ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

強い人とか弱い人とか

あの人は強い人だ。

そんな風に形容される人がいる。たとえ本人がそう自覚していなくとも、周りからそう評価される人は確実にいる。 一体何を持ってして強い弱いを断じているのか。僕は昔から、「強い人」とやらに違和感を覚えて仕方がなかった。

強さ、あるいは弱さとは何か

一般的に言われる強さというものは、

「夢がある」

だとか

「めげない」

だなんていう物差しで測られている気がする。naverまとめなんかで纏められている精神論が語るのは、大抵こういったことだ。

けれども僕は、強いと思わせる人が必ずしもそれらを満たしているとは感じない。むしろ弱いと感じる人でも大層な夢を持っていたり、それなりの苦難を経験していたりする。 だからこそ、ただ明るいだけの人を強いとは思わない。まっすぐ信じた道だけを突き進む人を強いとは思わない。僕はむしろ、そういった人を見ると「危なっかしいなあ」とさえ思う。 反対に、ひたすらに暗い人がいたとして、僕はその人を弱い人だとは思わない。生きるのに疲れてしまう人を、僕は決して弱いとは思わない。

弱いことはいけないことか

では僕にとっての強さとは何か。それを語る前に、一つだけ言っておかなければならないことがある。

強くあることは美徳ではなく、弱くあることは悪徳などでは決してない。

これは僕にとっての強さにおいても、世間一般における強さにおいても同じことだ。強くあるのが美徳とされることこそ、むしろ傲慢な社会の重大な欺瞞だ。

誰が強く生きろと言ったんだ。強く生きるも弱く生きるも本人の自由だ。その言葉に靡いて、借り物の意思で借り物の生を歩むことこそ、弱いものの道ではないのか。自らの意志で強く生きたいのならばそうすればいい。弱く生きることを受け入れることもまた、大変な強さを要することだ。どちらにしろ、人に強く生きろなどと言う恥知らずの言葉には、耳を貸さず嘲笑を返してやるべきだ。

僕は心底そう思う。 ありがちな例えを用いれば、人の人生は一枚のキャンバスだ。人の絵をなぞる必要などこれっぽっちもなく、色を現実に合わせる必要もない。描きたいものを描き、描きたくないのならば白紙のままにしておくと良い。その絵の価値など、完成するまで誰にも判断できないのだから。そして、その絵が完成する時にはもう作者は死んでいることになる。ならば、後のことなんてどうだっていいだろう。好きに描くべきだ。

では、僕が思う強さとは何か

結論を言えば、僕が思う強い人とは「考える人」だ。ロダンのことを言っているわけではないが、しかし考える人は像になるほどに美しく、また何よりも尊い。 悩むことと考えることは違う。その二つは、限りなく近く、しかし限りなく遠い行為だ。

考えることは、大切なことを深く深く突き詰め、その輪郭を明らかにする。 悩むことは、大切なことを置き去りにして、何もかもボンヤリとさせてしまう。

信じた道を突き進む人は、信じた道が誤りだったと知った時、どうするだろう。 希望を忘れて悲しむ人は、生きる意味を考え考え考え抜いて、どうするだろう。

一瞬に迸る情熱と、導き出された確かな論理では、総熱量は同じかもしれない。しかし、熱量の質は明らかに違う。確固たる考えを持ち、そしてそれすらを疑い考えることをやめない人がいたとしたら、僕はそれこそニーチェの言う「超人」のような、とても強く尊い人間だと思う。

どちらが良いとかどちらが悪いとか、決してそんな話ではない。 しかし強くありたいと自身が望むなら、やるべきことはただ一つ、「考える」ことだ。

悩むことは無意味だ。人は考えてこそ本質に近づく。

ならばこそ、僕は女子高生にモテないと悩むのではなく、女子高生にモテない理由を冷静かつ多大なる偉大さ及び厳かさを持ってして、今もなお深く深く考えている。

ニートの規範とか社会がニートに期待することとかそれについてニートが思うこととか

規範、ということばはとても興味深い。僕自身多用しがちな言葉の一つである。

社会学を学んでいた頃、よく授業ではこの言葉が出ていた。抽象的な言葉なので最初の頃はよく混乱していた。人格、文化、社会、生活、それらのどこにでも付きまとうのがこの規範という言葉である。僕はこの言葉を特別気に入っているわけでもなく、いい言葉だとは思わない。しかし人が二人以上居ればそこには社会というものが生まれ、大小何かしらの規範が存在せざるを得なくなる。どこまでその規範を内面化しているか、定着しているかは別として、やはり人が生きる上で規範というものは絶対的に存在し、ある程度の共有が為されているものだ。つまり誰も、規範から逃れることなどできない。

