ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

バグを起こしたエンジニアのリアルな感情の流れ

いやーバグ出した。 0:00から今まで対応調査してた。結構大きなバグで、売り上げ数%欠損出しちゃうくらいのバグ。

気分は当然最悪なんだけど、こういう時のエンジニアの感情とか心境とかってあんまり見る機会ないから自戒の意味も含めて書いておく。

バグってどういうもの?っていう人もいると思うので今回辿った流れにそっていく。

バグを出した時の大体のながれ

  1. バグ発覚
  2. 関係各位に連絡
  3. バグ原因/内容調査
  4. バグ対応検討
  5. バグ一時対応
  6. 顛末書/報告書内容まとめ
  7. 関係各位に正式に顛末報告
  8. リカバリープラン及び予防策検討実施

1. バグ発覚

プログラムリリースは先月。 特定の時間に動くプログラム(バッチ処理とか定期実行プログラムとか言ったりするやつ)であったため、バグが起こりそうな月またぎの実行タイミングにあらかじめ確認体制を敷いていた。 大変申し訳ないが、エンジニアの僕だけでなく実際にそのプログラムを使う方々にも深夜まで起きて確認するよう頼んでいた。 しっかり動くようテストはしたのだが、人間が作る以上バグのないプログラムなどないという言葉はやはり真理であった。案の定バグ発覚。

第一に来るのは震えと混乱。バグが起きた場合どう動くか、ということまで予め見通しを立てていたにもかかわらず、とりあえず不安で震えが止まらない。どうしよう、と一人声に出してコンソールのログイン画面を見ていた。すぐにデータの整合性とログを確認しなければいけないのに、脳が20〜30秒ほどフリーズ。 やっぱりか、という気持ちと、どうして、という気持ちと、どうしようヤバい、どうするんだっけ、とりあえず連絡しなきゃ、という気持ちがせめぎ合い訳のわからないまま逆さまのタバコに火をつけログを追い始める。

2. 関係各位に連絡

とりあえず連絡。有難く申し訳ないことに、確認体制を敷いていたおかげですぐ連絡がつく。 取り急ぎですみませんがここでこういったバグらしきものが確認できております、というような文を送る。 どんな文を書いていても「申し訳ない」という言葉を挟みそうになるのを堪える。この段階では謝罪は必要ない。それより先にやることがあるのだ。

心はこの時すでに殺しておくのが吉。自分が起こしたバグということを忘れたほうがいい。実際はむしろ殺してくれという気持ちになるが、対応と調査を待っている人がいるのでそうも言ってられない。あまりの申し訳なさからドクドク鳴ってる鼓動が「直したら死のう」という声に聞こえてくる。そうだな、とつぶやき始めるが、応える声などなく、ただひたすらに鼓動に耐えることが要求される。流していたEDMが止まる。無音が激流のように感じられ、耳元で電マが鳴っている気さえしてくる。

3. バグ原因/内容調査

バグの原因は大体くだらない。プログラム的な内容は置いておいて、バグが起きる原因なんて三つしかない。 テスト漏れ、仕様漏れ、設計ミスのどれかだ。

なんでこんなミスを、なんでこの仕様を見落としてるんだ、テストではうまくいったのになんで、と不安が不甲斐なさからの怒りに変化していく段階。この一行だけ変えておけば、とか、バグというものは大抵そんな少しのミスや抜け漏れから起こる。

原因をメモしながら影響範囲に目星をつけ始める。このあたりから損失金額が計算できてくるが、ここでも無心を貫き原因調査と内容詳細を把握する。感情の面ではこのあたりがピーク。ここで「起きてしまったものはしょうがない」という考えに至るかどうかで精神及び肉体の生き死にが変わる。おかあさん、おかあさん、おかあさん、と紫煙を吐きながら独自のメロディを口ずさむ。

