ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

1年の空白期間があるエンジニアの就活記録3 & 働くということについて今思うこと

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就活記録の2はこちら

teeeeeeemo.hatenablog.com

いい感じで選考は進んでいる。

内々定のような約束(どれだけ信頼性があるのかは不明)を2,3社から頂いた。

どこにしようか、あるいは全く違った道を選ぼうかまだ決めあぐねているため正式な内定は待ってもらっている。

ふ、ニートが生意気なことだろう。でも僕は一回失敗した身だから、できれば同じ失敗は繰り返したくないと強く思っているのだ。

それはさておき、11/7から本格的に転職活動を始めたことを考えるとまだ1週間しか経っていない。

中途採用って、すごいスピード感だ。

新卒採用の時は一社の内定を取ることさえあんなに大変だったのに、1週間で働かせてくれるところが決まる。これはとてもすごいことだ。

空白期間があることも、私病で休職をしていたことも伝えた上で前職と同等以上の待遇で迎えてくれようとしている。これはとても不思議なことでもある。

転職活動を始めた今「働く」ということについて考える

時流というか歴史というか、終身雇用が主流という文化は既に薄れているんだなあと肌で感じる。転職をすることは公務員とかでない限り当たり前のことになったし、長く会社にいると市場価値が上がるというよくわからない迷信も廃れた。流動化ってやつだ。

例えばこれが人々が自由に職業を選択できて、個々人がやりたくないことをやらないで済む社会になっている証明だというならばそれはとても喜ばしい。

けれども実際は流動化によって不利益を被っている人もたくさんいるわけだから、手放しには喜べないよね。非正規雇用のクビ切りとかネットカフェ難民とか。

どうにかならないのかね、労働って。

労働といえば以前、みなし残業について記事を書いた。

teeeeeeemo.hatenablog.com

働いていた頃、帰宅途中の満員電車に揉まれながらシコシコ書いていたものだ。ニートになってから下書きを発掘して、自分で書いた文ながらあまりに熱量がこもっていたので書き途中のまま投稿したのを覚えている。

今読み返してもみなし残業という制度、あるいはそれを悪用する社会そのものに対して相当の悲しみというか恨みというかを感じていたことが伺える。やっぱりストレスが溜まっていたんだろう。もちろん甘えだったかもしれないけれど。

働き方、というのは本当に難しい問題だよね。

楽しければいいのかというとそんなこともなくて、企業である以上しっかりしないといけないところはある。 しかしあまりガツガツやりすぎて自分をないがしろにしてしまうと僕のようになってしまう。

人によってその尺度と言うか容量が違うのもまた難しさを加速させている原因の1つだと思う。

つまり、ホワイトカラーと呼ばれる仕事が増えたことによってそれが顕著になっているんだろうね。

ちょっと前電通の女の子が過労自殺をしてしまったけれども、ニートの僕としてはなんとも難しい事件だ。

きっと彼女は自分の仕事に誇りを持った真面目な人で、責任感がとても強かったんだろう。甘ったれな僕のように無責任に休職をしたり辞職をしたりすることができなかったんだろう。

優秀な人ほど苦労する、というのは何だかおかしな話ではあるように聞こえるけれども、現実はそんなことばかりだ。

想像してしまうことがある。もしかすると僕が会社を辞めたせいで、僕の仕事を引き継いだ人の中に彼女のように追い詰められた人がいたんじゃないかって。ゾッとする話だ。労働をするとかしないとかっていうことは、無意識に誰かを追い詰めてしまうことがあることなんだ。世阿弥じゃないけど、恋よ恋、みたいな話だね。労働は人を殺すこともあるんだ。

生きるように働く

僕は日本仕事百貨というサイトがとても好きで、在職中からずっとみていた。

そのサイトは仕事情報を載せているサイトで、紹介する仕事先をしっかりと取材しているところが気に入っている。どんな人が働いていて、どんな環境で働けて、どんな人に貢献できるのか。それらをとても美しくあたたかい文章で伝えていて、ただ読んでいるだけでも心が安らぐ。

日本仕事百貨のキャッチコピーに「生きるように働く」というようなものがあって、初めて見たとき僕は意味がよくわからなかった。

けれど、それこそ仕事で鬱になりかけていた時期に、ふと「死ぬように働く」という言葉が思い浮かんできた。

そのとき「生きるように働く」という言葉の本当の意味がスッと自分の中に入ってきた気がした。

「どうしても御社で働きたいのです」と日本仕事百貨にメールを送りながら、ポロポロと涙を流したことを覚えている。あのときも満員電車の中だったっけ。

求人もしていない会社に泣きながらそんなメールを送るなんて、今考えると日本仕事百貨の中の人は困っただろうなあ。すみません、辛かったんだと思います。

働く環境を改善すること

なんかこう、文句ばっかり言っているようになってしまうのは本意ではないので、一応僕もこういうことをして自分で改善しようとしていたよ、という話をしておきたい。

僕は前職で、みんなが働きやすいような環境を作ろうと「社内課題解決チーム」のようなものを率いて様々な施策を打った。どれもがうまくいったわけではないけれど、いくつか記憶に残っているものがある。

