ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

何もしないクソニート、ということについて

「太陽フレア」 きょうGPSなど障害か | ホウドウキョク

太陽フレアGPSや通信機器に影響を及ぼす可能性があるらしい。これはつまりグーグルマップを頼りに都会に出てきた女子大生が一時的に路頭に迷う可能性があるということで、僕はその女子大生らを保護して匿う備えを急速に進めている。それと同時に今日の労働者時代の先輩と会う予定もキャンセルしてしまいたいワケだがなかなかそうもいかないのが困る。

ニートをやっていると、こんな風に昔の先輩や同僚、大学の友人から何か仕事の誘いを受けることがある。とてもありがたいことではあるが、僕は今ニートをやりたくてニートをしてあるため色好い返事は出来ていない。僕がニート期間である今、常に自分に問うていることは「お前が本当にやりたいことはなんだ」ということである。意識の高い人は大学時代に自分探しの旅をするという。僕はこの充電期間をもって自分が本当にやりたいことと絶対にやりたくないことを探し当てるつもりである。そのために今なにをしているかといえば、なにもしていない。勘違いしないで欲しいのは、すべきことがあるのに何もしていないのではない。「何もしない」ということが今僕のすべきことなのであり、僕はそう信じてそれに従っているのである。何かをしながら何をやりたいか考えると、どうしてもその今現在していることに考えが寄ってしまう。エンジニアだった僕はやはり次働くとすればまたエンジニアとしてなんだろうとどこかで考えてしまっているし、今仮にエンジニアとして誘ってくれている方々の仕事を手伝ってしまえばその道以外はより見え辛くなるだろうとも考えている。 何もしないということはなかなか難しい。しかし、なんとなくその場で思いついたような軽い気持ちや、必ず労働という形で社会に携わるべきだという自分自身のあやふやな認識、これらを取り除かずして再度仕事を始めてしまっては、僕は鬱で退職という同じ過ちを繰り返すことになる気がする。

仕事をしていたころ、PDCAサイクルというものについて会社の経営陣が口を酸っぱくして話していた。僕が今やっていることも結局のところ似たようなことをしているのだと思う。ミスをしてしまったから、次はどのようにすれば同じことを起こさないか考え実行する。PDCAサイクルなんて大仰なことを言っているけれど、人生においてそんなもの誰もがやってきていることだと思う。遊びでも恋愛でも学業でも友達付き合いでも、うまくいかないことがあれば相手を変えるなり自分を変えるなりやり方を変えるなり僕らは常に対策を講じ、また大仰な言葉を使えば僕らはいつも'カイゼン'してきたはずだ。ビジネスマンは当たり前のことをそれらしく言うのを好む。そう言った知識(僕からすれば知識ではなく嗜好な気もする)を名刺がわりにして、自分がビジネスマンであるとアピールしているのだろう。大切なのは言葉でも言い方でもなく、論理の理解と組み立て方であると僕は思う。話が逸れた。

他の人から見れば僕の今の状況は甘ったれなクソニートそのものではあるが、僕としてもまあ心の底ではそう自分のことを見ている。しかしクソニートをこれ以上拗らせるわけにいかないのは他の誰でもなく僕自身が最も痛切に考えていることであり、僕は自分自身をよく考えた末に「何もしない」という行動を選択したのである。何もしていない期間に、これがやりたい、と思いを重ねられたものこそ本当の気持ちであると今のところは考えている。悲しいことに、今はまだ「何もしない今を続けたい」と考えてしまってはいるが、それも一つの本当の気持ちかもしれない。いずれ社会がもっと僕に揺さぶりをかけてきて、ニートのままじゃ生きていけないと明確に突き付けられたとき、ならば僕はこれをしたいと確固たる意志を持って応えられるよう、自身に期待をしている。もしそれで、何もしたくないから限界まで何もしない、という答えが出たとしたら、僕はどこかで野垂れ死ぬだけだろう。その時は恐らく僕の考えは歪んでいて、産み落とされる時代か環境を間違えたのだと自己弁護をしてさっさと死ねばいい。

