ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

”子供が欲しいから”という理由だけで子供を産むな

昨日の夜、そんな話をした。

子供が欲しいという理由で簡単に子供を産む親は総じてクソだと思う。

これから作る子供が健やかに不自由なく生きていけ、幸せな人生を送れるだろうという確信がないならば人は子を産んではいけない。というのが僕の個人的な意見だ。

貴方の子を産みたいとか、恋人と家庭を築きたいからとか、自分の生きてきた証を残したいからという理由で子供を産むのは単なる親のエゴのように思えてしまう。二人の愛の裏付けとして子供を作るなんて、子供の命を道具としているように僕には見える。人一人の命と人生だぜ、弄んでいいものじゃない。

少なくとも、毎日通勤中にゲロリンチョしてしまいそうな僕、言い換えて多少の誇張を入れると死ぬほど働きたくない僕は、自分の子供に今の僕と同じ思いをさせたくはない。こんな地獄みたいな生活に自分の子も巻き込むなんて狂気の沙汰だ。

親の教育方針には二種類がある。俺も苦労したんだからお前も頑張れ、というタイプと、俺も嫌だったからお前はやらなくてもいい、というタイプだ。

僕の親は完全無欠の前者だと言える。それに対する反発故か、僕は後者の考え方が好きだ。どちらが善でどちらが悪という話でもなく、それぞれに長短があると思うが、単純に好みは後者なのだ。

少なくとも僕の子には人生における選択肢を潰さない自由、道に迷った際には少し休んで考えられる程度の余裕、つまりはお金と愛による生の保証を与えたい。それが僕にとって、上述した確信にあたる。

例えば金もなく危険がいっぱいの無法地帯で生まれ育ったけれども、心から生まれてきてよかったと思っている人がいるとする。その人が子供を作るのはまだいい。1%も自身の生に疑問を抱いていないのなら、子供も幸せになると確信するのは自然なことだ。 しかし、自分の人生や日々の労働を疑問に思い、それを解消せず確信も得ぬまま何となく他人の真似や社会の指向性によって子供を作るのは許せない。ましてや子供を作ることで自分が頑張れるからとか、そんなことのために子供を作るのは僕からすれば信じられないことだ。

自分自身が生に疑問を感じているのなら、同じような人間をつくるな。自分のための子供なんてつくるな。子供の命で賭けなんてするな。

だから僕は、これから作る子供が健やかに不自由なく生きていけ、幸せな人生を送れるだろうという確信がないならば人は子を産んではいけないと思う。

ただ一方で、万が一何かしらの運命によって橋本環奈ちゃんが僕の子を孕んだとしたら、全力で産んで欲しい。これもまた僕の本心である。

君はサドルにはなれない。

遥か昔、黄色い帽子を頭に乗せテクテクと歩いていた頃。あのとき僕はどうやら小説家になりたかったようである。それからしばらくしてブレザーに似合わぬネクタイを締めるようになった頃、段々と小説家でなくともいいから何かすごいことをした人になりたいと、妄想をぼやかすようになっていった。今度はリクルートスーツを着て、少しだけ似合うようになったネクタイがその窮屈さを失っていったとき、僕は大企業に勤めたいと言うようになった。ベンチャー企業に入り、初めて後輩ができた頃の僕は自転車のサドルになりたかった。そして今、僕がなりたいものは橋本環奈だ。橋本環奈になりたい。

結局なりたかったものには一つもなれてない。橋本環奈にはこれからなるつもりであるから断言は出来ないが、こう振り返ってみると鼻水たらして遊んでた頃の小説家になりたいという夢が一番現実と理想のいいバランスを取ってるように思える。次点でサドルだろう。
若者、特に学生諸君。人生はそういうものなのだ。もし君がどんなにサドルになりたくても、きっと僕のようにその夢をあきらめることになる。サドルにはなれない。これは僕がこの負け続けの短い人生で得た真理のひとつと言える。
しかし勘違いしないで欲しいのは、僕の今のところは決して諦観ばかりの人生ではない。大企業に勤めることは出来なくとも、大企業にはなれるんじゃないかって思っている。橋本環奈の座るサドルにはなれなくとも、橋本環奈にはなれるんじゃないかと思っている。わかるかい?疲れてるんだよ、大人は。

グローバルな人材になりたいとか、リーダーシップを発揮していきたいとか、とてもいい。大変結構なことだ。どんどんやっていってほしい。だが一つだけ言っておこう。君はサドルにはなれない。
僕も昔はそんなようなことを口走ってしまったことがある。自分はやれば出来る子だと、他の人より才能も努力も地頭も並外れている人間なんだと思い込んでいた、思い込もうとしていた時期もあった。それでも、僕はサドルになれなかった。
今でも僕は僕の才能自体は疑ってはいない。まだ、やれば出来ると信じてさえいる。しかし事実として、僕はサドルになりきる努力を仕切れなかったのだ。

もし君がこの文を読んでさえも夢を抱き、そして夢を見続けるというのなら僕は止めない。けれど、長く続く旅路の供に、サドルになれなかった一人の人間を覚えていてほしい。

願わくば、君に幸あれ。君がサドルに一歩でも近づくことを、サドルになれなかった僕は祈っている。