一つは、1on1制度。上司と一対一で話す機会を少なくとも隔週で設ける制度だ。

「上司と腹を割って話せる機会が、半期に一回の評価面談の場しかない」

という社員の不満を拾い上げて、上も上、エンジニア長を飛び越して本部長クラスに直談判して、事業部全体の制度としてこの制度を作った。

評価面談の場じゃあ変なことは言えないからなあ。僕自身その気持ちがよくわかるから、特に力を入れて作った制度だった。

1on1を行う際の約束として「その場で話したことは評価に加味してはいけない」というルールを設けた。

機械と機械が働いている訳じゃあないんだから、たまには本音で話そうよ。売り上げや利益と言った数字で相手を見るのではなくて、人と人として話してみようよ、というメッセージを込めたつもりだった。

僕は平和主義というか理想主義なのであんまりそういうことはなかったけれど、営業の人は結構ぶつかり合ったみたいで、良いんだか悪いんだか本人達はより結束が強まっていたように見えた。制度を作った身としてはぶつかり合ったって話を聞いたときはちょっとビックリしたけど。

そしてもう一つは、僕がエンジニアとそれ以外の人の架け橋になること。

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この記事の内容は実は社内のアウトプットの場で発表したスライドを記事にしたものなんだけれど、これはあんまりうまくいかなかった施策だ。

ストレスの相互理解による健康的な宇宙の創造、というちょっとおちゃらけたテーマにしてはみたんだけれども、

どうしてもこう、僕自身の不満とか辛さみたいなのを強く押し出してしまって、独りよがりの発表になってしまった。

やっぱり自分に必死になり過ぎていると、何もかもあんまりうまくいかないもんだよね。

当時はちょっとシャレが効いてる良い発表だと思っていたけれど、今見たらただの愚痴に見えるもんね。

よくないね。

おわりに

やはりこう、僕はまだ働くということについて完全に前向きになれた訳ではないけれど、過去の反省ができるようになってきた自覚はある。

一年ニートすると流石に自分のことを客観視できるようになるね。おすすめはしないけど。

こうして改めて過去を振り返ると、やっぱり僕は働き方とかワークライフバランスとか、ライフワークとか、そういう生き方と働き方をより優しいものにしていきたいっていう思いがずっとあったんだなあと感じる。

それを自分で実現できていないんだから今のところ結局ただの夢想家みたいなもんなんだけど、そう、なんかそういう世界になっていったらとても良いよね。そのためだったら努力もできそうな気がするんだよね。

なんつってね。

ブログとリアルを繋げたら意外と反応があって面白かったよ、という話

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ブログは恥部、リアルでは晒せないことを赤裸々に語る場所だと思っていた。

僕はこのブログを含めた様々なSNSで十数年間、日記や記事を書き続けてきた。

決してプロブロガーになりたいだとかライターになりたいだとかではなく、誰かに聞かれたくないような愚痴や中々現実では語れないような穿った話を吐き出すために書いていたのだ。文章を書く、ということはいわば僕の「魂の捌け口」であった。

先日、協力してくれる方を募るような記事を書いた。

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この記事を書くまでは、僕はこのブログを完全にリアルと切り離していた。リアルに繋がりうるfacebook,twitter等で自分の書いた記事をシェアしたことは無く、前の会社の人に見られたら責められてもおかしくないような内容の記事もいくらか書いてきた。

しかし先述の記事については出来るだけ多くの人に見て頂き、協力してくださる方の目に留まりたいという意識からfacebook,twitterでシェアをすることを選んだ。

当初は。正直このブログのアクセスなんて大したこともないし現状ニートである自分のFacebooktwitterにシェアをしたところでどうにもならないだろうと軽く考えていた。

しかし結果は違った。

数社の方から「場所をお貸しできるかも知れません」というご連絡を頂き、「うちの内定者の研修として取り入れられるか聞いてみるよ」と仰ってくださる方も出てきた。

何より「内容と思いに共感した」というその方々からのお言葉に僕はひどく感動を覚えた。

中には過去の記事までご覧になってくださって、「エンジニア募集してるからそっちの線もお話してみたい」と仰ってくださる方もいた。

シェアして下さった方や、どんな人間かもよくわからない相手に対しお声をかけて下さった方には本当に感謝している。 僕は友達が少ない方だと思っていたし、影響力のないただの凡人だと今でも思っている。それでも、僕なりの思いや活動を公開することで善意を向けてくださる方がいた。なんて素晴らしい世界なんだろう。いくつか記事にも書いたけれども、僕は鬱病を患って(もう治った)辞職をしたニートだ。今まで、世界について決していい印象を持ったことはなかった。しかし今回の件で何かとても救われたような気持ちになった。