せめて人に迷惑はかけない形に納得が出来ればいいな。

みなし残業の悪意

ホワイトカラーエグゼンプションとは

一般的に、みなし残業制度とは、ホワイトカラーエグゼンプションという考え方/制度に基づく労働に関する制度の一つである。 しばしば悪く言われることの多いみなし残業ではあるが、その地盤となるホワイトカラーエグゼンプションの本来の考え方は、現状の実態とは少し違う立ち位置を取るものだ。

ホワイトカラーの給与及び評価は労働時間ではなく、実際にあげた成果に由来すべきものである。

これが基本的なホワイトカラーエグゼンプションの思想である。旧来の残業代における制度では、生産性が高く仕事を早く終わらせる人間と仕事が遅く無駄に残業をする人間との間に、仕事の量が同等であれ、残業代という制度によって給与に格差が生まれてしまう。これは構造的な理不尽だ。そう、これは制度に含まれる理不尽を無くすべく考えられた、正義の制度であるはずだった。 単純労働が主であった時代ならば、時間単位での生産効率に属人性が少ない故、このような理不尽は起き辛かったと考えられる。しかし、時代は変わり、現代。ホワイトカラーと呼ばれる職種が持つ仕事の量は明らかに増加した。ホワイトカラーの仕事はそれまでの労働というものに対する認識に疑問を投げかけた。ある人は10時間かける仕事をある人は1時間で済ませることがある、なんとなく仕事の性質が変化しているのかもしれない、というところが段々と判明してきたのである。 それに加え、あらゆる市場で競争の激化が起こっているのは言うまでもない。会社は所謂使えない社員というものを雇っている余裕を失くした。あるいは、情報化によって企業が各社員の生産性を明確に測れるようになったことも大きい。ともあれ、社会は生産性というモノの存在をようやく認識しはじめ、既存の制度では人や仕事を評価することは出来ないのではないか、と現代に合った制度を模索するようになる。 そこで生まれたのがホワイトカラーエグゼンプションという制度である。この成り立ちから、ホワイトカラーエグゼンプションそれ自体に批判を受けるような欠点はなく、時代に合った制度を設けようというただそれだけの話であったことがわかる。

みなし残業の悪意

では、なぜそのホワイトカラーエグゼンプションの一環であるみなし残業制度が批判を受けることになるのか。それは、このホワイトカラーエグゼンプションを悪用し、成り立ちを無視して見かけ上だけこの新制度を取り入れる企業が出てきたことに由来する。

会社の給与というものは、基本的に基本給と各種手当の二つで構成されている。 例えば基本給が20万であるとして、役職手当や家賃補助、交通費補助などを付与して給与総額が額面上30万になるとしよう。労働時間は09-18時昼休憩抜きで8時間とする。

ここでもう一度ホワイトカラーエグゼンプションの思想を確認すると、給与と評価は労働時間に対するものではなく成果に対するものであるべきだ、というものである。

この思想に基づき、日本においていくつかの先進的な企業は、以下の三つの制度を試験的に導入しはじめた。

  1. フレックスタイム制
  2. 裁量労働制
  3. みなし残業制

※ 当然今回は3のみなし残業制に関する話を取り上げるが、問題の本質的な構造は3制度共に変わらないことのように思う。

本来のホワイトカラーエグゼンプションの思想とみなし残業制度を照らし合わせると、みなし残業の文脈は以下のようなものになるのが自然と言える。

  • 一人当たりの平均残業代を全員に付与すれば
  • 生産性の高い社員は早い帰宅時間と残業代を
  • 生産性の低い社員はこれまで通りの残業代を
  • 理不尽なく正当な報酬を得られる

しかし、実態はこの通りではない。

基本給の一部をみなし残業代として付与することで、残業代を節約している企業がある。とても卑怯なやり方だ。そもそものみなし残業制度の成り立ちを考えると、ホワイトカラーエグゼンプションの思想に真っ向から対立するやり方であると言える。

大学生諸君や社会人の皆様、世間がみなし残業についてあれこれ言っているのはこういうことなのである。日本の一部の企業では、上記のような悪意のあるみなし残業制度が取り入れられている。みなし残業そのものはそもそも悪いものではない。悪用している企業がいる、ということなのである。

「レンタル彼女」なんてサービスがあるなら「レンタル部下」とかあってもよくない?