 規範というと、「〜すべき」という文脈に当てはめられるものが多いように思う。ニートとはこうあるべし、というように。では、NEETの定義からいこう、NEETはNot in Education, Employment or Trainingの頭文字をとったものであったと思う。教育を受けておらず、雇われてもおらず、訓練も受けていない。さもありなん。僕の現状はたしかにその通りだ。この言葉を作った人は決して批判的な文脈で使用したのではなく社会における一定数の存在を呼称するためだけに使ったのだとかいう話を聞いたことがある。そして一部の学者はニートがある種の罵倒語のようになってしまったことに対し憤っているとも。

まあそれは置いておいて、世間のイメージではニートは働かず働く気もない若者で、ちゃらんぽらんな放蕩者という感じだろうか。働く気もなく放蕩しているもののみがニート足り得るというのであれば僕はまさに彼らのいうニートだろう。ニートはダメなやつで、本当は働くべきで、それでもいつまでも自愛からくる甘えを振り切れず自立できないやつ。何も間違っていないとニートの僕は思う。

しかし、ニートにも背景を持つ人がいる。一度は社会に出たりうまく社会と付き合っていこうという意志を持っていたが、何らかの事情で転げ落ちてしまった人たち。落伍者、といってしまうのは彼らに失礼なことかもしれないが、しかしやはり置いていかれた、という表現がふさわしいように思う。僕も自分ではこちら側のニートだと考えている。一回はうまくいきそうだったのにな、どっかでまちがえたんだろな。後悔なんかしてないけどなんかな、思うところあるよな。

大して揺れてもいない社会から振り落とされて、落ちた先では上手く自分でレールを敷けず、いつのまにか幾つかのセーフティネットもすり抜けてしまった。悲しいかな、未だに僕はそれを僕自身のせいだと言えるほど大人にはなれておらず、社会のせいだと言うほど子供にもなりきれない。僕にとって今の状況は自分が被害者であり加害者でもある状況、これはどこか自殺に似ている。つまり僕は一度自殺をしたのだ。そして生まれ変わってもいない。ゾンビのように日々を暮らし消費>生産のサイクルを必死に回している。

何もせず、かつなるべく社会に迷惑をかけない存在であれ。

考えてみればこれが僕にとってのニートの規範、いやもっと範囲を狭めて僕自身の人格規範なのかもしれない。何もしないことで既に社会に迷惑をかけている、という自己矛盾を孕んでいる点がとても生々しくて的確だと自画自賛している。自己批判と自己愛、エロスとタナトスのせめぎ合いのような、とてもとても人間らしい背反だ。

世間はニートを排除しようとする。生産しない人間など社会に必要がないから。 しかし社会はニートを守ろうとする側面も持っている。生産しない人間でも社会が擁する一人の人間だから。 なかなか難しい問題だよね。 そしてニートというか僕は排除してくれるならしてくれていいと思っている。金と迷惑のかからない死に方や誰も罪に問われない殺人のされ方なんかがあるなら是非教えてほしいしなんならその勢いのまま殺してくれとさえ思う。北朝鮮からのロケットを俺が受け止めることで誰かが助かるなら是非そこにベッドを置いておいてくれ、僕はなんの未練も感動もなくそこで寝るだろう。 「そうじゃなくて働けよ」というツッコミは尤もだ。誰だってそう思う、俺だってそう思う。でも嫌なんだもん。働きたくないんだもん。これが紛れもなく僕の本音だ。今は割と安定しているので死ぬほど働きたくないとまでは思わないが、働かないでいいなら働きたくはない。そしてなんとなしに今はそんな感じで生活出来てしまっている。きっと誰かに迷惑をかけながら。

僕は働きたくないよ、ごめんね社会。

はたらきたくない

別に楽して生きていきたいとか思ってない

やりたいことを仕事にしたいとか思ってない

なんも考えてないしなんも考えたくない

かといってニートのままでいいともおもってない

大学で出会った女の子とアムウェイの思い出

このマークを知っているだろうか。ネットワークビジネス、マルチ、ネズミ講、正誤はともかく色々な呼ばれ方をしているアムウェイ。僕は決して参加したことはないし、参加するつもりもない。うさんくさい。アホらしい。僕はそう思う。

けれども、知り合いからネットワークビジネスのような話を持ちかけられた時は必ず、彼らの話を一度は聞いてみることにしている。

僕は今までアムウェイの勧誘を数回受けている。中学校の同級生に急に誘われカフェで2時間語られたり、友達の家にゲームをしに行ったら急にその話になったり、様々なパターンがあった。

その中で一番記憶に残っていて、「下手したら僕は入っていたかもしれないな」と思うパターンが一つある。

「可愛い女の子の家に行ったら全てのものにamwayロゴがついていたけれど一切勧誘も良い雰囲気もなかった時」

だ。この時ばかりは自分から言いだしそうになった。

その話をしたい。

出会いとアムウェイの戦慄

彼女と最初に出会ったのは新入生歓迎コンパだった。あれは確か僕が三年生の頃。飲み屋を貸し切って百人以上の新入生を招き入れ、気に入ったら是非我がサークルに入ってくれと勧誘をしていた。当時僕はサークルの代表とはいかないまでもそれなりの役職についており、新入生が変なのに絡まれたりしないよう監視する役目を担っていた。