座間事件のこともあり、昨今ではSNSの危険性という論が飛び交っている。変なことを言うとすぐに炎上するし、僕はよく変なことを記事にしてしまうきらいがある。そんなわけで僕自身もネットでの自分と現実での自分を近づけることはなんとなく怖い事だと認識し避けてきた。今でもネットとリアルを繋げる事自体はオススメしない。しかしながら一方で、今回僕が得た経験はそのリスクを負ったが故に得られたものだと思う。

ネットって怖いし悪い人も多いけれど、いい人も一杯居て、知らない人に対してもあたたかい目を向けてくれる人はたくさんいるんだな。小中学校からネットリテラシーのようなものを学んできたけれど、今回の件で僕はようやくネットの「良い面」に気づくことができた。

アクションを起こしたい時、それを意志だけでも公表するということは非常に有意義な行為であると僕は知った。

というわけで、これからはfb,twitter共に書いた記事をシェアしていくことにしようと思う。

僕の日記の性質上賛否両論ある話を書いたりもするけれども、しかしそれを全て含めて僕という人間だということでもう開き直ってしまおうと考えている。

なので、今後も下世話な話やリアルな愚痴なんかもここで吐き出し続けていくぜ!という自分に対する宣言をしておきたい(シメられなくなって何が言いたいかよくわかんなくなってきた)

P.S. プログラミング講座に関する今後について

先ほどリンクを貼った記事の内容について、「考えが甘いと思う」というようなご指摘も何名かの方々から頂いた。

このプログラミング講座というものをどう発展させていくか、ということについて正直僕がまだ決めきれて居ないところもあり、頂いたご指摘については本当に正しいことを仰っていると僕も感じる。

しかし在職中にこのプロジェクトを始めた根底の部分は「困っている学生の一助になりたい」というものである。だからこそ彼らを食い物にするようなビジネスにしてしまうのは本意では無く、どう継続的な活動として成立させていくかという点について考えていかなければならないのが今一番大きな課題となっている。あるいは開催していく中で見えてくる「困っている人」の状況によりその在り方は変わっていくべきものなのかもしれない。

今回ご連絡いただいた方々やこれから関わらせていただく方々にもお話をさせて頂いて、じっくり考えていきたいと考えている。 現在も募集は続いておりますので、ぜひご興味ある方はご連絡いただければと存じます。

よろしくお願いいたします。

プログラミング講座を不定期で開いているニートですが色々募集したいのです

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僕がやっていることと自己紹介

僕はニートである。インターネット広告を扱う企業にエンジニアとして3年勤めた後、鬱病になって辞職。そのままめでたくニートにクラスチェンジした。

そんな僕は働いている間、就活生向けに無償でプログラミング講座というものを何度か開いていた。

内容は「2,3日でわかるPHP〜簡単なTODOリストを作る〜」というもの。

実際に二日程度缶詰になってもらってPHPの基本的構文、DBとのやりとり周りを学んでもらうという内容だ。

なぜこんなことを無償でしていたかというと、僕自身スキルがなくて就活の時に困った経験があることに起因している。

大企業に入りたい、とか社会に貢献したい、とかかっこいい理想みたいなものはボンヤリと持ってはいたが、自分のどの能力でどうそれにアプローチしていけば良いのかが全くもって想像出来なかった。

そして僕にとって、勉強でもなんでもそうだけれど、一人で何かを始めようというのは中々難しいことだった。

モチベーションが続かないし、一度躓くとすぐに投げ出してしまいがちな性格をしているのだ。

一部の優秀な方はそれでも独学で勉強を続けられるけれど、僕は優秀ではないしとても飽きっぽい学生だったということになる。

そこで、もし僕と同じような悩みを持っている学生がいるのならば、エンジニアとして働いている僕が彼らに貢献してあげられることはあるのではないかと考えた。

完全に見切り発車ではあった。知り合いの学生や生徒からの紹介などでなんとか10人くらいの生徒を抱えることが出来、ようやく講座を開いた。結果としてはそれなりに出来るようになった子もいれば、最初から最後まで「もうやだー」といって躓いていた子もいた。

しかし、どんな結果であれ就職活動の際に「プログラミングに触れたことがある」と言えるというのは就活生にとってそれなりの武器になると考えている。

少なくとも自分がプログラミングに向いているかどうかの判断は2日もやればわかるだろうし、実際に教えた子で「絶対エンジニアは無理だってわかりました」と苦笑いして他職種の希望を強めた子もいる。 エンジニアという選択肢を切り捨てることによって、自分の選択肢を広げられることもあるのだと僕は知った。