レンタル彼女

レンタル彼女、どこまでOKなのか?会話途中で「代金いいですか?」個室NGで1回3万円

レンタル彼女というものが流行っているらしい、という話を聞いてからもうしばらく経つ。今やそのサービスは割と一般的と言えるほどに知名度を持った。僕は利用したことはないが、性行為を目的とするものではなく、いわゆる普通のデートをキャストとなる女の子と楽しむ目的のものらしい。1h5000円〜というくらいの相場で、会話をしてくれたり手を繋いでくれたり、要するに「彼女」のふりをしてくれる女の子との時間を買えるものだ。

僕はこのサービスについて、大変素晴らしいものであるし、社会を読み解くにあたっても非常に興味深いものであると思う。

どういう人がどういう気持ちで利用するものなのだろう。色々なパターンが考えられる。 普通の男性で、新しいキャバクラのような形で一時的なストレス解消に利用する場合。いわゆるアイドルオタクのような人たちが、会いにいけるアイドルというような感じで一人の子をガッツリ応援していく場合。特定の相手がいる男性で、浮気や不倫はしたくないけれど他の女性と話すことでちょっとした刺激が欲しい場合。一人じゃ行きづらいお店や映画に連れていく相手として利用する場合。 僕はどのパターンの欲望にもそれなりに共感できる。やはりこういうサービスは人々の抑圧された部分の欲望が色濃く出ていてとても興味深い。僕だったらちょっと年下の扱いやすそうな女の子を指名して、高い店や高尚な場所を連れ回してさも自分はこういうところによく来るんだぞという風に紳士ぶりたい。要するに、偉そうにしたい。

じゃあこれって「彼女」に限らずとも色々派生出来るんじゃないの?

  • レンタル先輩
  • レンタル後輩
  • レンタル上司
  • レンタル部下
  • レンタル先生
  • レンタル生徒

なんかイメクラのシチュエーションを選ぶときのようで考えるだけでも楽しいが、僕の場合近況から来る今の表面化した欲望は「偉そうにしたい」ということなので、つまりレンタル後輩やレンタル部下やレンタル生徒なんてサービスがあったらビンビン丸なのである。どれでもいいけど僕のオススメはレンタル部下だ。あぁ偉そうに説教しつつカフェでコーヒー奢ったりありもしない自分の武勇伝を語ったりして自分の地位を錯覚したい。セックスに迫る快感があるんじゃないかと思うわ。翌日から何か歪とは言え自信が持てそうだし、自分の意識がとても高まりそうなきがする。「うーん、お前もビジョナリーカンパニーとドラッカーくらい読みなよ?」とかドトールで言ってる胡散くせえ営業マンの真似してえ。マジでたまんねえパキパキになるわ。後半はどうでもいいところを褒めたりして「俺はちゃんとお前のこと見てるよ」アピールしてぇなぁ。今ニートだし仕事したくないけど先輩面だけはたまにしてぇ。

というわけでレンタル〇〇シリーズって拡張性あって面白くない?