その日は何かとトラブルが多かったのを覚えている。未成年宣言をした子がお酒を飲もうとして必死で止めたり、飲みの場に不審な注射器が落ちていたり、聞き込みからその持ち主を特定しようとしたり。特定した注射器の持ち主はどうやら新入生の一人ということがわかった。持病かなんかで、治療のために使ったのならいいのだが、オヨヨなものを打ってたらマズイよなぁということで僕が彼に話を聞くことにした。

彼は、泥酔しているのかキマっているのかは分からないが酩酊状態にあり、他の新入生の女の子に悪絡みをしているところだった。結論から言えば彼は打った薬については明言を避けたがどうやら正当でないものであることを匂わせたので、僕は追い出す決断をした。放置されていた注射器も適当な缶に入れて捨て、とりあえず致命的な事態を招かずには済んだと言える。 さて、突然彼を呼びつけ引っ張っていってしまったわけであるから、悪絡みをされていたにせよ女の子の方にも一言声をかけておかなければならない。満更でもなかったのかもしれないし、悪いことしたなあという意識もある。

そこで僕は「さっきは勝手に彼連れてっちゃってゴメンね」と彼女に声をかけた。

「うざかったので助かりました。なんかクスリをやってる、君もやってみない?みたいなこと言われて面倒でした。」

そこで僕は彼女の顔を初めてちゃんと見たのだが、なんというかこう、動物的でとても可愛らしい子だった。ぶっちゃけ一目惚れに近い。そこから僕はもう、先輩であるというアドバンテージを最大限に利用して「大丈夫だった?実はさっきアイツ追い出してきたんだよね」というような切り口で彼女に急接近していった。 しばらくして彼女が「人がたくさんいて疲れた」と言い出したので、僕はサークルの仕事を放り出して彼女を駅まで送ることにした。道中の駆け引きが功を奏したのか、またお酒の力も多少借りることで僕は彼女の手を握ることに成功し、駅まで連れていった。

「うち、ここから近いから歩けるんです。一緒にうちまで来ませんか」

というセリフを聞いた時には正直ブレイクダンスでもしてやろうかというくらい嬉しかった。まあ大学生の間ではこんなことはよくあることで、この子がたまたま話の早い子でちょっとラッキーだなあというくらいの話だ。 顔がタイプ、大学の近くで一人暮らし、話もつまらないわけではない、それなりに積極的、とくると非常に好条件の物件。いや、物件なんて呼び方は失礼だ。彼女こそが運命の人で、一生尽くすべき相手で、信奉すべき女神そのものなんじゃないかと僕は思った。性に支配された頭の悪い学生の思考なんてこんなもので、それは確かに愛になり得る思いだった。二人で白線の上しか歩いてはいけないゲームなんかをしながら、ウキウキ彼女の家まで歩いて行った。

家に着いてまず気付いたのは、おそらくここはそれなりに高級なマンションであるということ。駅近、オートロック、外観からかなりの築浅であることも伺えた。親御さんがお金持ちなんだなあ、と思いはしたが当時はあまり気にしていなかった。

「上がって」

と言われて入った部屋は僕の想像よりずっと広く、女の子らしく綺麗に整頓されていた。僕は、彼女が淹れてくれたお茶を飲みながらこの後のことを想像していた。

僕はここに泊まるのだろうか。泊まるとしたらお風呂を貸してもらえないだろうか。僕らは今夜このままセックスをするのだろうか。サークルの飲みに戻らないと後で怒られるんじゃないだろうか。この子はどこまで考えて僕を部屋に入れたのだろうか。少し酔った僕の頭のなかでは、色々な思いがグルグルと回っていた。

「自分が汗臭い。シャワー貸して」

シャワーを浴びながらも考えてみたが、結局イマイチ彼女の意思がわからない。しかしこのままなんやかんや彼女と寝てしまうと、注射器の事件以上にサークルを揺るがしてしまうことになってしまうのではないだろうか。そんな思いをうまく消化できないまま風呂を出ると、彼女はタオルと新しい歯ブラシを脱衣所に用意してくれていた。この歯ブラシというのが僕にとって重要な問題だった。これは僕の口が臭いから置いているのか、それとも泊まって良いという意思表示なのか、ただシャワーを浴びたら歯は磨くだろうという彼女の中の習慣からきたものなのか。僕は思い切って、彼女に意図を問おうとした。

「私もお風呂はいる。服はファブリーズしといたから、乾くまで裸でゴロゴロして待ってて。」

彼女はそう言って脱衣所に入ってきた。ラノベの難聴系主人公だったらまだ決意を固める段階ではないのかもしれない。しかし性欲と自分自身の心にどこまでも忠実であった僕は、流石にこの時点で全てを確信し理解した。