4. バグ対応検討

自分の犯したミスを直視しながら、一時対応を考える。心境としては考えるもクソもない、一刻も早く正常な状態に戻さないと損失額はどんどんと増えていくのだから。 データをあるべき状態に変えるコードなりクエリなりを組み立てる。相変わらず焦る気持ちが指先を揺らし目の前を真っ白に染め上げようとするが、ここでミスを重ねることは許されない。少しでも早く完了しなければいけないが、同時に確実な仕事をしなければいけない。奥歯を噛み締めながら1文字ずつキーボードを叩く。耳鳴りで打鍵音など聞こえやしないが。

5. バグ一時対応

上司なり責任者なりの承認を受けた上で、検討した対応方法を実行する。想定通りの結果が出るかどうか、ここでもテストを行わなければならない。処刑台に上がるのではない。すでに輪は首に掛けられている。あとは床が開くかどうかを己が目で確かめるだけとなる。今回は床は開かなかった。一緒に対応体制を敷いていてくれた方々がすんでの所でそれを支えてくれていた形となる。ここでも謝罪ではなくお礼を言うこととなる。謝罪はまだだ。己の罪も知らずに行っていい行為ではない。己が犯した悪業と、そして傷つけたもの、失ったもの、失わせたものを十分に知ってから行うべき行為だ。

6. 顛末書/報告書内容まとめ

首に輪を付けたまま、自身の罪を読み上げる。発覚経緯、日時、現状、影響値、原因、対応、本対応スケジュール、再発防止策。なにをしていてもまるで世界が全て自分を責めていて、決して許されない罪を犯してしまったのではないかという恐怖と迫力を持った錯覚に見舞われる。ブンブンハローユーチューブ、という呪文を唱えながら俺は作業を完了させた。

7. 関係各位に正式に顛末報告

作業完了の旨を顛末書と一緒に報告。 ごめんなさい。ぼくはわるいことをしてしまいました。わるいこととはこういうことです。かくにんさせてごめんなさい。 ここで漸く謝罪の言葉を混ぜられる。大抵のリアクションは冷たい。そりゃそうだ。余計なバグを起こしやがってコイツ死ねばいいのにってみんな思って当たり前だ。本当俺もそう思うよ、死ねればいいのにってね。

8. リカバリープラン及び予防策検討実施

ミスを補えるように、同じミスを犯さないように、何ができるかを考え承認を貰い、その後は使えないゴミムシとして反省し続け声も小さく息もなるべくせず権利を主張せず義務のみを遂行するクソお荷物ダメ社員として生きていくことを決める。ミスは誰にでもある、次に活かせばいいと上司が言ってくれたのなら、死への助走は十分だ。使えねえな、と言われたのなら反逆か服従を選択する他ない。 しばらく、飯はくわないでいいと心に決める。後輩には会いたくなく、上には顔を見せられない。そんな人間、そんな生き物になるしかない。皆が忘れるか、自分が忘れるまでこの状況は続く。それが正しくないことだと分かっていながらも、それ以外どうしていいかわからずただただ思いを溜め込んで心を朽ち果てさせていくしかない。

以上、バグを起こしたエンジニア(俺)のリアルな心境でした。

考えるべきことを溜めるとどうなるか

A:イライラしてくる

これまで会社員をやってきて、やることが多いのは別にそれほどキツくないと気付いた。 何よりキツいのは、考えるべきことが多い時だ。

やることっていうのはかかる時間が想定出来てるもので、これをするには15分かかって、あれをするには45分、合計一時間は確保せなアカンな、というスケジューリングが出来る。想定よりも時間がかかったのなら自分の想定が甘い。想定よりも早く終わったのなら、甘さは置いといて次の仕事を早く終わらせられるから精神的な問題はない。

考えるべきこと。これはアカン。

まず何時間考えれば自分(or提示先)が納得するかなんて予想できない。30分ありゃ足りるだろ、と思うことは大抵間に合わない。何月中に考える、というスケジュールは怠惰しかもたらさない。今日中に、と立てれば他の作業が舞い込んできて先延ばしになり、結果的に帰宅途中の電車やシャワーを浴びてる時間を仕事に捧げることになり、そしてまとまらない考えと焦燥ばかりが募っていくこととなる。

