ここはクソみたいなインターネッツですね

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教師は聖職者であるべきか生殖者であるべきか

教師たるもの、聖職者であれ。

教育を学ぶ者にとって、第一の壁はこの命題だ。本当に教師は聖職者でなければならないのか。教えによって人を導く者は、すなわち聖なるものであるべきなのか。

生徒はあらゆる経緯を経て、教師から「正しさ」を学ぶ。それが教師の正しさからくるものでも、誤りからくるものであったとしても、何かしらの正しさを自身の論理のもと学び取るのだ。生徒は教師から教えられるのではなく、自ら何かしらの正しさを学び取るために、注意深く教師を観察しているに過ぎない。

僕の経験から言えば、聖職者たりえた教師は居なかった。いつだって彼らは、彼らの教えと同様に不完全だった。高校生の頃、一年前まで教わっていた教師と駅で鉢合わせたことがある。稀にラーメンを奢ってくれることのあった彼が、どちらかといえば僕は好きだった。だからこそ懐かしさに胸を歓喜させ思わず声を掛けたのだが、しかし彼は僕のことを覚えてはいなかった。僕は教師と言えど人間である事をその時に知った。いや、思い出したと言った方がふさわしいか。

僕が教師から学んだ唯一つの確かなことは、「人間である以上、誤ることはある。」ということだ。誤りというものは生に密着したものであって、肉体、精神、態度、教え、思考、論理の全てに顕現し得る。

教師は、教室という閉鎖的な空間に絶対者として君臨する生き物だ。しかしそれが永続する訳ではない。ふとした瞬間に彼らの教室内での地位は地に落ち、教育の残酷さを身を以て知ることになり得る。彼らはその不安定な絶対性がもたらす自己矛盾の苦悩に常に晒される生き物でもあるのだ。真面目な教師であればある程、その特質は顕著といえる。

教師だって人間だ、という諦念を持ってしてその矛盾から目をそらすことも出来る。しかしそれは、多大な熱量を持って矛盾に立ち向かうことよりも、むしろずっと勇気のいる行為だと僕は思う。 僕が好きだった教育者は、ある時生徒の鋭い指摘にそうして視線を逸らした。その背徳は、少なくとも僕の眼には大変に尊い人間の自己防衛として映った。

客観的に見ればいくら教師だって人間なのは当然だ。堪え切れない欲望を持て余すことだってあるだろう。しかし、彼らにはいつも絶対者としての立場や責任が必要以上につきまとう。教師が痴漢をしようと一般的な会社員が暴漢になろうと、僕には別の事のようには感じられない。それが悪であり罪であるという話は別として、教師というものの社会的信用が失われるだとかそんな話に発展することが、不思議でしょうがないのだ。

教師たるもの、聖職者であれ。こんな言葉を言う人間は、人間に、あるいは人間が持つ聖なる部分に期待し過ぎなのだ。それは教師に対する教師らしさへの期待と同時に、生徒に対する生徒らしさへの期待も含んでいる。

教師から生徒へと話を移すと、生徒は、教師が痴漢を起こす前からずっと、彼らが決して聖職者たり得ないことなど気付いてしまっている。生徒は、教師が聖職者の仮面を必死に被ろうとしていることを、誰よりも知っているのだ。

教室というものは一つの儀式場だ。聖職者の仮面を被る教師に対し、その滑稽さを確かに知った上で生徒は生徒としての仮面を被る。教師と生徒の関係は、決して教育などというものではなく、仮面同士が擦れる静かな摩擦を味わう、ただ一つの儀式なのだ。

本当のところ、いい先生なんて居なかった。いい人間が、たまたま先生の仮面を被っていることなら何度か見たことがある。そんな程度の話だ。

教室などという儀礼の地獄に何時迄も居なければならないのだから、聡明な人にとっては教師は大変な職業だ。

生徒と教師だからといって、そこに愛が生まれただけで途端に騒がれる。人間と人間同士なんだ、何も問題などないじゃないか。やはり僕はそう思ってしまう。