「本当に裸でゴロゴロしてる。男が着れそうなTシャツなんてないから、そのままで。」

シャワーを終えて出てきた彼女は、ラフなtシャツにボクサータイプのパンツをはいた姿だった。あまりにカジュアルというかラフな格好をしていたため、僕はもしかして彼女と長年付き合ってきたりしているのかと勘違いさえしてしまいそうだった。なんとか正気を取り戻し、目のやり場と手持ち無沙汰感の解消を求め歯磨きをすることにした。

僕はそこで、遂に「amway」の文字を目にすることになる。

警戒と興奮と肩透かし

洗面台に陣取り、いざ、と手を伸ばした歯ブラシと歯磨き粉。その両方に「amway」の文字があった。よく見れば化粧水、ちょっとした小物の全てにそのマークがある。正直鳥肌がブワッと湧き出て、確かに戦慄が走った。

僕は当時既に数名からamwayの勧誘を受けており、友人関係を壊さない程度に全てなあなあにして避けてきた。しかしこの状況はどうだろう。 仮に僕が今彼女からセックスとamwayのお誘いを同時に頂いたとしたら、断るなんてことができるであろうか。いや、できるはずもない。僕はその二つの誘いを別個のものとして捉えるほど愚図ではないし、彼女の魅力に打ち勝つ程の決意を持てるわけもない。しかしamwayにいい噂は聞かない。そもそも僕にはamwayを拡散するほどの友達もおらず、バカスカ商品を買う金もない。

どうしよう。ヤりたい、でもamwayはヤりたくない。

もう僕はこの時点で既にどうしようもなかった。僕はどうしようもなく彼女に魅力を感じていたし、このイケそうな状況をむさむざ打ち捨てるには僕の天秤はあまりにも正直であり、そしてそもそも恋というものは時に人を死なす程のものなのだ。

「この歯磨き粉、amwayなんだ。amwayやってるの?」

僕は敢えて地雷を踏み抜くことにした。今思えば、少しでも'相手に騙されている感'を減らし立場を対等にさせようとした為の一手なのかもしれない。いや、単純にさっさと話を済ませてすぐ至りたかったのかもしれないけれど。何にせよ僕の経験上、amway信者に対し少しでもamwayに興味があるようなそぶりを見せると必ず勧誘してくる。それはもう水を置いておけば蒸発してしまうのと同じように、自然の摂理とも言えるほど必然なのだ。当然、今回もそのようになって然るべきだ。

「・・・」

驚くべきことに、彼女の返答は無かった。むしろあまり触れて欲しくないような表情で、正に'聞かなかったことにした'のだ。これには僕も驚いた。牽制に繰り出した先制ストレートパンチを完全にスカったわけだ。

「歯ブラシありがとう。ここに置いておくからあとで捨てちゃって。」

動揺する心を見透かされないよう、何事もなかったかのように彼女の横に座る。

「歯ブラシ置いといていいよ。捨てないでとっておくよ。」

彼女はそういうと、お酒がまわってきたとベッドに入ってしまった。

裸でリビングに佇むぼく

しばらくパンツ一枚でリビングに座っていたが、彼女の寝息が聞こえ始めた頃ようやく僕は服を着た。そう、結局その日はなにもなかったのだった。LINEのIDとシャワーを貸してくれたことに対する感謝の言葉を書いたメモをテーブルに置き、ダイニングにあった鍵を持って僕は部屋を出た。鍵をかけ郵便受けに入れておくあたりで何やら違う世界に迷い込んだような感覚があったのをよく覚えている。酔いも醒め、僕はサークルの友達に連絡を入れ飲みに合流しようとした。マンションを出て少し歩いていると、さっきまで寝ていたはずの彼女からLINEが届いた。

「行っちゃったの。ありがとう」

僕はなんと返信すればいいかわからないうちに既読をつけてしまい、そして今この瞬間彼女の部屋まで戻るという選択肢を失ったことに気が付いた。

「飲み会にいってくるね、一応幹事なので」

と返信をしたものの、なんだか飲み会の喧騒に巻き込まれたらこの不思議な世界から現実に引き戻されてしまうような気がして、僕はとぼとぼと一人で家に帰った。

果たしてあの時僕がamwayに入会していれば彼女と何かしらの関係を築いていたのだろうか。多少のお金と友人を生贄にすれば、幾ばくかの可能性を掴めていたのだろうか。

今となってはわからないけれど、僕はあのとき、間違いなく人生で一番amwayに近付いたことだけは確かだ。

だからこそ僕は、古い友人からFacebookのメッセージを貰うときは大抵いつもこのことを思い出す。

そしてあの変な感覚を、別世界のときめきと似たあの不思議な経験をまたできるのではないかと信じて、僕はいくらかの期待を込めた足取りで彼らの話を聞きにジョナサンへ向かうのだ。

