ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

「登れる山を登れ」と言った友人の話

 昔、登山を趣味にしている友人に尋ねたことがある。「やはりゆくゆくはエベレストやアンナプルナ、世界最高の山々を登りたいのか?」と。彼はすぐさま否定した。

「命懸けで登る山に登りたくはない。登れる山を登るのがいいのだ。」

 僕は登山をしたこともなく、登山をする意味さえよく分からない人間であるから、その場ではそういうものかと思い「ふーん」という微妙な相槌をうつことしか出来なかった。

 ここのところの季節外れの暑さのせいだろうか。今まさに北国の涼しさを過ごしているであろう彼を、ふと思い出した。

 よく知らないが、登山は計画と準備から始まると聞く。どの山にいつ登るか、当日の天気はどうか、自分の実力にあったコースはどれか、必要な装備は何か。彼によれば、この工程が登山の一番の醍醐味で、四六時中計画を考えているものだから天気が気になって眠れなくなることもしょっちゅうらしい。自らの目で選んだ装備に身を包み、休憩の際に食べる名産品入りの弁当を携え、いよいよ晴れて世界で最も素晴らしいその計画を実行する。その時にはもう緊張と不安、計画を実行に持っていけた満足感からさっさと帰りたい気持ちでいっぱいになってしまうとのこと。下山する頃には、もうクタクタにひん曲がってしまった、素晴らしかったはずの計画ごと全てを投げ棄てて、タクシー乗り場までどう這いずっていくかを真剣に考えたりもするという。それでも次の月にはまた計画を、それも今度は前回の記録を塗り替えて世界で最もゴージャスかつ美しい計画になると信じて企てているのだから、やはり山には僕のしらない魅力や魔力があるのか、それとも彼はどこかおかしいんだろう。

 そんな彼が「登れる山を登る」だなんて言うのだから、今思えばそれはずいぶん哲学めいた言葉に思える。彼は仕事というよりは彼自身の人生にこそ真摯に向き合っている人間で、結局仕事もそこそこのところで嫌気がさしたらしく辞めてしまった。辞めてどうするの、と詳しく話を聞くと嫁を連れて北にある故郷へ帰るんだと嬉しそうに語った。人間関係の難しい部署にいたとはいえあまりにあっさりと辞めていくものだから、東京からの撤退も北の山への再びの入山もまた、彼の勇敢なる計画のうちだったのかとさえ考えてしまう。果たして彼の眼に東京の山の頂は見えたのか、高すぎて彼に登れる山ではないと諦めたのか、それとも東京は彼にとって登るべき場所もないただの平野だと確かめてしまったのか。もしかすると単に東京近辺の山を登り尽くしてしまって、飽きがきてしまっただけなのかもしれないが。

 ともかく、彼の一言はなんとなく僕の心に刺さったままでいる。まるで持ち主のいなくなったピッケルのように、というのはいささかそれらしすぎるが、小さなピッケルが大きな雪崩や崩落を起こすこともあるというから、あながち変な話でもない。なんとなく、いつかそんなふうなことが起こる予感がしている。ろくに計画も立てない癖に、登れもしない山に憧れる。僕なんかは今までずっとそんな感じだ。いや実際、ほとんどの人がそうだと思っている。なにもやらないけれど、なにかやらなきゃって思う。

 僕がやらなきゃやらなきゃ、とただ焦りだけを積もらせていた三十年の間、果たして彼はいくつの素晴らしい計画を立てたのだろう。彼の、世界で最も素晴らしい計画はどんなに素晴らしいものになって、実際登った山はいくつになって、登れる山はどれだけ増えたのだろう。エベレストなんて怖くて登れないよ、すぐに死んじゃうよ、と笑っていた彼は、いつかエベレスト以外の山をすべて登り尽くしてしまうから、きっとそれまでで一番素晴らしいピカピカの計画を携えて、いつものようにエベレストも登りきってしまうんだろう。帰りはタクシーに乗ってしまうかもしれないけれど、またすぐもっと魅力のある前人未踏かなにかの山を探して、ウキウキしながら計画を立て始めるんだろうな。いつか、ついていきたいな。

そして再び大地に立った

フリーランスを一時卒業しました

一年ほどフリーランスエンジニアとして商売をしてきて、気がつけばいつの間にかまた正社員になっていた。これからも場当たりで生きていきたい。ちなみにこの'いきたい'は'生きて'にかかるのではなく'場当たりで'にかかる。相変わらず日本語は難しい。

