ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

三浦しをんさんが女性だと知って僕はショックを受けた

きみはポラリス (新潮文庫)

きみはポラリス (新潮文庫)

何がショックだったかって、僕が三浦しをんさんを男性だと思ってしまっていたこと、つまりは未だ無意識の内に性差別的観点を蔓延らせていること、そしてそれを少しも自覚していなかった自らの愚かさだ。

彼女の本は「きみはポラリス」、「舟を編む」、「私が語り始めた彼は」などからはじまりそれなりに読んでいたつもりだった。凄まじい程に巧妙で的確、そして美しい文章を書く人だなあとずっと思っていた。二、三頁に一文は必ず「言葉でこんなことを描ける人間がいるのか」という驚きと確かな敗北感を覚える文章がある。それくらい三浦しをんさんは素晴らしい作家だ。

恐らく、その敗北感が僕を錯覚させたのだと思う。こんなに凄い文章を書く人はどんな人だろう、内に秘めた暗さをこんなにも明らかに隠せる人はどんな人なのだろう。そして、「しをん」という筆名を選んだ人はどんな人なのだろうか。僕の想像は、気が付けば一人の若い天才的なセンスを持つ男性を作り上げていた。これまでの人生から、友人から家族から、大学から社会から、僕は性に対する偏見の理不尽さ、罪深さをたくさん学んできたはずなのに、なんとなくのイメージで三浦しをんさんは男性だと思ってしまっていた。

もしこの誤解が彼女の文章に対する敗北感に由来するものだとすれば、口では男女に優劣など一切ないと言い、頭と心もそれに同意していたつもりでも、それは表面上のポーズに過ぎなかったのかもしれない。つまり、僕は心や頭の奥底で女性蔑視、性差別をしてしまっていたのではないか。そうは思いたくないが、そうだとしたら僕は僕が軽蔑する人間達と同じになってしまう。

僕が最初に『秘密の花園』を手にしていればこの勘違いは起こらなかったかもしれない。秘密の花園は非常に女性らしい繊細なお話だ。女子校に通う少女をこれほどの浮遊感と開放感に満ちた文章で包みこむ作品は男性には作れないのではないかと気付けたかもしれない。

しかしこれまで読んできた彼女の作品は、僕を完璧に騙した。彼女の本を読めば読むほど、この本の著者は僕のいる世界とは隔絶された次元からこの世界を覗いているのではないかと思わせられる。精密で大胆な描写、その確かな実力を敢えて見せつけるでもなく淡々と想像を絶する着眼点で人の想いを世界の動きを表現する胆力。どれを取ってもこの人は天才だ。

そして何より、彼女は人の感情を論理的に描写できる数少ない作家だ。多くの作家は登場人物の激しい感情を描写する際に少し突拍子にも思える表現やセリフを言わせる。それは敢えて動的なリズムを文章に取り入れるという目的のものもあれば、作者の力量不足で止むを得ずそうなってしまっていることもある。

しかし、彼女の感情描写は驚く程滑らかに行われる。人の感情の揺蕩いの殆どは、突飛に見えどもそれなりの論理に基づいた波形の道程に過ぎない。桜が初春に蕾を蓄えやがて春には満開に、そして残花に侘しさを託して散りゆくが如く、人の感情の開花とはその足踏みから残心まで、前兆と余韻を持つものなのだ。感情、情景の機微をこれ程までになめらかに、鮮やかに、そして論理的に描ける作家はそうはいない。

その論理性にこそ騙された。彼女の描く論理の繊細さはややもすれば神経質にも思える類のものだ。神経質といえば男性、という僕の中に蔓延る一種の性差別が彼女に対する決めつけを起こした。性差別、ジェンダー差別、人種差別などクソ喰らえと公言している僕ですら、区別としての男女比較の範疇を超えた誤認をしていたというわけだ。

僕はショックだ。論理的で美しく整然とした文章を書く女性がいて何がおかしいというのだ。クソ食らうべきなのは僕の方だ。ちくしょう、差別的思想なんて捨て去ったと思ったのに社会は僕の無意識の部分にまで差別を植え付けている。跳ね除けてきた自信はあったのに、まったく敗北した。いつかこんな社会壊してやる