ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

夢の中における自身の精神年齢について納得と感動したこと

専攻していたわけではないが、人格についての哲学的な論を昔調べたことがある。 ロック、シューメイカー、スウィンバーン、パーフィット、ウィリアムズといったそれぞれ著名な哲学者らが、人格の同一性は何によって判断できるか、ということをひたすらにこねくり回していた。あるものは記憶に依拠するとし、あるものは脳ではなく魂に依拠するとし、あるものは身体的同一性に依拠すると主張していた。彼らの主張の詳細は覚えていないが、やはりその中でも記憶に依拠しているという説が有力そうだ、と思った話がしたい。

ここ一週間ほど、たくさんの夢を見た。

一つは、学生時代の友人である男性と私、そして顔の見えない女性二人で旅行をする夢だった。お互いにそれなりに関わりのある顔見知りであるような雰囲気だった。

宿についたあたりから夢が始まる。どこか見たことのあるような構造の旅館に辿り着き、友人が男女ペアで部屋割りをしようと冗談を言う。どうやら友人は私と同行女性の一人をくっつけようと色々と気を回してくれているようだった。しかし私は同行女性らを何故だか少し嫌っていて、やんややんやする友人に対しありがた迷惑だと曖昧な表情を作っていた。とはいえ夢が進むにつれ、内心ではだんだんと満更でもなくなってきていたように思う。場面が転換して、おそらく夜の飲み会のような場になる。酔った勢いなのか煮え切らない私に思うところがあったのか、友人はしつこく私とくっつけようとしていた女性とお互いベロベロになってキスをしていた。夢の中の私はそのシーンを見たとき、とても言葉では表現できない複雑な感情を覚えた。さっきまであんなにけしかけてきていたのに、という驚きと裏切られたような悲しい気持ち、嫌いな女性と仲の良い友人がそんなことになっている落胆や止めたい気持ち、自分のことながら理不尽に思える不可解な怒りと薄い嫉妬、ただ単純な敗北感。なんというかこう、全体的に青臭いごちゃ混ぜな感情が確かにそこにあった。

この夢はそこで終わる。目を覚ましてからもしばらく、胸の奥底にその感情の余韻を感じた。目覚めのコーヒーを飲むとようやく頭も起き始め、同時にその余韻も薄れていった。代わりになんだかこう、懐かしいな、という気持ちが溢れてきた。しばらく会っていない友人や学生時代の雰囲気や散りばめられた記憶というよりも、夢の中の私自身が持ったそういった青臭い感情自体がとても懐かしく思えた。そんなことを思う、そんな風に感じる時もあったなとノスタルジックな気持ちになった。一方で、今そういったことが起きても、全く同じ感情は持てないのだろうとも思った。

夢の中の私は、今の私とは年齢が違った。恐らく高校生か大学生くらいまでの記憶は同じものを持っていたと思うのだが、社会に出てからの辛い気持ちや傷付いたり傷付けたりといった様々な経験、その記憶を彼は持っていなかった。今の私ならそもそも嫌いな女性と旅行には行かないし、件のシーンを見たとしても、合意の上うまくやりなさい、とただただ席を外して一人タバコを吸いにいくくらいだと思う。多少の驚きとおいおいという気持ちはあれど、少なくとも友人に対して裏切られたとかそういった風には感じない。ただ確かに、あのくらいの時期の私であればあんな感情になるだろうな、なっていたんだろうな、と思う。