「日本国籍が条件」で門前払い について考えること

【衝撃事件の核心】「やってることはさべつやで」会社に資料請求すると「日本国籍が条件」で門前払い…トルコ人男性“正義”の法廷闘争 - 産経WEST

この記事、奇しくもニートである僕が普段行なっている行為と同じ名前をした方「イエネルさん」が出てきたせいか何か惹かれるものがある。よくよく見ると、なぜイエネルさんは関西弁なのか、なぜイエネルさんは在日韓国人を例に挙げて質問を送りつけたのか、なぜイエネルさんは住所欄に大阪市までしか記載しなかったのかなど思わずツッコミを入れてしまうピースが散りばめられた記事だ。 果たしてイエネルさんはとりあえずの勝訴に至ったわけだが、しかし僕としては

「判決内容は契約の自由および企業活動におけるコンプライアンス上の合理的判断を否定するものであり、控訴を含め検討している」

という会社側の反応にこそ驚きを禁じ得ない。そもそもこの問題は担当者が記載不十分かつ外国人らしいイエネルさんの申込みを適当にあしらうつもりで不適切な一言を返答に入れてしまっただけの話という想像は容易い。それをまあポーズだけかも知れないとはいえ判決に不満タラタラですよ、という態度を取るのは企業として悪手だろう。不適切な発言があったことを認めて謝罪し、今後同じことがないように努めると言うような大人な対応がなぜ出来なかったのだろうか。

日本は差別が多い国かどうか。

調べてもなかなか明らかになるものではないけれど、しかし僕も一人の日本人として日本人は恐怖心と好奇心が強いという印象がある。外国人と明確に比べたわけではないけれど、僕が車椅子に乗っていた時期、確かに電車内や街にいた時明らかな視線をイヤってほど感じた。何かずっとこっちを見ていた青年に、障がいをお持ちですか?と声をかけられたこともある。一言目の印象とは裏腹に、彼は彼なりに僕を助けようとしてくれていたらしい。そのことから僕がなんとなく思うのは、日本人は様々なマイノリティに対してどう対応していいのかよく分からず、しかし何かしらの対応方針を決めたいと考えている生き物なのだろうな、ということだ。実際僕は大学の頃研究の一環で障がい者の劇団を訪れたことがある。研究していたとは言え、確かにその場になってみればどう接していいのか分からず困惑した記憶がある。何が相手を傷付けるのか、どんなコミュニケーションが自分と相手の間に生まれるべきものなのか、全く想像ができなかったのだ。多分、僕はあの時怖がってしまっていた。 こういったことは日常生活でもよくある。こういうタイプの人とはああいう付き合い方をしようだとか、あの人はよく分からないからあまり関わらないでおこうとか。人間はよく分からないものを怖がるというのはよく言われる話だが、日本人は特にその傾向が強いんじゃあないだろうか。自分自身がそうだったからよくわかる。ある程度の対応方針が決まっていれば大して怖くもないんだけれど、外国人やマイノリティと触れ合う機会がとても希少で、まだその経験を日常レベルの習慣や慣習にまで昇華できていないのだと思う。だからこそ、不意に出る言葉や態度が相手を傷付けることも多く、そのことから互いに拒絶感を持ってしまうことになるのだろう。

「結局のところ差別なんて人による」という主張も一理はあるのだけれど、社会的な取り組みとして外国人やマイノリティの過ごしやすい社会を作ろうとしているのならば、もう少しこの問題を解決するやり方は規制を増やす他にもあるんじゃないかと僕は思う。あの時声を掛けてくれた青年は、きっとコミュニケーションを怖がってしまった僕と同じなのだと思う。やろうとしたけれど、やり方が分からず相手を傷付けてしまう、必要以上に身構えて怖がってしまう。こういった問題はやはり交流が'日常'になってこそ解決に近づく話なのだろうなあ。