仕事が忙しくなってきてしまったのと、知り合いがもう居らず生徒を集めるのが難しくなってきてしまったので、非常に残念ではあったがこのプロジェクトは一旦終了した。

現在転職活動を行なっている僕は、エンジニアの人手不足というものをより一層強く肌で感じ始めている。 空白期間が1年ある僕でさえ、転職は容易に決まりそうなのだ。

手に職をつける、という言葉があるが、現代においてプログラミングが出来るということは正にそういうことなのだと思う。

この経験から僕は、何をやろうか迷っているけれど何も出来ることがないというような切実で真摯な悩みを持っている学生たちには是非エンジニアをオススメしたい。

というわけで、もう一度プログラミング講座を開いていきたいなと考えている。

今回はそれに関するいくつかの募集をしたい。

いくつかの募集をしたいのです

この影響力の全くないブログでも一応募集をしてみようと思う。

今回協力して頂きたいのは以下の二方面の方々だ。

  • 全くの未経験で、プログラミングを学習したい人(学生社会人問わず)
  • 講座を開く場所を提供してもいいよ、という方(そんな人がいるのか)

無償でもいいからプログラミング講座に講師側として参加してみたい、という人がいれば(いるのか?)それも大歓迎だ。

開催場所は都内で考えている。最悪どこかのレンタル会議室のような場所を借りてやるか、コワーキングスペースのようなところをお借りしてやりたい。場所代だけ頂くことにはなるかもしれないが、営利目的では全くないのでその点ご了承いただきたい。

興味ありそうな子がいるよ、というのでもいいので何らかの形で協力をしていただけると私はとてもハッピーなニートになれる。

実際あんまり来るとは思っていないんだけれども、何か捨てアドかなんかをコメントに置いていただければ僕から連絡をするのでよろしくお願いします。

1年の空白期間があるエンジニアの就活記録2

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その1はこちら

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お祈り申し上げます

大学5年生の頃、僕は特にスキルや資格というものを持ち合わせていなかった。

そのため、就職活動の時に散々お祈りをされた記憶がある。

当時僕は小説家になりたいという夢を捨て切れず、出版関係を中心に20社ほどエントリーシートを送りつけた。

結果としてはほぼ惨敗。面談に進んでも2次面接や役員面接で大体落とされた。

お祈り。

僕は今転職活動をしているが、新卒採用当時とは違いお祈りをする立場へと変わった。

今SEはどこも人不足のようである。

前職プラス50万の500万という年収を提示した上で面談を受けに行くと「この経歴ならもっと出せるから早く来てくれ」とさえ言われる。

大抵の会社は残業時間が多かったりポジションが僕のやりたいこととはズレていたりするので、心苦しいながらお断りをすることになる。

「末尾ながら、貴社の益々のご発展をお祈り申し上げます。」

就職活動を本格的に始めてから1週間も経っていないが、すでにこの文言を数回打鍵した。

お祈りする側になって初めてわかる。お祈りとはこんなにも無慈悲なものであったのかと。

エンジニアで空白期間があるって実際どうなの?

結論から言って、エンジニアの場合一年の空白期間では市場価値は下がらないと見ていい。

今の所5,6社受けているが、空白期間について深く突っ込まれたことはない。

僕の場合は多少友人の会社を手伝っていたこともあり、全くの空白期間とは捉えられていないのもあるかもしれないが、そもそも書類で落とされるようなことはない。

そして何より前職でやめる寸前、死に物狂いで役職をGETしたのがでかい。

リーダー職へ昇進したということは前職で実績が認められた証明になる。当然提示金額も前職を参考にされる為、最後っ屁で年収をがっつり上げておいたのは幸いだった。

一年以上の空白期間がある場合についてはまだ分からないが、とりあえず一年以内の空白期間があって転職に踏み切れないSEの人は安心してほしい。全くと言っていいほど気にされないから。

そして今仕事を辞めようとしているSEの人々には、最後っ屁で給料か役職を上げる交渉をすることをオススメする。次回の待遇に響くので周囲の目を気にせず上司に直談判しておくと良い。企業にとっては非常に迷惑な行為であるかもしれないが、しかし自分の人生が一番大切だ。最後くらいワガママを言ってみよう。

就職活動と転職活動の違い

一番強く実感したのはスピード感の違いだ。

大学で就職活動をしていた際は内定まで少なく見積もって3ヶ月はかかるという認識があった。

しかし転職ではそこまで長くかからない。1ヶ月もあれば内定はもらえる。

最短でいうと最初の面談から1~2週間で内定が出そうな会社もある。

前職を辞めようと考えていた際、自分の市場価値も分かっておらずなんとなくのイメージで転職活動は大変そう、と転職活動をしていなかった。

いざやってみればなんて簡単なことに不安を感じていたのだろう、というのが今の気持ちだ。

当時はジョブホッパーになってはいけない、同じ会社に長く勤めていればいるほど自分の市場価値が高まるのだろう、などいろいろなことを考えていた。

しかしそんなことは全くもってない。的外れなことを考えていた。

インターネット広告業界の経験、PHPの開発経験、新しい技術の取り入れ、チーム構築や文化醸成の経験、自分発信での新規事業開発、どれもが他社から見れば若いのに責任のある仕事をいろいろやっているね、という高評価ポイントになるらしい。