二つ目の夢は、中学生くらいの記憶をごちゃ混ぜにした夢だった。当時の私は宿題や提出物を面倒がって全く出さなかったため、内申点が非常に悪かった。母親と先生と私の三者面談の帰り、内申点の評価からガックリと肩を落とした母親のせめてもの慰めにとシクラメンの鉢植えをプレゼントした事実ベースの出来事から夢が始まる。母親にそのシクラメンをプレゼントしたところ、私のせいでショックを受けたはずの母親は、それでもとても嬉しそうにその鉢植えを受け取った。うわあきれい、と喜ぶ母親を長く見ているのが照れ臭く、その嬉しそうな顔と先ほどまでの悲しげな表情とのギャップから、ああ僕は本当にこの人を悲しませてしまったのだ、といたたまれれない気持ちが生まれた。逃げるようにして、その時偶然その場を通りすがった友人と遊びに行くと言い残し母親とは別れた。近所に新しくできたコンビニで飲み物を買おう、という友人についていくと、コンビニには三者面談で話した教師がいた。三者面談の雰囲気からなんとなく気まずい思いと、買い食いをしようとしているのがバレたら怒られるのかな、という一抹の不安から身を隠した。ただ、しばらく様子を伺っているうちに、だんだんと自身の感情が変化してきた。あんなにも母親が傷付いていたのはこの教師の言い方に配慮が足りなかったせいなのではないか、そうに違いない、という責任転嫁からくる苛立ちのようなものが芽生えてきて、友人と一緒になって止まっていた教師のであろう自転車を倒す小さなイタズラをした。場面転換が起き、自宅にいた私に学校から電話がきた。私の生徒手帳がそのコンビニの付近に落ちていたので取りに来るように、と言われ、私はイタズラをしたのが私だとバレた、ああ、人生が終わったと絶望じみた気持ちになった。

この夢はここで終わる。目が覚めてから、今度は微笑ましい気持ちを持った。その程度のイタズラがバレたところでどうにもならないだろうし、教師の言い方で母親が傷付いたわけでもないことも明らかで、またなぜ突拍子もなく母親への慰めにシクラメンをプレゼントしようと思ったのだろう、と当時の事実を思い出して少し笑えた。しかし確かに、当時の幼い思考ではそれらが世界の全てで、それが世界の終わりであったりした。またそれも事実だったなと思う。

こうしてここ最近連日見ている夢を一つ一つ振り返っていくうち、夢が作った当時の私の精神の再現度、精度の高さ、言い換えれば異常さにだんだんと気付いた。夢は魂が見せるものだとか実はパラレルワールドの世界を覗き見ているだとか、それはそれで興味深いオカルティックな話は置いておいて、「当時の自分」をこんなにも的確にトレースできるなんて人間の脳の計算能力は本当に凄まじい。ある時期の気持ちや思考方法をわざわざ保存しているとも考えられないので、覚えている限りの経験や思考を繋ぎ合わせることでなんとか当時らしい私を作り上げているのだろう。世界5分前仮説というジョークじみた思考実験では、数十年分の記憶を持った人間がその状態で5分前に作られた、だなんていう無茶苦茶に思える話があるが、この脳の働きをみる限りあながち不可能ではないのかもしれないと感じる。少なくとも夢の中の私は、ほぼほぼ当時の私らしい考え方を忠実にトレースできていた。考えてみれば、覚えている限りでは自分が老人になった夢を見たことがない。よく言われているように、やはり夢は記憶に材料のある範囲でしか作り出せないものなのかもしれない。冒頭にあげた人格の同一性の哲学議論や、人の性格は生まれつきだとか家庭環境によるとかいろいろな話があるが、夢の中の私と今の私の考え方や感情の方向性の違いをみるに、やはり人の性格は経験から作られる部分が大きいのだろう、少なくとも私は様々な経験を積んできたことで私という人間にだんだんとなってきたんだろう、となんとなく納得してしまった。

昔夢にまつわる話を友人としていた際に「夢に出てきた人を好きになることってあるよね」という話題が出た。私も似たような経験がある。ある日ある芸能人が夢に出てきて、それまで全く興味のなかったその人がテレビに映った際、なんとなくもう少し見ていたい、チャンネルを変えたくないような気がした。これが例えば恋人になった夢であったりしたならば尚更その傾向は強くなるのだろう。古くは平安時代において、夢に出て来る相手は自分を想っている、というような解釈があったということだから、それはもう昔から人々は似たような経験をしてきたのだと想像できる。そして、夢の中の自分の精神年齢は少なくとも今よりも若く新鮮な状態であることが多いから、夢の中で感じる恋愛感情やときめきといったものは、現実に今自分が感じられるそれよりもずっと若く新鮮で印象深いものとなる。夢の中でいわば初恋のような気持ちを体験して、その余韻を新鮮さの印象を現実世界にもどっても忘れられないということなのかもしれない。そう考えると、この話は単なるあるある話とはいえ、人格の同一性や記憶と感情の結びつきを考えるに、とても興味深くそしてごく自然なことだと言えるのかもしれない。