「とりあえず3年間は同じ会社に勤める」について、実行した現ニートが思うこと

なんで3年なんだろう

「社会人をとりあえず3年やるのは無駄」を全否定したい。 | OMGmag

「とりあえず3年間は社会人をやる」ということについて、議論はもう出尽くしているような気がする。いつの時代も賛否両論なのは分かりきっていることだし、「無駄な3年」かどうかなんてものは属人性が高い問題であるから結局のところ人によるというつまらない話になってしまう。

僕はそれよりも、何故「3年」なんだろうということにこそ興味を覚えた。「石の上にも三年」「三年寝太郎」などしばしば日本語には3年という期間が一つの区切りとして出てくる。奇しくも僕はちょうど3年という期間会社に勤め、自分なりに色々と考えたつもりで今ニートをやっている。果たして会社勤めの3年間は僕に何をもたらし、そしてそれは1年でも2年でも4年でもなく、3年でないといけないことだったのだろうか。

1. 1年ではいけない理由

人の人生における1年といえば、それなりに重みのある期間だと僕は感じる。例えば海外への留学で考えれば、2ヶ月や3ヶ月では短いなと思うけれど、1年といえば多くの人はそれなりだと感じるのではないだろうか。語学で言えば、専門的な会話は難しいかもしれないけれど、日常会話が出来るくらいは期待されて良い期間にも思う。では、仕事という意味では一年はどういった意味を持つのか。 僕は未経験のエンジニアとしてベンチャー企業に入社した。そう言ったことも踏まえ、社会人1年目で学んだことは、以下の3点が大きい。

  • エンジニアというものについての規範
  • 自社の業務についての理解
  • その会社が求める社会人としての規範

プログラミングというものについての知識については言うまでもない。そもそもプログラム言語やプログラミングについての知識がゼロの状態で入社したので、日々必死に学んでいった。特にエンジニアという仕事の性質上、常に最新の技術や情報に触れ、積極的に学び取り入れることはもはや義務であり唯一のやり続けなければならない仕事といっても過言ではない。しかし僕が1年目に学んだのは、プログラミングの技術云々というよりもこのような考え方こそがエンジニアという職業の規範であるという理解と納得が大きい。例えこれが営業であっても、事務であっても同じことだと思う。1年目で学ぶ最も大きな点は、その職種が持つべき規範への理解と納得である。少なくとも僕が1年目で学んだことの中では、これが最も身体に染み付いているものである。

次に、自社の業務に対する理解。この会社はどんな仕事をどのように得て、誰がどう仕事を行い誰からお金を得ているのか。今でも不思議に思うことがあるが、何故かこれは入社する前では見え難いものの一つである。就職活動を行っていた時にさんざ調べて分析した内容ではあるはずなのに、自社のことを友人から問われた時にハッキリと網羅的に答えられたのは1年が過ぎた頃だった。商流という言葉の上では説明が出来ていても、誰がどのような仕事をしているかというものはやはり実感を伴ってこそ理解できるものなのかもしれない。

そして、(その)会社が求める社会人としての規範。これは会社にもよるが、電話の出方一つから仕事への取り組み方、立場の違うもの同士の付き合い方など、やはり各々の会社に独特な文化があるのは当然のことだ。その文化が脈々と受け継がれてきたものなのか新興したものなのかはどうでもいいが、その会社に所属する以上求められる資質や態度、守るべきルールというものが存在する。新人研修から始まって、自分が後輩を持つようになるまで1年。その間に「この会社にはこういう文化がある」と後輩に説明を出来るよう、規範に対する理解を深めなければならない。別に共感はしなくてもいい。理解だけしておけば、少なくとも生きづらい状況を避けることは出来るし、後輩にそれを伝えることもできる。

この三点は端的に言って、今の自分の職種のこと,今の自分と会社の役割,今の自分の立ち居振る舞いのこと、である。こうして今振り返ってみれば、僕が社会人1年目で吸収できたのは、あくまで「今・自分」のことまでだった。周囲に対する考え方や、自身のこれまで、自社のこれからといった視点まではまだ獲得出来ていない。

僕の能力という尺度では、世間の言うことに同調するようで悔しいがやはり社会人1年目というのは'学生気分を抜けさせる期間'であったと言うわけだ。学生ではなくなったからといって、社会人であるとは言えないのは当然である。故に、1年ではいけないのだろう。少なくとも僕は、自分の実体験としてここまでは納得がいく。

2. 2年ではいけない理由

では、2年目では何が見えるようになっていったのだろう。なんとなくの印象では、段々と日々の仕事には慣れ、社内でのコミュニケーションも進み問題なく社会人と言えるようになってきたタームであるように見える。しかしそれは本当のことだろうか。

  • 業務への慣れ
  • 出世への欲

僕が2年目で得たのは上記二点である。 まず、業務への慣れ。これは先述した語学留学になぞらえれば、やはり日常会話程度はこなせるようになってきた段階であると言える。日々降りてくる仕事を、1年目で身につけた仕事の進め方に当てはめて一人で仕事を行えるようになってきた。当然後輩にも何かしらのアドバイスを出来るようになり、それなりに余裕が出てくる時期と言える、