そう考えると前職の会社には感謝すべきかもしれない。ハードではあったがそれなりにいろいろな経験を積めた。1年の空白期間を埋めるだけの実績を僕は3年間の内に積み上げてきたようである。全く自覚がなかった。

確かに、新卒採用と中途採用では企業にとってのリスクが違う。新卒なんて何のスキルもない人がほとんどで、育成に失敗すれば社内のお荷物になってしまうかもしれない。しかし中途ならば少なくとも出来ることがある人しか雇われない。もし当初見積もっていたポジションでその人が腐ってしまうようであれば、その人を活かせるような事業や部署に配置換えをすれば良いだけのことなのだ。

なるほどなあ。当時は雇う側のリスクなんて考えもしなかったよ。 これもまた僕がひとつ成長した証ということなのだろうか。

一年の離職期間があるエンジニアの就職活動記録

1年の空白期間があって就職できるか不安

今まで無職をしていた僕は、最近就職活動をしている。

一般的には三ヶ月以上の空白期間があると採用を敬遠されることがあるという。

一方で半年くらいなら気にしないというところもあるという。

僕の場合はそれらを超えた一年間もの空白期間を作ってしまい、上記の慣習からいえば書類で落とされる可能性がとても高い。

もう一度本当に就職ができるのかとても不安なのだ。

不安をそのままにしていられる性分ではない僕は、就職活動を始めてみることにした。

つかった転職サービスは以下二つ

ステマでもなんでもなく、何か紹介したからといって僕に利益はないので転職を考えている人は見てみて欲しい。

ブランクのある就職活動をする際の心構え

ブランクがあるといっても、一人一人仕事に対して譲れない点はあると思う。

ならば就職活動を始める前にまず、最低限のマスト条件を決めるべきだ。

僕の場合は以下の点をマストと設定した。

  • 前職と同等以上の年収
  • 自分の仕事量を自分でコントロールできるか
  • 1時間に一本タバコを吸う時間をもらえるか

この三点だけは譲れないポイントとした。3点目は別に譲ってもいいような気はするが、一度鬱で退職している以上リフレッシュの時間くらい譲れない。

転職サイトでの感触

僕がSEのリーダー職についていたこともあり、オファー自体はガンガン来る。

Greenはエンジニアメインの求人サービスのため、it関係でよく見かける企業なんかからもスカウトがくる。

ビズリーチの方もガシガシくるが、エージェントからのオファーもあるのでそちらはあまりあてにしていない。こちらは非公開求人が豊富でなかなか見ない会社からオファーが来て面白い。

現状のオファー量はそれなりに多く、なんとなく就職自体はそれほど難しい問題ではないような気がしてくる。しかし空白期間についてうまく伝わっていないのかもしれないので、職務経歴書をよりわかりやすいように二つとも更新してみなければならない。

転職フローへの不満

こちらから送る職務経歴書や履歴書はすでに準備しており、あらかじめそれを送ってから選考を進めてもらいたいと僕は考えていた。

しかし転職サイトから複数の企業にエントリーをしてみると、とりあえず面談という形で話をしたいと言われる。会う前に条件面やポジションの提示をしてくれないのは多少不満でならない。必要とあらばアンケートのようなものを送ってきてもらっても良いので、早くこちらにも判断材料を与えて欲しい。

友人や過去の先輩からの誘い

ニートが就職活動を始める、と各SNSに投稿したところ、何社か声がかかった。

そちらの会社の人と面談をすることになったり、ウチは100%入れるから他のとこ見てダメだったらいいな〜とか中々心強いお誘いも頂いた。

やはり交友関係の広さは社会復帰に大きく貢献してくれるものなのだと感じる。

転職や離職後の就職活動を行う際は是非、友人にも相談しておくことをお勧めする。親切な人は人事課まで行って募集してるかどうかまで問い合わせてくれた人もいた。

今のところの結論

実際また面談の予定ばかりで選考フローに入ったとも言えないのだが、明日も三社と面談をしてくることとなった。 感触としては「全部落ちるということはなさそう」という印象である。