成り行きでフリーランスを卒業することとなった。別にコロナで案件がなかったわけでも、フリーランスやっていけないわーという感じもなかった。成り行きというと何か特別なことがあったかのように聞こえるが、顛末はしょうもない。遥か昔に登録した転職アプリを誤タップで起動したところ、どうやらアクティブユーザだと判定されたようでスカウトが大量に飛んでくるようになった。そのうちのいくつかを気まぐれで受けてみたところいい感じに内定を頂けて、じゃあ働いてみるかーといった軽い感じで正社員に戻ったのである。この軽い感じはフリーランスの経験が活きているように思う。働く場所や人間関係を転々とすることに少なからず慣れたし、ダメだったら別にいつでもやめちゃえばいいしなあという気持ちがあった。とはいえ今はなんだかんだ責任感をある程度持ってやれている。

正社員に戻ったとは言っても、廃業届を出した訳でもないのでフリーランスを完全に卒業したわけではない。大地に立ったとはいえ少し浮いている状態みたいな。

ところで目からビーム出すより指からビーム出す方が気持ちいい

目からビーム出すより指から出す方が気持ちいいと本当に思った。

目からビームが出るとして、やっぱり気になっちゃうのは自分の出したビームがもたらす破壊をちゃんと観測できるのかってこと。仮にそのビームが破壊でなく治す感じのビームだとしても同じ。目からビームを出してる状態って、流派がたくさんあるからここで細かくは定義しないけど多分全体的に眩しいじゃん。目の前で、なんなら目の中ですごい光が出ているわけだからそれはもう眩しくて出してる自分は正直よく分かんないと思うの。それってもったいないよ、せっかくビームが出せるんだからその成果もちゃんと知りたい。お仕事で言う目標を立ててちゃんと振り返りをしようとかはどうでもいいんだけど、ビーム出せるなら確かにちゃんと見たくない?

目から出すビームももちろんいいもんだと思う。頭から直接エネルギーを出すのは絶対気持ち良いもんね。頭蓋骨に穴を空けるトレパネーションって手術があるって聞いたし、それをするとバッキバキにキマるって昔x51.orgで読んだ。脳味噌が豆腐だとして、その周りに水があるとして、その水を冷たいものに差し替えたら脳味噌キーンとして意識が冴えわたりそうだよね。危ないクスリみたいに他に替えがたい気持ちよさがありそう。そのうちビームを撃つことが目的になって、電車に乗ったり仕事をしてる時もあーそろそろビーム撃ちてえ、どっかで撃っちゃおうかなあってずっと考えちゃいそう。それって最初にやりたかったビーム像とはなんか違ってきちゃわない?

だからやっぱり指から出るビームの方がビームとしての総合点では気持ちいいと思う。悪人をこらしめたり人々に向かって倒壊するビルを粉々にしてステイツを救ったりさ、そういうのってやっぱり生で見られる機会なんてなかなかないし、ましてや自分がそれをする瞬間なんて、絶対見逃したくない思うんだよね。あっ悪人だ、ビーム狙っちゃうぞー、ビーム出たなー、ビーム悪人に届いたなー、悪人がゲル状になったなーとか一瞬一瞬をやっぱり鮮明に見たい。結果だけドン!だと正直それ本当に自分がやったのかよくわからなくなりそうで100%ウオォってなれなくない?ちゃんと見てないと悪人が思ったより動き速くて後ろの人質にあたっちゃうとかそういう不慮の事故に対する心構えも変わってくるし。

そんなわけでビームは目から出すより指から出す方気持ちよさそうだなーって思って、これって人生において本当に大切だなって感じる。

シャーデンフロイデとサウダージ、または酸っぱい葡萄

Wikipediaを特集した番組を見た。マツコデラックスさんがマニアックなゲストから独特な世界を紹介される例の番組。ゲストはWikipedianと呼ばれるWikiの制作編集者だった。彼らはボランティアで記事を書いているとのことで、学生時代から度々お世話になっている身としては頭が上がらない思いだ。

システムエンジニアとして働き始めてからも利用頻度は落ちていない。むしろ増えている可能性もある。システム関連の言葉の定義や歴史を調べる時に重宝する。またちょっと変わった用途としては、今流行りのAIに文章や単語を学習させる際の辞書や教師として使うこともある。当たり前のことだが、調べ物としてだけではなく単純に読み物として面白い記事も山ほどある。眠れない夜を何度もWikipediaに救ってもらった僕としては、番組を見たからという短絡的なきっかけになってしまうのが心苦しいけれども、とにかく今後とも一層の発展をお祈りしたい。