そして二点目、出世への欲である。人は余裕が出てくると欲が出て、もっと良いものが欲しくなる。これは人類史が証明していることであるが、社会人にとってもそれは変わらない。入社当時から出世は出来るならばしたいと思っている人が大半だとは思うが、僕は日々に余裕が出来たこのころ、より具体的に出世への道を考え始めることができた。この先この会社にどう貢献すれば評価が得られるか、この会社に足りないものは何か、自分に足りないものは何か、どうそれを得るのか。欲というものは、少なからず未来を考えることと同じ意味を持つ。

僕は2年目にしてようやく、「周囲・会社・未来」を視野に入れることができた。では、より高い視点を得ることができたのに、何故2年ではいけなかったのか。それは僕の場合「視点は視点であって行動ではないから」ということに終始する。出世への欲から、僕はこれからの自分自身の成長について、上司に直談判をして共同作業で道筋を作らせて頂いた。しかしこの時はまだ、理想を持っただけの段階であり、その道筋を駆けられたわけではない。実行が伴わない想定など、なんの意味もない。やはり、僕は会社を辞めるのは2年目ではいけなかった。

3. なんで3年なんだろう

結果から言って、僕は鬱病になって三年一杯で会社を退職した。3年目は、2年目に立てた道筋を必死に駆ける年だった。夢に描いた出世という意味では、僕はこの3年目の一年で異例の2職階昇進を果たした。描いた道筋は困難極まるものであり、時に吐き胃を壊しながら実現した。上司の温情や会社の経営状況など、まあ僕以外にも要因があるとは言え、僕にとって3年目は、2年目の想定をようやく努力を持って「実現」させた年であると言える。僕の場合、スピードを持って成長出来たのはやはり3年目だったのである。文頭にあるよう世間で3年という期間が特別に扱われているのと鑑みるに、多くの人が似たような道を辿ってきたのではないだろうか。

僕の場合、3年目は結局のところ鬱病になっている。なぜ4年ではいけないのか、という話になると、「耐えられなかったから」としか答えられない。僕は今ニートになってしまっているし、世間の人から見れば僕の三年はハッピーエンドでは決してないと思う。今思えばなんであんな出世とかいう下らないことのために人生を摩耗させていたんだろうとか、それでもあの一年は自分としては珍しく頑張った経験だなあとか、それで精神壊れてちゃ成長とは言えないんじゃねえのとか、色々複雑な感情は出てくる。その辺りはまた別の話で。

結論

とりあえず、なんで3年なんだろう、という疑問に対しては僕は自分自身の経験を振り返ることでそれなりの納得を得た。もっとも、僕の3年間を1年で経験してしまう人も当然いるであろうし、もっとかかる人もいるのだと思う。けれども所謂凡人、特に優秀でもなく無能でもない(どちらかと言うと無能寄りかもしれない)フツーの人間と言われる人にとっては、これらのような経験を積む期間として平均して3年程度必要なのではないだろうか。 「とりあえず3年」という話に関しては、明確な根拠ではなく多くの人の経験論から語られている、慣習のようなものなのだと結論したい。その是非は色々あるとは思うし、上述のように個人差があるからなんとも言えないところだけれども、もし今働く期間について悩んでいる学生諸君や社会人1,2年目の人がいるとすれば、自分の人生を考えるための一助として僕の経験を役立ててもらえれば、僕はとても嬉しい。ついでに、ニートの僕にはもう見られない職場のOLのエッチな話や女子大生となんやかんやした話なんかをお礼として聞かせてくれればこの上ない。

何もしないクソニート、ということについて

「太陽フレア」 きょうGPSなど障害か | ホウドウキョク

太陽フレアGPSや通信機器に影響を及ぼす可能性があるらしい。これはつまりグーグルマップを頼りに都会に出てきた女子大生が一時的に路頭に迷う可能性があるということで、僕はその女子大生らを保護して匿う備えを急速に進めている。それと同時に今日の労働者時代の先輩と会う予定もキャンセルしてしまいたいワケだがなかなかそうもいかないのが困る。

ニートをやっていると、こんな風に昔の先輩や同僚、大学の友人から何か仕事の誘いを受けることがある。とてもありがたいことではあるが、僕は今ニートをやりたくてニートをしてあるため色好い返事は出来ていない。僕がニート期間である今、常に自分に問うていることは「お前が本当にやりたいことはなんだ」ということである。意識の高い人は大学時代に自分探しの旅をするという。僕はこの充電期間をもって自分が本当にやりたいことと絶対にやりたくないことを探し当てるつもりである。そのために今なにをしているかといえば、なにもしていない。勘違いしないで欲しいのは、すべきことがあるのに何もしていないのではない。「何もしない」ということが今僕のすべきことなのであり、僕はそう信じてそれに従っているのである。何かをしながら何をやりたいか考えると、どうしてもその今現在していることに考えが寄ってしまう。エンジニアだった僕はやはり次働くとすればまたエンジニアとしてなんだろうとどこかで考えてしまっているし、今仮にエンジニアとして誘ってくれている方々の仕事を手伝ってしまえばその道以外はより見え辛くなるだろうとも考えている。 何もしないということはなかなか難しい。しかし、なんとなくその場で思いついたような軽い気持ちや、必ず労働という形で社会に携わるべきだという自分自身のあやふやな認識、これらを取り除かずして再度仕事を始めてしまっては、僕は鬱で退職という同じ過ちを繰り返すことになる気がする。