一年ブランクがあるとはいえ、一度SEとしてそれなりに経験を積んだことで「手に職」はついている状態なんだな、と初めて認識できた。これはとてもよろこばしいことだ。

出てくる欲望

そうなってくると、ボーナスが二ヶ月*年二回以上出る会社とか、みなし残業を取り入れていない会社とか、そういう会社も受けてみようかなあという欲望が出てくる。

マザーズ上場くらいの会社では意外とボーナスや手当が整っておらず、よくて一ヶ月*年二回という会社が多いのだ。

福利厚生のしっかりした大手企業というやつまで視野に入れて転職活動を進めたくなってきた。

ボーナス3ヶ月分*2回とかの会社があれば是非ぼくを雇って欲しい。

PHPのスキルとリーダー経験とアドテク関連の知識はそれなりにあるのでキャッチアップの時間さえもらえればそこそこ貢献できると思う。

これを見ている人の中で気になっている人がいれば是非連絡を下さい。スカスカの職務経歴書を速攻で送りつけてやりますよ

鬱病ニートから見る座間殺人事件

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前回の記事でさらっと座間の事件に触れた。

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僕自身が鬱病を患い、死にたいと考えていた時期があったこと、

社会学を学んでいた時代に自殺論を扱っていたこと、

それらのことから、やはりこの事件については思うところがあるので改めてそれを書きたい。

遺族の方や被害者の方を批判したり傷付けようと言う気は一切なく、僕が思う今回の事件と死についてをただ書いていきたい。

現代日本における「死ねる場所」とは

まず第一に、被害者の女性たちがなぜ白石容疑者と会うことにしたのかを考えたい。

結論から言って、「死ねる場所がある」という話に魅力を感じたのではないかと僕は考える。

実体験からの見解

死にたい、と思っている人間が死ぬ方法はとても限られている。僕自身が自殺道具(登山用の丈夫なロープ)を購入した際にとても強く実感した。

ビルから飛び降りること、電車に飛び込むこと、公園や山で首をくくること、自宅で目張りをして練炭を焼くこと。

書いてみれば簡単なことではあるけれども、実際にどこで死のうかというのは自殺願望のある者にとっては非常に難しい問題である。

首吊り士、と名乗っていた犯人白石容疑者は、「うちはロフトがあるから首が吊れる」と言い自殺願望のある女性たちを自宅へ誘っていたらしい。

このことについて、僕はなるほどと感じた。僕が自殺を考えロープを購入した際には、幸か不幸かロフトのない部屋に住んでいた。ロープを買ったはいいものの自分の体重に耐えうる引っかかりが見つからない状態だったのである。

しょうがないので近所の公園などの木を探したが、公園というものは基本的に住宅街にあって人通りも激しく、首吊りの準備をすることが非常に難しい。準備が滞りなく進んだとしても、首を吊ってから少なくとも10~15分以内に見つかって助けられてしまうと死ねない可能性が出てくる。

そうすると必然的に人の少ない深夜、それなりに大きな公園で人通りが少ない場所、というような環境を探さなければならなくなる。

これから自殺をしようという人間にとって、この労力は凄まじいものだ。

死ぬ気になればなんでもできるというような言葉があるが、死ぬ気の人間は基本的に無気力になるものである。そんな人間に死に場所を探したり条件に合うか吟味したりする余裕があるだろうか。

ただでさえ自殺願望や希死念慮というものには波があって、どうしても死にたい1日とそうでもない1日があったりもする。

死ぬ場所を調べている間に面倒になってきて、明日でいいや、という気分になってくることもある。

僕の場合はそれが何日も連続したし、他の死に方を検討したりもしたが、結局全てが面倒になって「消極的な生」を選んだ。生きている現状を変えることよりも、生きている今を維持する方がエネルギーの消費は少ない。生死にまつわる慣性の法則みたいなものを僕は強く感じる。

そこで今回の白石容疑者のように「死ねる場所が用意できる」という持ちかけがあった場合、被害者らが思わず反応してしまったことはこの上なく共感できることだ。

被害者女性らは実際に死ぬ気はなかったという報道もあるが、その真偽は別として被害者女性らが白石容疑者に会おうと考えた一番大きな理由はこの点にあると僕は考える。

「メンヘラ」という言葉のもつ軽さについて

メンヘラ、という言葉は今更説明する必要もない一般的に浸透した言葉である。

僕は、そのメンヘラという言葉の軽さと浸透によって「にわかメンヘラ」とでもいう人が生まれていることを感じている。

患っている病名や飲んでいる薬、希死念慮リストカットという行為を世間にアピールする一定の人々がいるが、それらはこのにわかメンヘラを生み出してきた大きな要因の1つだ。

古くはmixi前略プロフィールなどが流行っていた時代からそういった行為が広まっていったのだと思う。プロフィール欄に薬名や病名を列挙し、それを自分の個性として世間にアピールする。同じ悩みを持った友人ができたり、人の症状を見て自分はもっとひどい症状だとアピールしたりする。そうしてメンヘラあるあるのようなもので盛り上がるうちにそれは一種のコミュニティを形成し、今では文化へとまでそれは昇華した。