先日とあるwebサービスのプログラムを書いていた際に、やはりWikipediaにお世話になった。具体的には「感情を表す単語」をいくつか集めなくてはならなくなったのだが、流石のWikipedia。「感情 一覧」と検索をしてすぐ、まさしくぴったりなページを見つけた。

感情の一覧 - Wikipedia

ああ、こんなにも興味深い単語一覧が未だかつてあっただろうか。僕は思わずプログラムを投げ出してそれぞれの記事を読み耽ってしまった。

特に面白いと感じたのは「シャーデンフロイデ」と「サウダージ」だ。30年ほど生きてきた中で当然人並みにたくさんの感情を抱えてきたつもりだったのだが、まさかこの一覧に一度も使ったことのない言葉があるとは思っていなかった。

シャーデンフロイデ」は「ざまあみろ」というようなもので、ネットスラングで言う「メシウマ」的な感情のことだと理解しやすい。

しかしサウダージの方は難しい。難しいからこそ興味深い。なんとなくポルノグラフィティの曲にそんな歌があったような気がするけど、歌詞までは思い出せない。

なんでも、郷愁だとか憧憬だとか、諦念だとか切なさだとかを混ぜ込んだような感情らしい。感情を表す言葉にとても似合った曖昧で微妙な意味合いだ。難しさの一方で、何か共感しやすい雰囲気も感じられる。自転車に乗りながら楽しそうにしている学生達を見た瞬間胸に浮かぶ、特に夏の夕暮れ時に多いあのモヤっとした感情のことなのだろうか。ひとはこの気持ちをサウダージと呼ぶのか。この歳にして自分の感情の名前を新たに知るとは、なにか胸にくるものがある。これは多分サウダージじゃない。もう少し無学に対する後悔とか直接的な切なさが刺さってるってわかる。微妙さのかけらもないくらいハッキリ痛いぜ。

それぞれの感情についてしばらく読んでいると、いつのまにかリンクをたどって「酸っぱい葡萄」という寓話について読んでいた。これもWikipediaの面白いところだ。リンクをたどって無限に読めてしまう。

酸っぱい葡萄を簡単に説明すると、手の届かない高さにある葡萄に「どうせあんな葡萄はまずい」と吐き捨てる愚かな狐の話である。なんとも説教めいた話で、これまた僕の心の真ん中にグサグサと刺さる。届かないものに対する憧れや持つ者に対する嫉妬を認められず、そのものを悪く言うことで自己防衛して安心しようという浅はかさ。情報が氾濫しているネット社会ではやってしまいがちなことだなあ。ぐうの音も出ない。

いやはやまさかこの歳でお伽話から教訓を得ようとは、中々人間完成しないものだ。前向きに考えれば、これからもたくさんのことを知ることができるし、子供めいた話から大切な生き方を学ぶことができる素直さが僕に残っているともいえる。

シャーデンフロイデと酸っぱい葡萄、どちらもやりがちで、短期的な気持ち良さはあっても人生にとってはよくないね。これからは一層何かを悪く言わず、人を傷付けないように気をつけて生きていこう。サウダージという感情も知れたし、まだまだいろいろなことを知る楽しみを失くさずにいこう。

フリーランスになって知ったこと。そして僕は星になりたいと思った。

泥臭さが必要

去年会社を辞めてから、フリーランスとして細々と仕事をしている。フリーランスと言えば聞こえはいいかもしれないが、潤沢な案件在庫から技術的にチャレンジングなものを選んでカフェでササっとコードを書く、というようなスマートな働き方というわけではない。

自分から案件を探すこともなくはないが、基本的には知人や友人から紹介されたお仕事をありがたく頂戴する形がほとんどだ。それは僕が案件獲得のためにあまり積極的に動けていないというのもあるが、案件を獲得する工程の大変さを思えばそれも仕方のないことかと思う。

クラウドソーシングサービスなどから自分が出来そうな案件を探しても、当然すぐに「じゃあお願いします」となるわけではない。多くの案件がコンペ式となっており「僕ならいくらいくらでこう実装できます!実績はこんなにあります!」というようなアッピールをいちいち考えなければならない。そして当然受注できなければその作業間の時給は発生しないため、タダ働きの時間となってしまう。よしんば仕事を取れたとしても、案件獲得までにかけた時間が多過ぎれば時給は当然下がる。ヘタをすれば高校生のバイトよりも低い時給で労働を行わなければならない状況も珍しいことではない。