そうなるともう精神は終わりだ。

第一に、部下なのか先輩なのかよくわからない同僚に不意にブチ切れそうになったりする。よくある典型的な「あの人最近イライラしてるよね状態」だ。タバコや酒の量が増え、睡眠時間は反比例するように減っていく。他人に愚痴を言えるのはここまでだ。即ち愚痴を言う人はまだ第一段階のストレスしか抱えていないと言っていい。

第二に、自分より明らかに忙しそうな上司にもっと仕事下さいと言ってみるなど意味不明な行動と不安定な情緒が目立つようになる。この辺りの行動は人によって特徴が出る。俺の場合は大抵部屋の掃除を始めたり、不必要な残業をすることが多くなる。 恐らく、普段の自分と正反対の行動をとることで何か心のバランスを調整しようとしているのだと思う。自分の行動が制御しきれなくなる感覚や、視点をうまく定められなくなる感覚がある。 そして何より、この辺りからイライラの対象が他人ではなく自分や社会や人生など、自分の意識の中で不定形なものに変化していったりする。自分を責めがちな人はこの段階まで至るスピードが人より速い。いつの間にか出社拒否をし始める人がよくいるが、大抵の場合彼らは誰かでなく自分自身を責めている。

第三に、なにも考えていないのに涙や嗚咽が止まらなくなる。この段階でありがちなのが、乗り越えたんだな、とかもう少しいける、とかそういった勘違いを起こすことだ。フッと訪れた台風の目のようなもので、何も考えられなくなった頭と何も見えなくなった心では現状がそれほど悪くないんじゃないか、というふうに思えてくることがある。このタイミングしかないんじゃないか、ここで頑張ればどうにかなるんじゃないか、と盛大な錯覚を覚える。

これが人が仕事で心をダメにするフローだ。 昇進できるかもとか、上司への恩とか、そういった要素が各段階へ進ませる要素になったりする。

そして、もう俺はダメだ

働きたいやつは病院行った方がいい

「働くのは楽しいです。」とか嘘ばっかついてんじゃねえぞクソ若僧。こんだけ働きたくない大人がひしめいてんのに働くのが好きだぁ?舐めんじゃねえぞこのサイコ野郎。嘘ばっかついてんじゃねえよ本気で言ってんだったら病院行ってこいアホが。もしくは俺の代わりに頼むから働いて俺を養ってくれお願いいたしますほんとに。

働きたくとも働けない人もいる、なんて論にはなんの意味もねえよ。そいつらだって働かないでも金やるよって言われたら働かないだろうが。そいつらは働きたいわけじゃなくて働かないといけないのに働く場所がないって話で、働きたいかどうかは別の話だ。

こちとら社会に出てから、いや、社会に出る準備期間である大学だの高校だのにアホヅラして通ってるころから今までずっと、働きたくなすぎて発狂しそうな毎日だったわ。何日経っても何年経ってもゲロ吐きそうなくらい働きたくねえよ。なんなら死んだ方がマシなんじゃねえかと何度思ったことか。何度電車に揺られながら涙を流したことか。誰にだってあるだろうがそんなこと。そういう嫌なところっつうかまあそれが大体の部分なわけだけどそれをなかった事にして仕事は楽しいとか捏造してんじゃねえよ嘘つき共め。働いたってキラキラなんざ輝けねえから期待してるアホはクソして寝てろ。

世間のニート批判とかあるけど、働いてるやつなんかよりよっぽど自然だと思うわ。少なくとも働きたいとか嘘ついてるようなやつよりはずっと当たり前のことに思える。

俺が働いて稼いだ金から税金が取られていて、それによって生活保護を受けてる人がいたとしても羨ましいくらいの気持ちしか抱かない。俺の金で何を、とか、働けよクズ、とかそういう文脈から批判的な立場を取ろうとはほんの少しも思わない。性格とか環境とか切っ掛けとか、どれか一つでも違っていたら俺もそうなっていたと思う。今後そうならない自信もない。だからって別にニートを誇れとは言わないし、言わずとも誇ってる奴なんかそれほどいないだろう。