天理市市長デリヘル問題についてニートが思うこと

選挙前、週刊誌で「公務出張中に性的サービス利用」報道の天理市長「不徳の致すところ」 - 産経WEST

このニュース(この記事本体というわけではなく一連のニュース)を見て僕は率直に言って「クソほどどうでもいいことをクソみたいに騒いでるクソ記事だな」と思ったワケだがどうやら世間ではそうもいかないらしい。 立場がある人間というのはデリヘルを呼ぶだけでこんなにも騒がれてしまうものなのだろうか、僕には想像もつかない世界だ。昨今のニュースを見る限り公人はすべからく聖職者たるべし、なんて規範が徹底されているようには到底思えないし世間もそんな期待なんてしてないと思うんだけど。ここら辺がニートである僕と世間のズレであり僕の不徳の致すところだとでもいうのだろうか。 つい最近にも出会い喫茶に行って貧困調査をしていたとかいう人が炎上していたけれど、貧困調査という言い訳が事実なのかどうかは別として、そんなこと皆してんじゃないの、というのが第一の感想だった。風俗へ行ったことのない人しか政治家や公人になれないのだとしたら嘘発見器使って全員審査でもするか、そもそも必須要項に書いとけよ。別に性サービスを受けたって政治能力が下がるわけでもないし、性サービスを受けない人だからって優秀だとも限らないだろうに、謎の'イメージの悪さ'みたいなもので人をどうこう評価するのはやめなさいよ民衆の皆様、というところです。偉そうに'けしからん'とか'ちょっとどうなの'とか批判してる連中は性サービスを受けたこともなくて、またそれが偉いとでも思ってんのかね。ちょっとどうなのってどうだと思ってんだよお前は。今回の市長には多少の油断があったことは確かだけれど、そもそもこの問題が本人にとって追求されたところで痛くもかゆくもないものであるべきだし、世間にとっても「だからどうした」というものであるべきだし、だからこそ記者は記事になんかする必要のないことだと思うんだよね。不徳の致すところとか言って謝罪する必要も一切ないし、本人も世間も過剰反応すべきでない事柄に思える。

小室さん「レシピ本」で節約生活意識、2人月2万円 - 社会 : 日刊スポーツ

これも同じで、眞子様と婚約された方もたかが本一冊買ったくらいで記事になって本当にかわいそうだ。マスコミは知る権利だとか実態のないものを盾にこういうことをよくするけれど、彼らのプライバシーや生活を侵害する権利なんて持っていないんだけどね。それぞれの記者がどういう気持ちで記事書いてんのか知らないけど、そんなのジャーナリズムではないしクソにも劣る恥じるべき仕事だと知れ。僕は仕事をしていないいわゆるニートではあるが、そんなくだらない仕事をしている人よりかは恥のない暮らしをしていると思うよ。日々彼女にいつ「そろそろ働いてくれない?」と言われるかと戦々恐々している僕だけれど、多分今日捨てた生ゴミより純粋なゴミ度の高い僕だけれど、即座に息を止めた方が世間にとってはプラスになるであろう僕ではあるけれど、そんな恥知らず達は僕よりも程度が低いと思う。悔しかったらそんな仕事辞めちまえ。不倫だの横領だの明らかに社会的逸脱と見なせることなら槍玉にあげるのもまだいいけど、グレーなものを'問題提起'とかいう聞こえのいいオブラートに包んで公表するのはその行為が明らかな一方的攻撃であり恥ずかしいことだということを自認しろと思うね。

そもそも現代で聖職者たるべき仕事なんてあるのかね。教師だの政治家だのそう言われがちな仕事は確かにあるけれども、本当にそうあるべき仕事などないと僕は思うよ。ニートやってても普通のサラリーマンやってた頃も小学校で学級委員やってた頃も大して心意気なんて変わってねえよ。こんなんで一々記事書くやつも偉そうに批判する奴も石を投げる資格なんてあるのかね?一度胸に問えよ。僕はニートなのにこんなこと書いて胸が痛くて痛くてたまらねえよ。偉そうなこと言ってないで働けと彼女に言われたらぐうの音も出ねえよ。せめてこのちっぽけな情けないニートのように、罪悪感と恥を胸に抱けこのやろう。