となれば、なるべく効率的に案件獲得作業を行うために提案をテンプレート化するなんて誰もが思いつくことかと思う。しかし実際それもなかなか一筋縄ではいかない。なにしろクライアント側のリテラシーや相場観は驚くほどにバラバラで、同じ予算の中でも求められる仕事の範囲とクオリティに大きな違いがあるなんてのはままあることなのだ。

開発案件の相場

実際のところ、IT系案件の相場なんて「言い値」でしかない。案件を投げる側と受ける側のリテラシーや経験によって大きく上下することは言うまでもない。全てのクライアントと受注側が「何日かかるから時給いくらで計算して総額いくら」と正確に判断できるわけではないのだ。となれば彼らや僕らが頼りにするのは結局「前はこれくらいでできた」だとか「今はこれくらいしか出せない」だとか「今回は安くするから継続的に仕事が欲しい」だとか普遍性のない各々の思惑しかない。当然それが悪いというわけではないが、安定した金額感なんてものが存在しない理由はこれで十分に説明できるだろう。

常識は常識に非ず

クライアントの「常識」に振り回されることも多々ある。例えば簡単なページのコーディング一つとっても、画像素材の渡し方、独自コーディング規約の厳守、仕様書の提出、SEO対策としてのaltタグ埋め、ブレイクポイントの指示など、事前に説明のないものを「それ位は常識」という意識で付加される。流石にhtmlやcssのコーディングに仕様書を求められた時は「特筆すべきことはない」と断ったが、動的な要素も特にないページの仕様書とは、一体何を書けばよかったのか、そして何にいつその仕様書を使うつもりだったのか未だに疑問だ。しかし、恐らくクライアントにとっては「納品物」といえばその仕様書も付いてくるのが常識だったのだろう。

簡単に思える「画像素材の渡し方」でさえも個人で活動する上ではかなり大きな不安要素となる。pngで貰えると思っていたところ、超巨大なpsd(フォトショップデータ)が送られてきたことがある。僕としてはpsdの方が扱いやすいのでさほど問題はないのだが、フォトショップを持っていない場合は依頼主に画像化を頼むか自費で買うかしかない。嫌な顔をされながらも必死にどうにか画像化を頼めたとしても、モノに余計なレイヤーが含まれていたりサイズが合わなかったりと、結局何度もお互いの常識をすり合わせながらやりとりをする必要が出てくる。

「常識」のやっかいなところはほとんどの場合それを持つ組織や個人の経験によって無意識的に確立されている点である。そして対外的な明文化がなされていないという側面も付随する。僕らはどうにか互いに不可視の「常識」を明らかにし、整理整頓して気持ちよく合意する段階まで持っていかなければならない。契約してから、または納品してから「なんか思ってたのと違う」的最低な状況に陥らないためにも、なんとかして契約する前に仕事の前提や成果物足り得る条件をクリアにする必要がある。このあたりは要求/要件定義のプロセスにも通ずる。

僕がソフトウェア開発について学んでいること - ここはクソみたいなインターネッツですね

「仕事を始められる状況」に達することさえこんなにも困難なのだから、仕事を始めればより大きな困難が立ちはだかることは必然と言える。フリーランスの開発案件には「常識」という言葉に包まれた人的、社会的な不確実性がそこかしこに潜んでいるのだ。

そして僕は星になりたいと思った。

このような悩みをフリーランス全員が抱えているわけでは当然ないし、逆にサラリーマン全員が悩んでいないというわけでもない。

しかしやはり、サラリーマンであることの優位性は大きいと感じる。世間的によくない言い方に聞こえてしまうかもしれないが「居るだけでお金をもらえる」という安心感は確かにあり、何ものにも代えがたいものだ。僕の場合はその「居る」こと自体に困難や苦痛があったりするから難しい話になってしまうのだが、普通の人、つまり繰り返し同じ時間に起きて同じ場所に行くことができるまともな人であれば雇われ身分の方がずっと楽だと思う。そんなことを考えていたら、僕はやはりなるべく早く星になりたい、スターではなく星に。と思った。

カムパネルラとジョン・タイター

 ある友人が「向上心と覚悟の経験がある人がいい」と言った。僕はそれに対し「俺には向上心はないが覚悟はあるぜ」と何の気なしに絡んでみたのだが、その返答として友人から鋭い批判が飛んできてギクッとした。