クソみてえに働いてクソみてえな人間関係にイラついてクソみてえな給与貰ってクソみてえなお決まりの人生送ってっていうのが普通の理想の人生なんだとしたら、マジでこの世とか地獄かよって思うぜ。家族がいれば変わるだぁ?じゃあ俺に俺の事を愛し続ける俺専用橋本環奈を用意してみろこのバカ野郎が。人の人生知った風な口で楽観的に捉えて俯瞰してますみたいな面してんじゃねえよそのアホヅラぶん殴るぞクソ。

あーはたらきたくない。なんか臓器移植とかしないと死ぬって決まってるけどすげー生きたがってる子供とかいねえのかな。こんなオッサンの臓器で良ければ喜んで差し出すのに。あるいは俺の目の前で俺が身代わりになれる距離とタイミングで事故に遭う人とかいないのかな。多分、少し考える時間くれれば代われるぜ。

じゃあ働かなきゃいいじゃん、って思うんだったらテメエの親父にそのまま言ってみろ。ほとんどの場合は働きたくなくとも働かねえといけねえんだよ。人間生まれた時からなんでか生きる事を義務付けられてんだよ。だからこそゾンビみてえなツラした大人が毎朝電車にたくさん乗ってんだ。生きることが義務付けられたゾンビとかなにそれかみさま頭おかしいんじゃないのって感じだわ。かくいう俺も、毎日毎日東京オブザデッドみてえな馬鹿げた地下鉄に乗らないといけねえ。ヒーロー側じゃなくてゾンビ側として乗るんだぜ。これでも俺は昔ゴレンジャーの赤になりたいとか言ってたんだぜ。ほんと世界が恨めしくてしょうがねえよ。何しに生まれたんだ俺は。何のために生きてんだ。

痛くなくて誰かの役に立つような死に方があったらさ、今の世の中きっと志願者多いと思うぜ。

君が無駄に過ごした"今日"は、昨日死んだ誰かが死ぬほど生きたかった"明日"なんだ。

とか言うじゃん。はぁ?知ったこっちゃねえよな。それを言うならてめえが生きてる今日は誰かが死ぬほど働きたくなかった今日だよ。今生きてる人間にとって、生きたいって思いより死にたいって思いの方が遥かに強い思いだと思うぜ、なんせ今の状態を変えたいって事なんだから。いい言葉で生き死にに関する思いをまとめようとすんな。ちゃんちゃらおかしいんだよ。

あーくそ、働きたくねえ。多分みんなそうなんだろ、それでも我慢して働いてんのなんて知ってるが、知ってるからこそ労働スキーの基地外どもとは相容れねえ。労働が楽しいとか働きたいとか嘘ついてるやつ、俺から見たらあんたも俺と同じくらい頭おかしいぜ。

”子供が欲しいから”という理由だけで子供を産むな

昨日の夜、そんな話をした。

子供が欲しいという理由で簡単に子供を産む親は総じてクソだと思う。

これから作る子供が健やかに不自由なく生きていけ、幸せな人生を送れるだろうという確信がないならば人は子を産んではいけない。というのが僕の個人的な意見だ。

貴方の子を産みたいとか、恋人と家庭を築きたいからとか、自分の生きてきた証を残したいからという理由で子供を産むのは単なる親のエゴのように思えてしまう。二人の愛の裏付けとして子供を作るなんて、子供の命を道具としているように僕には見える。人一人の命と人生だぜ、弄んでいいものじゃない。

少なくとも、毎日通勤中にゲロリンチョしてしまいそうな僕、言い換えて多少の誇張を入れると死ぬほど働きたくない僕は、自分の子供に今の僕と同じ思いをさせたくはない。こんな地獄みたいな生活に自分の子も巻き込むなんて狂気の沙汰だ。

