ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

「登れる山を登れ」と言った友人の話

 昔、登山を趣味にしている友人に尋ねたことがある。「やはりゆくゆくはエベレストやアンナプルナ、世界最高の山々を登りたいのか?」と。彼はすぐさま否定した。

「命懸けで登る山に登りたくはない。登れる山を登るのがいいのだ。」

 僕は登山をしたこともなく、登山をする意味さえよく分からない人間であるから、その場ではそういうものかと思い「ふーん」という微妙な相槌をうつことしか出来なかった。

 ここのところの季節外れの暑さのせいだろうか。今まさに北国の涼しさを過ごしているであろう彼を、ふと思い出した。

 よく知らないが、登山は計画と準備から始まると聞く。どの山にいつ登るか、当日の天気はどうか、自分の実力にあったコースはどれか、必要な装備は何か。彼によれば、この工程が登山の一番の醍醐味で、四六時中計画を考えているものだから天気が気になって眠れなくなることもしょっちゅうらしい。自らの目で選んだ装備に身を包み、休憩の際に食べる名産品入りの弁当を携え、いよいよ晴れて世界で最も素晴らしいその計画を実行する。その時にはもう緊張と不安、計画を実行に持っていけた満足感からさっさと帰りたい気持ちでいっぱいになってしまうとのこと。下山する頃には、もうクタクタにひん曲がってしまった、素晴らしかったはずの計画ごと全てを投げ棄てて、タクシー乗り場までどう這いずっていくかを真剣に考えたりもするという。それでも次の月にはまた計画を、それも今度は前回の記録を塗り替えて世界で最もゴージャスかつ美しい計画になると信じて企てているのだから、やはり山には僕のしらない魅力や魔力があるのか、それとも彼はどこかおかしいんだろう。

 そんな彼が「登れる山を登る」だなんて言うのだから、今思えばそれはずいぶん哲学めいた言葉に思える。彼は仕事というよりは彼自身の人生にこそ真摯に向き合っている人間で、結局仕事もそこそこのところで嫌気がさしたらしく辞めてしまった。辞めてどうするの、と詳しく話を聞くと嫁を連れて北にある故郷へ帰るんだと嬉しそうに語った。人間関係の難しい部署にいたとはいえあまりにあっさりと辞めていくものだから、東京からの撤退も北の山への再びの入山もまた、彼の勇敢なる計画のうちだったのかとさえ考えてしまう。果たして彼の眼に東京の山の頂は見えたのか、高すぎて彼に登れる山ではないと諦めたのか、それとも東京は彼にとって登るべき場所もないただの平野だと確かめてしまったのか。もしかすると単に東京近辺の山を登り尽くしてしまって、飽きがきてしまっただけなのかもしれないが。

 ともかく、彼の一言はなんとなく僕の心に刺さったままでいる。まるで持ち主のいなくなったピッケルのように、というのはいささかそれらしすぎるが、小さなピッケルが大きな雪崩や崩落を起こすこともあるというから、あながち変な話でもない。なんとなく、いつかそんなふうなことが起こる予感がしている。ろくに計画も立てない癖に、登れもしない山に憧れる。僕なんかは今までずっとそんな感じだ。いや実際、ほとんどの人がそうだと思っている。なにもやらないけれど、なにかやらなきゃって思う。

 僕がやらなきゃやらなきゃ、とただ焦りだけを積もらせていた三十年の間、果たして彼はいくつの素晴らしい計画を立てたのだろう。彼の、世界で最も素晴らしい計画はどんなに素晴らしいものになって、実際登った山はいくつになって、登れる山はどれだけ増えたのだろう。エベレストなんて怖くて登れないよ、すぐに死んじゃうよ、と笑っていた彼は、いつかエベレスト以外の山をすべて登り尽くしてしまうから、きっとそれまでで一番素晴らしいピカピカの計画を携えて、いつものようにエベレストも登りきってしまうんだろう。帰りはタクシーに乗ってしまうかもしれないけれど、またすぐもっと魅力のある前人未踏かなにかの山を探して、ウキウキしながら計画を立て始めるんだろうな。いつか、ついていきたいな。