前に進む覚悟がいいよね、マイナスの覚悟は諦めだから。

 この言葉が僕に対する批判だったのか、友人の独り言だったのかは分からない。もしかするとただ反射的に出てきた言葉なのかもしれない。しかしなんにせよ、僕はその友人について、本当に僕のことをよく理解してくれている人だと感じ入ってしまった。まさしく僕のダメなところを的確に指摘してくれていて、辛辣ながらも深く刺さる至言だ。大人になって、こんなに暴力的でありながら正しく真っ直ぐな批判を突きつけられることはない。懐かしくも新鮮な感覚だ。

 友人の言う通り、僕は前に進めていない。いつからか歳を表す数字に置き去りにされて、果たして時間が進んでいるのかはたまた僕が戻っているのかさえわからなくなった。

 昔、腰を痛めていた頃、僕は痛みから足を引きずって歩いていた。そしていま、僕はまた別の怪我により足を引きずっている。よりによってそんなところまで過去に戻らなくてもいいのにね、なんと気の利かない舞台設定だろう。かと思えば、聞くところによると世間では宇宙旅行なんていう夢物語が現実として受け入れられ始めているらしい。進めずに戻りつづけてきた僕は、どうやら思ったよりもずっと未来に来てしまったようだ。その友人はどうなんだろうか。僕とは違い、確かな一日を毎日過ごしているのだろうか。そう何もかもがうまくいくわけはないけれど、きっと僕よりずっと先にいるんだろうし、いてほしい。

 せっかくそんなことを言われたのだし、こんなに足もいたいのだから、僕もそろそろ生き樣を変えることにした。生き樣を変えるといっても、まずは身の回りか環境を変えるくらいの小さい変化になってしまうことはどうか君許してくれ給へ。ここが本当に宇宙にいけるような未来であるならば、僕が想像できる程度の平凡な生き樣くらい無数にあって当たり前だろう。さしあたり、僕はいま僕が最も僕を進ませないようにしていることだと感じる労働の部分を変革する。労働による暮らしの制約を一つ一つ解放していくと僕は決意した。前には進めなくとも、せめて横っ飛びくらいはしてみたいものだ。いい機会になった、至言をありがとう。

君にパッションはあるか?

正義っぽさが恥ずかしい

 パッション、という言葉を聞く度に、何か胸やけをするような感覚があった。それを持っているのはまさしく正義であり、それを持たないのはすなわち悪である、という何かぼんやりとした押し付けがましさを僕の嗅覚が訴えていた。他にも努力、根性、使命、やりがい、生きがい。これらもパッションと同様の香りがする言葉だ。なんというかこう、正義っぽいものを名乗る恥ずかしさというか、ついつい「巨人の星じゃないんだから」と揶揄したくなるような、そんなものを感じる。自身をそのようなものとは程遠い人間だと思っていたし、ンーンー言いながら自身の胸を殴るパッション何某さんをみて、なんとなくパッションというものから距離を取りたくなっていたところもあるかもしれない。

 しかし先日、ある先輩の「パッションという言葉は狂気とも言い換えられる」という話をきいて、何か違った視点を持てるようになった。なるほど、狂気。それなら僕にもあっていいかもしれない。なんだか暑苦しくなくて、恥ずかしくない気がする。正義のヒーローは恥ずかしいけれど、狂気のマッドサイエンティストはかっこいい。ならば探し当ててみせよう僕の中のパッションをということで、すこし考えてみることとする。

"はんたい"を考える

 何かを考えるとき、とても便利な方法が一つある。「"はんたい"を考える」という方法だ。とても簡単な割に効果が高いので、僕はこの方法を好んで使う。ソシュールさんやロランバルトさん、いわゆる記号学記号論と呼ばれるような、とても小難しい講義から僕が得た唯一の獲物だ。ラング、パロールシニフィエシニフィアンなんて言葉は僕には難し過ぎたけれど、この考え方だけは学べた。あの神経質でやっかいな試験問題を出す教授の講義を気まぐれに受けてよかった。