親の教育方針には二種類がある。俺も苦労したんだからお前も頑張れ、というタイプと、俺も嫌だったからお前はやらなくてもいい、というタイプだ。

僕の親は完全無欠の前者だと言える。それに対する反発故か、僕は後者の考え方が好きだ。どちらが善でどちらが悪という話でもなく、それぞれに長短があると思うが、単純に好みは後者なのだ。

少なくとも僕の子には人生における選択肢を潰さない自由、道に迷った際には少し休んで考えられる程度の余裕、つまりはお金と愛による生の保証を与えたい。それが僕にとって、上述した確信にあたる。

例えば金もなく危険がいっぱいの無法地帯で生まれ育ったけれども、心から生まれてきてよかったと思っている人がいるとする。その人が子供を作るのはまだいい。1%も自身の生に疑問を抱いていないのなら、子供も幸せになると確信するのは自然なことだ。 しかし、自分の人生や日々の労働を疑問に思い、それを解消せず確信も得ぬまま何となく他人の真似や社会の指向性によって子供を作るのは許せない。ましてや子供を作ることで自分が頑張れるからとか、そんなことのために子供を作るのは僕からすれば信じられないことだ。

自分自身が生に疑問を感じているのなら、同じような人間をつくるな。自分のための子供なんてつくるな。子供の命で賭けなんてするな。

だから僕は、これから作る子供が健やかに不自由なく生きていけ、幸せな人生を送れるだろうという確信がないならば人は子を産んではいけないと思う。

ただ一方で、万が一何かしらの運命によって橋本環奈ちゃんが僕の子を孕んだとしたら、全力で産んで欲しい。これもまた僕の本心である。

君はサドルにはなれない。

遥か昔、黄色い帽子を頭に乗せテクテクと歩いていた頃。あのとき僕はどうやら小説家になりたかったようである。それからしばらくしてブレザーに似合わぬネクタイを締めるようになった頃、段々と小説家でなくともいいから何かすごいことをした人になりたいと、妄想をぼやかすようになっていった。今度はリクルートスーツを着て、少しだけ似合うようになったネクタイがその窮屈さを失っていったとき、僕は大企業に勤めたいと言うようになった。ベンチャー企業に入り、初めて後輩ができた頃の僕は自転車のサドルになりたかった。そして今、僕がなりたいものは橋本環奈だ。橋本環奈になりたい。

結局なりたかったものには一つもなれてない。橋本環奈にはこれからなるつもりであるから断言は出来ないが、こう振り返ってみると鼻水たらして遊んでた頃の小説家になりたいという夢が一番現実と理想のいいバランスを取ってるように思える。次点でサドルだろう。
若者、特に学生諸君。人生はそういうものなのだ。もし君がどんなにサドルになりたくても、きっと僕のようにその夢をあきらめることになる。サドルにはなれない。これは僕がこの負け続けの短い人生で得た真理のひとつと言える。
しかし勘違いしないで欲しいのは、僕の今のところは決して諦観ばかりの人生ではない。大企業に勤めることは出来なくとも、大企業にはなれるんじゃないかって思っている。橋本環奈の座るサドルにはなれなくとも、橋本環奈にはなれるんじゃないかと思っている。わかるかい?疲れてるんだよ、大人は。

グローバルな人材になりたいとか、リーダーシップを発揮していきたいとか、とてもいい。大変結構なことだ。どんどんやっていってほしい。だが一つだけ言っておこう。君はサドルにはなれない。
僕も昔はそんなようなことを口走ってしまったことがある。自分はやれば出来る子だと、他の人より才能も努力も地頭も並外れている人間なんだと思い込んでいた、思い込もうとしていた時期もあった。それでも、僕はサドルになれなかった。
今でも僕は僕の才能自体は疑ってはいない。まだ、やれば出来ると信じてさえいる。しかし事実として、僕はサドルになりきる努力を仕切れなかったのだ。

もし君がこの文を読んでさえも夢を抱き、そして夢を見続けるというのなら僕は止めない。けれど、長く続く旅路の供に、サドルになれなかった一人の人間を覚えていてほしい。

願わくば、君に幸あれ。君がサドルに一歩でも近づくことを、サドルになれなかった僕は祈っている。