仕事をしていたころ、PDCAサイクルというものについて会社の経営陣が口を酸っぱくして話していた。僕が今やっていることも結局のところ似たようなことをしているのだと思う。ミスをしてしまったから、次はどのようにすれば同じことを起こさないか考え実行する。PDCAサイクルなんて大仰なことを言っているけれど、人生においてそんなもの誰もがやってきていることだと思う。遊びでも恋愛でも学業でも友達付き合いでも、うまくいかないことがあれば相手を変えるなり自分を変えるなりやり方を変えるなり僕らは常に対策を講じ、また大仰な言葉を使えば僕らはいつも'カイゼン'してきたはずだ。ビジネスマンは当たり前のことをそれらしく言うのを好む。そう言った知識(僕からすれば知識ではなく嗜好な気もする)を名刺がわりにして、自分がビジネスマンであるとアピールしているのだろう。大切なのは言葉でも言い方でもなく、論理の理解と組み立て方であると僕は思う。話が逸れた。

他の人から見れば僕の今の状況は甘ったれなクソニートそのものではあるが、僕としてもまあ心の底ではそう自分のことを見ている。しかしクソニートをこれ以上拗らせるわけにいかないのは他の誰でもなく僕自身が最も痛切に考えていることであり、僕は自分自身をよく考えた末に「何もしない」という行動を選択したのである。何もしていない期間に、これがやりたい、と思いを重ねられたものこそ本当の気持ちであると今のところは考えている。悲しいことに、今はまだ「何もしない今を続けたい」と考えてしまってはいるが、それも一つの本当の気持ちかもしれない。いずれ社会がもっと僕に揺さぶりをかけてきて、ニートのままじゃ生きていけないと明確に突き付けられたとき、ならば僕はこれをしたいと確固たる意志を持って応えられるよう、自身に期待をしている。もしそれで、何もしたくないから限界まで何もしない、という答えが出たとしたら、僕はどこかで野垂れ死ぬだけだろう。その時は恐らく僕の考えは歪んでいて、産み落とされる時代か環境を間違えたのだと自己弁護をしてさっさと死ねばいい。

せめて人に迷惑はかけない形に納得が出来ればいいな。

みなし残業の悪意

ホワイトカラーエグゼンプションとは

一般的に、みなし残業制度とは、ホワイトカラーエグゼンプションという考え方/制度に基づく労働に関する制度の一つである。 しばしば悪く言われることの多いみなし残業ではあるが、その地盤となるホワイトカラーエグゼンプションの本来の考え方は、現状の実態とは少し違う立ち位置を取るものだ。

ホワイトカラーの給与及び評価は労働時間ではなく、実際にあげた成果に由来すべきものである。

これが基本的なホワイトカラーエグゼンプションの思想である。旧来の残業代における制度では、生産性が高く仕事を早く終わらせる人間と仕事が遅く無駄に残業をする人間との間に、仕事の量が同等であれ、残業代という制度によって給与に格差が生まれてしまう。これは構造的な理不尽だ。そう、これは制度に含まれる理不尽を無くすべく考えられた、正義の制度であるはずだった。 単純労働が主であった時代ならば、時間単位での生産効率に属人性が少ない故、このような理不尽は起き辛かったと考えられる。しかし、時代は変わり、現代。ホワイトカラーと呼ばれる職種が持つ仕事の量は明らかに増加した。ホワイトカラーの仕事はそれまでの労働というものに対する認識に疑問を投げかけた。ある人は10時間かける仕事をある人は1時間で済ませることがある、なんとなく仕事の性質が変化しているのかもしれない、というところが段々と判明してきたのである。 それに加え、あらゆる市場で競争の激化が起こっているのは言うまでもない。会社は所謂使えない社員というものを雇っている余裕を失くした。あるいは、情報化によって企業が各社員の生産性を明確に測れるようになったことも大きい。ともあれ、社会は生産性というモノの存在をようやく認識しはじめ、既存の制度では人や仕事を評価することは出来ないのではないか、と現代に合った制度を模索するようになる。 そこで生まれたのがホワイトカラーエグゼンプションという制度である。この成り立ちから、ホワイトカラーエグゼンプションそれ自体に批判を受けるような欠点はなく、時代に合った制度を設けようというただそれだけの話であったことがわかる。

みなし残業の悪意

では、なぜそのホワイトカラーエグゼンプションの一環であるみなし残業制度が批判を受けることになるのか。それは、このホワイトカラーエグゼンプションを悪用し、成り立ちを無視して見かけ上だけこの新制度を取り入れる企業が出てきたことに由来する。

