行為は、物語に鑑みるということである。物語が自動的に新たな物語を紡ぐようになったのならば、最早それは一つの世界であるといっていい。 物語の語り部として存在していたはずの誰も彼も、いつの間にか物語そのものに食い殺されていて、いつからかその内の一細胞として存在している。私は私の物語を語っているはずなのに、いつの間にか神の視点を持った「歴史」という世界の物語に取り込まれている。 こうした物語の多重性と神秘性こそ、物語が人を惹きつけて止まない重要な要素である。

姿を変え無限に進化する物語に、作者など必要ない。所有権を主張したいのであれば、物語を自らの中に閉じ込めておけばいい。しかしそれは物語を殺すことと同義である。

物語は生き物である。人という媒体に寄生させ、新たな栄養を取りこまなければ死んでしまう。作者に寄生し続ける物語があるとすれば、それは言語化されない単なる「妄想」でしかない。 似たような物語は各国にある。しかし物語というものの特質上、語り手や聞き手の違いが少しでもあるのであれば、全く同じ物語など一つも存在し得ない。そんなもの一つ一つに「作者」が現れて権利を主張するなど、最早喜劇の類いですらあると思う。 物語は作者など必要としていない。 ただ単に彼らは、媒体としての「語り手」を必要としているだけなのだ。