 "はんたい"の例を出そう。今日たまたま「漠然とした不安がある」という個人的な相談を受けたり投げかけたりしたので、改めてそれを考えてみたい。

 この方法を使うときのコツは、文字通り"はんたい"を思い浮かべるだけでいい。辞書をひいて正しい対義語を調べる必要はない。自分の言葉で「"はんたい"っぽい言葉」を並べてみるのだ。そこでいうと今回のテーマは面白い。「漠然とした」という言葉や「不安がある」という、はんたいを見つけやすい言葉が複数ある。僕の思う「漠然とした」のはんたいは「明確な」「具体的な」というような言葉だ。そして「不安がある」のはんたいは「安心感がある」と、前半を入れ替えることも出来るし、「不安がない」というように後半をはんたいにすることもできる。では、これらの言葉をそれぞれ組み合わせて使ってみるとする。

明確な安心感がある

具体的な不安がない

組み合わせはいくつかできるであろうが、的を射ていそうなものはこのあたりだろう。ここで翻って元の文章を見てみたい。

漠然とした不安がある

こうして並べてみると、「明確な安心感がある」というのはベクトルや正負が真逆というか、まさにはんたいに進んだ文章になっている。対して「具体的な不安がない」でははんたいではあるけれどもゼロに近い状態、フラットな印象を覚える。なんとなく"はんたい"の言葉を並べて繋げてみたけれど、しかし出来上がった文章の意味が少し違うのが分かるだろうか。

 こうして考えることで、元の文章、つまりは「課題」が解決されている状態を微妙に違う複数のものとして捉えられる。不安を解消すること、安心感を与えること、大きく分けてこの二つの対処法があることがわかるだろう。当然不安を解消すれば自然と安心感が湧いてくることもあるかもしれないし、別の安心感があれば不安なことも減るかもしれない。二つは決して独立したものではないけれど、少なくとも必ずしも同一というわけではないということを認識しよう。

 僕は「漠然とした不安がある」という相談をもらった時、反射でどういった不安なのか探ろうとしてしまった。瞬時に"はんたい"を考えるほど僕の頭の回転は速くなく、どうにか「こうすればいいだろう」という予想を立てて行動を開始してしまったのだ。このように、我々はすぐに「解決された状態」を想像してその方向へ歩き出そうとしてしまう。しかしゆっくりとモノを考えれば「漠然とした不安がある」という少ない情報からでも行動の選択肢を作り出せることを忘れないようにしたい。相手が求めているものが何なのか、伝えられたメッセージはどういう意味なのか、時間をとってでも真剣に考えるように心掛けたい。

 この"はんたい"の話をするときによく用いるのが、日本仕事百貨というサイトのキャッチコピーだ。

日本仕事百貨

生きるように働く

 とてもいい言葉であるのは確かだが、初めてこのコピーを読んだときはよく意味がわからなかった。しかし、この"はんたい"を使うとどうだろう。僕は、この言葉の反対は「死ぬように働く」だと思う。こうするととてもわかりやすい。はんたいの言葉を考えたからこそ、僕はこのコピーに込められた想いに気付けたのだ。

パッションの"はんたい"

 では、パッションの話に戻ろう。なんとなく正義っぽい印象を受けるこの言葉。この言葉のはんたいを考えよう。果たして僕にパッションがあるのかないのか、あるいはその二元論で語るべきことではないのか。

 僕はカタカナ語が苦手なので、まずは日本語に置きかえる。冒頭に話した先輩は、パッションは狂気とも言い換えられるとしていた。ならば、狂気のはんたいを考えればいい。狂気のはんたいで思いつく言葉は正気、正常という感じだろうか。パッションは正義っぽい言葉なのに、狂気のはんたいもやや正義っぽい言葉が出てくる。これらの言葉を自分に当てはめれば、僕は僕を誰よりも正常であるとは到底思えなく、またこんなにも辛いのが正気であると信じたくもない。今のところ正しさとは距離を置いておこう。

 まだ掘り下げたりない気がするので、狂気のなかまを考えよう。偏執、偏愛、猟奇なんかだろうか。それの反対はなんだろう。普通、無興味、無愛なんかだろうか。こちらは対義語らしい対義語が出しづらい。比較的フラットな言葉が自然に出てくる。これらはどうだろうか。僕は普通で無興味で無愛な人間か。いや、なんとなくそもそもそれらが並ぶのも何か変な感じがする。普通の人間が無興味であるとも僕には思えない。そして自分のことを、普通より多少は独特であると表現したい。何より、興味もなければこんなことをこねくり回して考えてはいないだろう。であるならば、僕は偏執の側に立つこととなる。