プライベートと両立出来る仕事です!とかいうやつ

プライベートへの侵食を両立と表現するな

最近転職サイトをよく見ている。割と無理な条件を吹っかけているにもかかわらず、いくらかの企業がオファーをくれている。

「プライベートと両立出来る仕事です」

会社紹介の欄によく書かれている文言だ。そういう会社に限って、社内交流チケットを配布しているだの土日にフットサルがあるだの家族ぐるみの付き合いが多いだのという、僕からすれば思わずウッとなってしまう恐ろしい制度や環境を推している。

特に会社の行事を推してくる企業に関して、脊髄反射的に鳥肌が立つほどの拒絶反応が出てしまう。 うさんくさいというか、宗教くさいというか、少なくともそういうところに積極的に参加して最高に楽しんでいるような人とは友達になれなそう。僕が最近はやりの陰キャということもあるのだろうが、しかしどうしても僕にはそれらのことは会社の行事であってプライベートのことではないように思えるし、何より両立と侵食を同じような意味で使っている感じがしてなにか悪意を感じる。

僕が思うプライベートと両立できる仕事というのは、残業が少なく朝出社が早く夜退勤が早い仕事である。現在は10〜19時(基本22時以降)の会社に勤めているが、本当にプライベートとの両立が難しいと感じている。

何か勉強しようとか映画を観ようとか、そういったことをしたいのに、飯食って風呂入って洗濯したらもう1時だ。結構多くの人がこんな感じなんだと思う。

そんな多くの人が、例に挙げたような土日にフットサルがあるというような話を見たらどう思うだろう。強制であるにせよないにせよ、第一印象としては嫌悪感を抱く人の方が多いのではないだろうか。そんなことをアピールするのならば、

土日は完全に休みにするので家族との時間を大切にしてください

と書いてある方がよっぽど印象が良い。会社の人と本当にプライベートな関係を築けている人なんて、よっぽどの根明かよっぽど学生時代の友人を持っていないかのどちらかだろうと根暗な僕は考えてしまう。

バイト募集のフリーペーパーを見ていた頃から思っていたけれども、そもそもなんで求人ってあんなにうさんくさいんだろう。年収例で三年目歩合給2000万って出してる求人、普通に考えればまともな人が入ってくる訳ないだろ、と思う。普通ではないことをさもそれが平均かのように書いたり、大して力の入れてもいない福利厚生だとか教育制度だとかを大げさにアピールしたり、なんでそんなにお互いが不幸になるようなことをするんだろうか。逆に、すごく大変だけどやりがいがある仕事だ、という紹介文もどうかなと思う。業務量過多をやりがいとかいうフワッとした言葉で隠しているのではと疑ってしまう。

ありのままの現実をありのまま書いて、納得してもらった上で人が入ってきた方がいいに決まってるのに、他のところよりよく見せようよく見せようとバカみたいな競争してさ、結局入社してからのギャップでやめていくんだろう。

1年後、3年後、5年後どうなっていたいですか?という質問

いや逆に聞きますけど5年前のあなたは僕にその質問をしていたかったんですか?って感じ

子供の頃からなんとなしに、大人は未来の話をするのが大好きだなあと思っていた。

大人になった今でも常々それは感じている。評価面談の場における掲題のような質問といい、なんで大人って"自分がどうなりたいか、どうありたいかを考えて逆算で行動しよう"みたいな話が好きなんだろう。

毎日毎日当たり前のように残業をして、みなし残業だから給与も大して増えずに疲労だけ溜まっていくような生活。 少なくとも3秒前までの俺はなんでこんなことしているんだろう、ということを考えていたよ。けれども数秒経った今では、この文章の落とし所を考えている。今のところの人生ってこんな状況の連続で、うわーどうしようかなって思っている間に大抵のことはもう選択するタイミングを逃して良くも悪くもどうにかなっちゃってきた。

例えば今月のノルマを達成できたとして、何が変わるんだろう。 もらえるお金が少し増えて、自分の評価が上がるだろう。けれどもそれで、来月もノルマを追っていくという状況に対して、何をもたらせるんだろう。多少評価が上がって多少賃金が上がって多少次の転職が有利になって、結局やることはサラリーマンなんだろうか。