結局のところこれらは「自分は普通の人ではない」と世間にアピールしたい承認欲求からくる行為であると考えられる。

しばしば中二病と揶揄されるような多感な人々はそのコミュニティを見て、憧れや格好よさのようなものを感じる。薬を多く飲んでいればカッコ良い、より重い症状を持っている人がかっこいいというように。

普通が健康であるとしたら、健康でないのが「普通ではない」ということ。

一般的に考えると健康な人がもっとも羨ましいものになるはずだが、メンヘラのコミュニティでは当然そうはならない。「普通と違う」ということをステータス、あるいは自らのラベルとしているため「より健康でない方が個性的」ということになるのではないだろうか。

こういった文化があることで、「にわか」が増える。憧れやそのコミュニティに入りたいという気持ち、構って欲しいという気持ちが行きすぎて、本来は健康であるはずの人でさえ「本当のメンヘラ化」をしてしまうことがあるのではないかと僕は考えている。

例えば本当は健康的な人であったとしても、その憧れからリストカットなどの自傷行為までをもメンヘラを模倣してしまえば病院ではメンヘラ扱いをしてもらえる。SNSでももっと構ってもらえる。

そして自分のメンヘラ度を世間にアピールし構ってもらえていると、段々とそれがアイデンティティに取り込まれていく。そして承認欲求を満たすためにそれを繰り返し、気がつけば最も確固たるアイデンティティとしてメンヘラという属性を得てしまう。

SNSやメンヘラのコミュニティ発達によって、もはや「誰でもメンヘラ(になれる)時代」に突入してしまったのではないか。

先ほど少々触れたが、今回の座間事件において被害者らは本当は自殺する気はなかったという一部報道がある。

それが真だとすると、行き過ぎた承認欲求を満たすための行為として「本当に死にたい人の手助けをしたい」としていた白石容疑者に連絡を取ってしまった人も少なからずいるのではないか。

白石容疑者に連絡を取ってしまった、あるいは連絡に反応してしまった被害者の人々の心情は、鬱病の僕から見るとこういった要因があったように思える。

白石容疑者は「死にたい人」の救いであったか

気になるのは、殺された人々にとって白石容疑者は救いであったかどうかだ。

最初の二人の被害者については完全に被害者であるから、議論の余地はない。

しかし僕は、物議を呼ぶのは承知した上で敢えて問いたい。

「本当に死にたい人にとって、白石容疑者は救いになり得たのではないか」

これが僕の考えである。

被害者の中には、実際に殺されそうになると抵抗をした方もいたかと思う。それ自体は当然のことだと思う。

人間は不思議なもので、「死にたい」と言っている人の中で本当に死にたいと思っている人は実は少ない。

軽い気持ち、その場の思いつき、その瞬間のみの感情で「死にたい」と言う人はとても多い。

例えば「転職したい」という発言でも同じで、本当に転職するつもりはないが今の職場が嫌だとアピールしたい場合にそのようなことを言ったりする。

ちょっとした発言を真に受けられて、でもその直後に違う気持ちになってしまうことなんて誰にでも経験があると思う。

こうした人々さえも殺してしまったのであれば白石容疑者のその行為は当然批判処罰されてしかるべきものだ。

問題は、本当に死にたい人を殺していた場合。

確かに日本の法律上では違法行為であるから、殺人はしてはいけない。

そんな当たり前の話はおいておく。

僕が死にたかった時、今回の事件のようなことをよく考えていた。

殺人者が今家に上がり込んできたら、僕は抵抗をするのだろうか。それとも喜んで殺され感謝をするのだろうか。

結論から言って、僕は感謝すると考えていた。

何度も書いてきたように、死ぬのは意外と難しい。

場所、方法、タイミングの選定。そう言った面倒なことを取っ払ってすぐに「死」を提供してくれる人がいたら、当時の僕は非常にありがたいと感じていたと思う。タイミングさえ合えば、喜んで殺されていただろう。出来るのならば殺され方まで指定して。

このことから、僕は「本当に死にたい人にとって、白石容疑者は救いになり得たのではないか」と結論づけたい。

もちろん本当は、安楽死を制度化してくれるのが一番良い。

生まれるか生まれないかの選択権も持たず生まれてきた僕らに、生きるか死ぬかの選択権くらいは与えてくれても良いのではないか。僕はそう思う。

倫理や処置を施す側の気持ちなど実現が難しいポイントがいくつもあるのは理解している。

ただ純粋に「死にたい人には死という救いを与える制度があってもいいのではないか」と僕個人は思っている。

改めて

最後に改めて申し上げたいのは、僕が個人的に白石容疑者を応援する気や擁護する気など、一切ないと言うことである。

今回の事件について、鬱病を実際に患っており、死にたいと何度も考えたことがある(今は違う)人間はこんなことを考えたよ、という一石に過ぎないことを留意していただきたい。