 狂気のはんたいとは距離が遠くて、狂気のなかまと距離が近い。ここまで考えれば、さすがになんとなくわかってくる。おそらく僕に狂気はあるだろう。それがここまでしつこくこだわる言葉に対する偏執といえるものなのか、ここまで怠惰に語る自分に対する偏愛なのかはわからない。あるいは世界に対する猟奇的な思いなのか、僕は知ることができない。

 そして、パッションが狂気と言い換えられるという話が本当のことだと思えるのなら、ようやく僕は僕にパッションがあると理解できる。本当は、パッションなんてものは正義の言葉でもなんでもなく、むしろそのはんたいに位置する言葉であると理解できる。なぜ僕がパッションという言葉に正義性を感じていたのか、今もどこか自分にパッションがあると認めづらいのか、これはなんとなくわかる。一般的にパッションという言葉がきれいな文脈で使われ過ぎているから拒絶感があるのだ。パッションがあるからここまで来られた、パッションがあるとこんなに頑張れる、パッションを持った仲間と繋がる。これらを全て狂気と置き換えてみればよくわかる。狂人が偏執さを隠さず群れて勝利を得ること、それを綺麗に言っているだけなんだ。狂気だと聞こえが悪いから情熱やパッションという言葉に変換しているんだ。彼らは元はどちらかといえば悪者なんだ。悪者が、勝利した結果を正義っぽく語っているだけなんだ。

 僕にはまだ正義は恥ずかしい。だからこそ彼らがなぜそのようなことをするのかわからないし、気持ち悪さを感じる。よくわからないが恐らく僕と同類なのに、なぜか彼らは正義のヒーローのように振る舞う。嫌だなあ、いつかは僕も、正義のヒーローになってしまうんだろうか。

 君にパッションはあるか?  僕にはどうやらあるらしい。

パッション [DVD]

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労働と人材3.0

前段

 新卒の方のメンター(トレーナー)として半年間後輩指導をし、またプライベートではボランティア活動としてプログラミング講座を開催してきた経験から、労働と教育、ひいては人材について語りたい。

1.0時代

 昭和の時代、もっともっと体育会系の企業が多かった時代。当時は体罰パワハラモラハラなどよく見られる時代であったことは今更いうまでもないことである。

 しかし当然、この手法の全てが失敗であったわけではない。それは特に高度経済成長期において、努力の量と成果が直結しやすい土壌が存在したからそう言えるのである。そして、この指導方法により育まれた優秀な新人達は、圧倒的成果を残していった。すると、その指導方法の正当性が補強されることになる。優秀な彼らをモデルケースとし、それらの教育方法は企業における文化となり綿々と継承されていった。自分もそのように育てられ、これまでうまくいってきたのだからそのような教育を為す。とても自然な論理であると思う。

 ハラスメントや過労、サービス残業の強制など基本的人権の侵害の擁護する気は塵ほどもないが、しかし当時の社会情勢にある種「イケイケ感」があったことは想像に容易い。辛いけれど、頑張った分だけ見返りがある。そう信じられる社会情勢であったのだ。飴と鞭。馬を打つような非常に痛い鞭を打たれる一方で、ヴェルダースオリジナルのようなとてもおいしい飴が目の前にぶら下げられていたというわけだ。

 充分に甘い飴と現在の常識に即した鞭を用意できるのであれば、この手法は優れた人材育成のプラクティスとなるだろう。しかしこの手法の最も難しい点は、指導者となる人間の属人性が高まりすぎる点である。飴と鞭を使い分けるバランス感覚は一朝一夕に身につくものではなく、能力と経験が不十分な人間を指導者とするにはリスクが高い。実際にこの1.0時代の手法をモデルに人材育成を成そうとするのであれば、それを成し得る人材、指導者足り得る人間を教育ないし用意する必要がある。

労働と人材2.0

 次に生まれたのが労働と人材2.0とでも呼ばれるべきものであると私は考える。少々領域はズレてしまうが、ゆとり教育のようなイメージに近い。

 1.0の旧時代的なやり方への反発、人権侵害、犯罪の表面化からこのようなものが生まれてきたのであると私は考えている。加えていえば、ホワイトカラーが増え、ホワイトカラー・エグゼンプション領域のような「各個人の生産性の違い」という議論が熱を持ったことにも因果関係はある。

 社会の相互監視機能が向上し、国民の平均的知性も向上した。すると前時代的な教育手法をそのまま流用することは出来なくなってきた。労働者は労働者としての権利を認識し、自衛のための主張をすることは決して常識外れの異端的行為ではなくなった。そして企業側で言えば、多くの企業は公器としての責任を強く請求されるようになった。1.0でのやり方でいう飴も質の良いものを用意することが難しくなり、より企業はがんじがらめの状況に陥っていると言えるだろう。

