子供と大人の違い。
このテーマについて考えようとしたとき、真っ先に思いつくのは'夢'を見るかどうかだ。
「大人って、大きい子供なのよ。」
幼い頃、そう母に教えられたことがある。今思えば、なんとも的を射たことを言う。
その母は、五十いくらかの歳を重ねた今でも物語を愛し、理想や夢を語り子や孫に聞かせる。
彼女は随分と、子供らしい大人だ。
僕の記憶にある限りでは、自身のことを大人と称したことは一度もない。幼い僕の世界に対する疑問や好奇を、大人になれば分かると誤魔化したこともない。
子供の夢を聞き、一緒になって自らの過去の夢や今の理想を言葉に描く。
あまりに嬉しそうに夢を語る彼女を見て、ああ、大人になっても夢や理想というものは絶えないのか。と、無限の欲求というものの果てしなさを子供ながらに強く感じたことを覚えている。
そうして育てられた僕が確固たる夢を持ち得なかったのは必然と言え、彼女の教育の愛すべき過ちの一つと言える。
四半世紀以上生きた今、自分自身の事を、まだまだ子供だと思う。
しかし一方で、やはり社会は僕を子供扱いしてくれなくなり、今では被る責任も昔思い描いた大人のそれと変わらない重さを得た。
世間では、二十代や三十代はあっという間に過ぎていくなどと言われるけれど、僕は時の速度というものを意識したことがない。 僕にとって、それは常に一定で然るべきもののように思えて、今のところ速度はその意思に恭順してくれている。
一定の速さで時が流れるとすれば、ある瞬間から人が大人になるということはあり得ない。自立した瞬間からだとか、社会人になった瞬間からだとか、そんなことは本質から遥か遠くのまやかしを見る人間が言う言葉だろう。時の流れの中では、一切合切なにもかもが、グラデーションのように少しずつその色を変化させていくものであるし、そうあるべきだと僕は思うのだ。
ある時、友人がこう言った。
「子供の時はなんでも出来るって思っていたろ?けれども大人になっていくにつれて、人は少しずつ出来ないことを増やしてしまうんだ。自転車で青森まで行くことだって、子供の頃はきっと出来るって信じていた。でもいつの間にか、そんなことできるわけないって嘘を吐くようになってしまっていたんだ。本当は今だって、出来ないはずなどないのにね。」
大人とは難しい。
子供だって簡単じゃあない。
当然だ。大人なんて、少しずつ大きくなっていった、ただの子供なのだから。
できるはずのことを段々とできないことにしてしまう。
自分自身の限界を見定めるつもりが、いつの間にか限界を自分で決めてしまっている。
確かに年をとるということはそういうことなのかもしれない。
しかし悪いことばかりでもない。
この理論でいくと、何処にでもいるコンビニのレジのおばさんも、実は少しずつ大きくなった女子高生と呼べるわけだ。
意識次第で、僕の中及び君の中の女子高生は無限に増殖する。
女子高生しかいないなんて、世界がまた一つ魅力的に見えて来るだろう?
ぼくは世間一般でいう大人になってから、そんなことを考えて正気を保つようにしている。
社会の中で吹きすさぶ風や荒れ狂う波に揉まれながら、どこか遠くにいる女子高生のことをただ思いながらぼくは、生きているんだ。