やればやるほど後が楽になっていくというのなら、やらなければやらないほど後が辛くなっていくというのなら、総量はそんなに変わんねえんじゃねえかな。

基本的に今日で仕事をやめよう、と毎日思っている。明日もきっとそう思うんだろうけれども、明後日はわからない。来年なんてもっとわからない。そのときやりたいことをやっていたいぜ。

なんとなく大学生くらいから思っていたことがある。人間には二種類いるんじゃないかということ。 週末のビール一杯を糧に毎日頑張ろうと思える人と、なんでこんなことやってんだと思いながらもなんとなくそれはそれでそれなりの生活と幸福を見出しちゃったりする人。

今の社会では前者が普通だし、生物として愛されるべき人間だと思う。ただ後者は後者でありがちな話である。僕は基本的には後者寄りであると思っているし、ビールもあまり好きではないから、毎日なんとなくこうして生きていったらそれなりに目標みたいなのが出てきてそれなりな毎日も悪くねえなとか思い始めちゃうんだろうな、とも思っていた。

しかしそれは今の所達成されていないと言える。目標もないし、毎日"今日こそが人生最悪の日"だと思い続けている。

後者のタイプの人間の内、それでもこぼれ落ちてしまう一握りの人種がいるのかもしれない。いわゆるクズ人間。多分僕はそれになるんだろう。過去の自分のせいにするようで非常に申し訳ないことではあるが、きっと僕自身が子供の頃に夢を持てなかったのが大きな原因になると思う。

今はタバコが吸いたい。1秒後には、きっと僕がやりたいことはトイレに行くことになっている。3秒前はそんなことこれっぽっちも思っていなかったのに。こんな風に、やりたいことなんてすぐ移り変わっていってしまう。5年後どうなっていたいかなんてさ、意味ないよ。

どうにも僕には、その"逆算"の発想から本当のことばが出てくるようには思えない。むしろそのことばに寄り添うようなことを本当ということにして、これからもきっと惰性で続いていく"それなり"を、"理想に近づいているんだ"ということにして正当化しようとしているだけなんじゃないだろうか。

"本当になりたいんだったら、そうなるべく努力しろ"みたいな話なんてクソほど聞いてきたし、本当にその通りだと思うよ。 しかしさ、5年後どうなっていたいですか?とか改めて問われて何かを考える機会にしているような奴がだよ。その場でちょっとだけ真面目に考えたことを、"これは俺の本当のことばだ"と思い込むことって正しいことなのかな。そんな風に思わせちゃうのって、いいことなのかな。

働いてるやつは言うよ、働きたくないと。働いてないやつは言うよ、働きたいと。なんだかんだ、人間はないものねだりでグルグル回るだけなんだろうなって僕はそれなりの時間生きてきて感じたよ。5年後大金持ちのニートになりたいと僕が考えたとして、もしそれを2年で達成してしまったら、また違う形の目標を置いてぐるぐる意味もわからず回っているだけだよ。

1年後、3年後、5年後のことはわからない。そのときに思う幸せの形を、そのとき取れる手段で実現していれば良い。今思う幸せの形が、3年後の僕の幸せだとは限らない。足枷になったり、今の自分が感じたい達成感を未来の自分に押し付けているだけになってしまう気がする。

僕は何もしたくない。1年後、3年後、5年後のことはわからない。けれど少なくとも今は、僕は何もしたくない。僕なりの本当のことばはこれに尽きる。

5年後どうなっていたいかとか、そういう意味のない質問を軽々しく投げることはやめたほうがいい。 みんなそんな生き急ぐなよ、と僕は思う。そりゃあ一瞬は答えを出した気になるかもしれないけれども、おおよそ大した答えになんてなっていないし、なりたいものややりたいことを嘘にまみれさせてくだらなくさせていくだけな気がするから。

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第2弾「5年後の自分へ」
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