 現在管理職についているであろう40〜50代の方々はまさにこの変遷の渦中におられるのである。その困惑と途方のなさには非常に共感を覚える。サイボウズ社やその他働き方改革、HR改革を建前上でなく本気で成そうとしている各企業はこの問題と真っ向から戦おうとしている尊い存在である。私は内部事情は知らないけれど、すくなくともサイボウズ青野社長の発言を見る限り、働き方に対する本気度を感じ取った。

サイボウズ社長の青野慶久が官僚を一喝した本当の理由 | サイボウズ式

 話は変わるが、私はここまで敢えて働き方の話と人材育成の話を混在させてきた。なぜなら私の結論は、労働とは人と人とのコミュニケーションによる生産、またそれが内包する人類の社会性内面化作用を指すと考えているからである。この労働と人材2.0時代がもう少し成熟すれば、労働やコミュニケーションに即殺されてしまう新卒や人生を終わらせてしまうような方は減っていくように思う。希望的な観測ではあれど、私はそれを信じたい。

労働3.0

 私はフリーランスになれとか副業をしろとかそういったことを言いたいのではない。残念ながら今もまだ1.0の時代から継承され、さらに2.0で複雑化した労働と人材に関する義務と権利のスパイラル構造、それを今一度見つめ直す時代が到来しつつあるのではないか。そのような一石にもならない礫を投じているつもりだ。

 大の大人が涙を流し、嗚咽を漏らしながら毎朝定刻に満員電車に揺られることは本当に必要なことなのか、それはルールとしてあるべきなのか。それで心を壊したら誰が責任をとれるというのか。結局のところ自己責任であるというのなら、私があなたの息子に同じ扱いをしてみせたとして、それでも同じことが言えるだろうか。

 逆に言えば、権利ばかり主張して利益をもたらさない労働者など企業が守ってやる必要などない。会社はなかなか人をクビにできないという。そのルールは本当に必要なのか。毎朝定刻に出社するとがそんなにも重要で、欠かせないルールであると心底思っているのなら、それが守れない社員などクビにしてしまえばいいのではないか。現状では中々それは難しいことであると理解している。しかしそれももう、時代遅れの悪法とさえなっている面もあるのではないだろうか。労働、それにまつわる社会は今、新しい時代を迎えるべきように思う。

人材3.0

 もっとも語りたいことはこの点。

 私はそもそもヒューマンリソース、という言葉をあまり好かない。人が資源であることは一定は認めるし、人材、という言葉も常用する。しかしこれらの言葉からは何か無機質な印象を受ける。

 生命というものの尊さを語るつもりなどないが、しかし数値で表されるには生命があまりに崇高であることに疑念はない。現在私は「人を育てる」という立場の仕事を任されている。けれど、私は「育て」ているつもりなど毛頭ない。共に働き、時間を共有しているという認識にすぎない。人はどこまでいっても個人であり、個人はどこまでいっても他人を理解することはできない。生命の特異性、言い換えれば崇高さと独立性がこの問題を非常に難しくしている。一人の人間が救える人はあまりにも少なく、あなたは誰かの人生の責任を100%負うことはできない。万人は平等であり、差異があるとすればその場その場の役割の違いにすぎない。たとえあなたの子供であれど、その子は決してあなたの作品ではない。彼の人生や心をデザインはできない。私はこのような理念のもとで、私は教える側の役割として教わる側の方々と共生している。その間に上下関係を産むことのないよう常に意識して人々に接している。

 時代の変遷により、今を生きる人々が「飴」と感じるものも変化しつつある。それは現金である場合もあるし、彼ら自身の成長である場合もある。何に対して魅力を感じるか、ひいては何を人生の軸に置く人間なのか、社会の多様性の広がりとともにこれらは無限に拡散しているように感じる。

 であるからこそ、企業は1.0のやり方では有効であったはずの「魅力的な飴」を用意することが非常に難しくなって来ている。そんな彼らの成長を手助けしたいというのであれば、まずは彼らの求める飴の全体像を把握するか、そもそも飴以外で彼らのモチベーションと成長促進を促す方法を模索するしかない。自由と束縛、そのような概念の彼岸となる新たな概念を獲得し、人と人としての向かい合い、擦り合わせ、コミュニケーションを我々は取らなければならない。