会社の給与というものは、基本的に基本給と各種手当の二つで構成されている。 例えば基本給が20万であるとして、役職手当や家賃補助、交通費補助などを付与して給与総額が額面上30万になるとしよう。労働時間は09-18時昼休憩抜きで8時間とする。

ここでもう一度ホワイトカラーエグゼンプションの思想を確認すると、給与と評価は労働時間に対するものではなく成果に対するものであるべきだ、というものである。

この思想に基づき、日本においていくつかの先進的な企業は、以下の三つの制度を試験的に導入しはじめた。

  1. フレックスタイム制
  2. 裁量労働制
  3. みなし残業制

※ 当然今回は3のみなし残業制に関する話を取り上げるが、問題の本質的な構造は3制度共に変わらないことのように思う。

本来のホワイトカラーエグゼンプションの思想とみなし残業制度を照らし合わせると、みなし残業の文脈は以下のようなものになるのが自然と言える。

  • 一人当たりの平均残業代を全員に付与すれば
  • 生産性の高い社員は早い帰宅時間と残業代を
  • 生産性の低い社員はこれまで通りの残業代を
  • 理不尽なく正当な報酬を得られる

しかし、実態はこの通りではない。

基本給の一部をみなし残業代として付与することで、残業代を節約している企業がある。とても卑怯なやり方だ。そもそものみなし残業制度の成り立ちを考えると、ホワイトカラーエグゼンプションの思想に真っ向から対立するやり方であると言える。

大学生諸君や社会人の皆様、世間がみなし残業についてあれこれ言っているのはこういうことなのである。日本の一部の企業では、上記のような悪意のあるみなし残業制度が取り入れられている。みなし残業そのものはそもそも悪いものではない。悪用している企業がいる、ということなのである。

「レンタル彼女」なんてサービスがあるなら「レンタル部下」とかあってもよくない?

レンタル彼女

レンタル彼女、どこまでOKなのか?会話途中で「代金いいですか?」個室NGで1回3万円

レンタル彼女というものが流行っているらしい、という話を聞いてからもうしばらく経つ。今やそのサービスは割と一般的と言えるほどに知名度を持った。僕は利用したことはないが、性行為を目的とするものではなく、いわゆる普通のデートをキャストとなる女の子と楽しむ目的のものらしい。1h5000円〜というくらいの相場で、会話をしてくれたり手を繋いでくれたり、要するに「彼女」のふりをしてくれる女の子との時間を買えるものだ。

僕はこのサービスについて、大変素晴らしいものであるし、社会を読み解くにあたっても非常に興味深いものであると思う。

どういう人がどういう気持ちで利用するものなのだろう。色々なパターンが考えられる。 普通の男性で、新しいキャバクラのような形で一時的なストレス解消に利用する場合。いわゆるアイドルオタクのような人たちが、会いにいけるアイドルというような感じで一人の子をガッツリ応援していく場合。特定の相手がいる男性で、浮気や不倫はしたくないけれど他の女性と話すことでちょっとした刺激が欲しい場合。一人じゃ行きづらいお店や映画に連れていく相手として利用する場合。 僕はどのパターンの欲望にもそれなりに共感できる。やはりこういうサービスは人々の抑圧された部分の欲望が色濃く出ていてとても興味深い。僕だったらちょっと年下の扱いやすそうな女の子を指名して、高い店や高尚な場所を連れ回してさも自分はこういうところによく来るんだぞという風に紳士ぶりたい。要するに、偉そうにしたい。

じゃあこれって「彼女」に限らずとも色々派生出来るんじゃないの?

  • レンタル先輩
  • レンタル後輩
  • レンタル上司
  • レンタル部下
  • レンタル先生
  • レンタル生徒

なんかイメクラのシチュエーションを選ぶときのようで考えるだけでも楽しいが、僕の場合近況から来る今の表面化した欲望は「偉そうにしたい」ということなので、つまりレンタル後輩やレンタル部下やレンタル生徒なんてサービスがあったらビンビン丸なのである。どれでもいいけど僕のオススメはレンタル部下だ。あぁ偉そうに説教しつつカフェでコーヒー奢ったりありもしない自分の武勇伝を語ったりして自分の地位を錯覚したい。セックスに迫る快感があるんじゃないかと思うわ。翌日から何か歪とは言え自信が持てそうだし、自分の意識がとても高まりそうなきがする。「うーん、お前もビジョナリーカンパニーとドラッカーくらい読みなよ?」とかドトールで言ってる胡散くせえ営業マンの真似してえ。マジでたまんねえパキパキになるわ。後半はどうでもいいところを褒めたりして「俺はちゃんとお前のこと見てるよ」アピールしてぇなぁ。今ニートだし仕事したくないけど先輩面だけはたまにしてぇ。

というわけでレンタル〇〇シリーズって拡張性あって面白くない?