鬱病患者から見る座間の事件

http://m.huffingtonpost.jp/2017/10/31/zama-case_a_23262698/

座間の事件については上記参照のこと。

彼がシリアルキラーなのか異常性欲者なのか、あるいは希死念慮を持つ人々にとっての救いであったのかはわからない。

事件について意見をするのは彼のこれからの供述をしっかりと見定めた上行いたい。

僕はそれよりもいま、ツイッターで「#自殺募集」というハッシュタグが流行っていることについて語りたい。

生きたい人と死にたい人は紙一重

今はそんなことはないが、僕自身昔はよく首を吊る想像をしていた。死ぬ方法にこだわりはなかった。電車に飛び込むのでもいいし練炭でも漂白剤かなんかを混ぜて死ぬのもいい。当時は完全自殺マニュアルという自殺の方法を痛みや綺麗さで評価する本があった。そこで一番お勧めだとされていたのが首吊りだった記憶があり、なんとなく自殺をするのならば首吊りがいいかなと考えていた。

改めて断言しておきたいのだが、今の僕は決して死んでしまおうとかは考えてはいない。

しかし、気分の落ち込みや気分の高まりが病気によってうまくコントロール出来ない人にとって、死なんてものは本当にすぐそばにある、いや寄り添っているものだと思う。よく魔が差して痴漢をしてしまう男性がいる。彼らの言っている「魔が差す」という言葉について、僕は本心から共感ができる。

痴漢や暴行、飲酒運転や殺人や自殺なんて正直いつでもどのタイミングでもできるものだと思う。ではその逸脱行為をする人としない人の差は何なのだろうか。僕はなんとなくまとまってはいないが想像がついている。

上記した逸脱行為の内、暴行や殺人に関しては例えば「怒り・焦り」という感情ががトリガーとなって行われる行為であると思う。

しかし常習的でない痴漢、そして自殺というものについてはその明確なトリガーがない行為のように思えてしまうのだ。

そのトリガーのようなものがないからこそ、行為に至ってしまう人は本当に紙一重なんだと思う。この瞬間ホームに飛び込むかどうか、その瞬間の気分によって決まってしまう。それも実は気分なんて言うほど大したものでもなくて、言わば単なる「思いつき」とか「ひらめき」なんていう弱い衝動でことは起こってしまうのだろう。

僕はそんなようなことをずっと考えてきたから、単体で自殺を行なってしまう人の気持ちはとても理解できる。

自殺募集をする人々について。

では、自殺募集をしている人の気持ちはどんなものなのだろうか。

正直に言って、僕は彼らのその行動を全く理解できない。

例えばツイッターで自殺仲間を募ってスケジュールを合わせて実際に会って死ぬ。

鬱病だった僕から言わせると、この工程はかなり長く、目的もよくわからない行為だ。先述した通り、僕が持っていた希死念慮というものは本当に単発でふいに訪れるものであった。例えば今日すごく死にたいな、という日があるとして、それが来週まで続くかどうかは僕自身にもわからないものだった。

彼らと僕の違いは一体なんなんだろうか。鬱じゃなくて面倒くさがりな僕としてはそもそも自殺だろうがカラオケだろうが予定なんて立てたくはない。しかし彼らは彼らなりの手続きを踏んで、長いやりとりを経て知らない人と知らない地で死のうとしている。もしかすると彼らは僕に比べ、死をしっかりと予定していたいのかもしれない。死んでもいいや、という意識ではなく、間違いなくこの日に死ぬんだと決め込んでいる。彼らの根元的な死への欲求が僕より強いと言ってもいいのかもしれない。僕のような短慮的に死にたい人間は瞬間風速的には彼らを上回ることはあっても、やはり継続性という面では彼らの方が希死念慮が強いのかもしれない。

死にたい気持ちには、二種類あると僕は思うのだ。 瞬間的に痛いものと、継続的に痛いもの。これはちょうど怪我と病気の関係に似ている。

それでもやっぱり、彼らにしろ一緒に死ぬ人が欲しいというのは人が社会から離れられない生物であるという証左なのだろうか。

その点についても僕なんかは不思議に思う。死ぬ寸前に知り合った人と一緒に死ぬことに何か価値があるとは思えない。彼らのその一人で死にたくないという欲求は一体どこからくるのだろうか。

例えば集まった彼らに、今日死ななければ500万円をあげると説明したとして、それでも彼らは今日死ぬ事を選ぶのだろうか。

お詫びと予告

この題材に関してはより整理した内容をアップしたいので、今回はここまでに留めたい。

次回以降、また彼らの死というものについて僕なりに考察を進めます。