ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

みんなどうやって長い人生折り合いつけてんの

大体みんなこのままあと30〜40年くらい働いて、 いくらかのお金を稼いでいくわけじゃん。

まだ火曜日なのかというこの落胆や、 こんなにも長い一週間がこの先365/7*40回ほど続く途方のなさと、 一体どうやって折り合いつけてるの??

稼げる額もさ、死ぬほどではないけれど、やりたいことが全てやれるほどのお金ではないことがほとんどじゃない?3年働けば一生分稼げちゃうような人もいるかも知れないけれど、そんなことの方が稀なのはみんな知ってることだとおもう。

じゃあこの仕事って行為は果たして人生における何かの解決になっているのかな、と疑問に思う。 そりゃ毎日が辛くなくて、仕事自体が楽しいとかそういう人は別だけどさ、みんながみんなそうじゃあないと思うんだよね。 わからないな、仕事に40年もささげる意味とか、それが当たり前のレールとして敷かれているこのしくみ自体とか、みんながどうやって働きたくない気持ちと戦っているのかも。 仕事に対する誇りや固執みたいなものが段々と、離れられないようにしてくるもんなのかな。 40年ずっと働きたくないまま働いていくものなのかな。そうなんだとしたら、人間つよすぎるんじゃないのか。あるいはよわすぎるんじゃないのかな。

10年生きてきた生き物と、40年生きてきた生き物では時間の感じ方が違うという。一定の時間でも、受け手にとっての相対的な大きさが違うからそうなるんだって、それっぽくだれかが話していた。

今のところそんなことはなくて、本当なのかなあって思う。 やりたくないことをやっている毎日は、今までの経験上いつも長く感じるよ。

男性学について

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男性学とは何か

男性学とは、文字通り男性についての学問である。

ジェンダー領域において、女性についての議論は常に意識され、十分とは言えずともそれなりに発展してきた。それは男尊女卑の歴史への反発からとも、文化水準の高まりが人々に知性をもたらしたからとも言える。

しかしその一方で、男性に焦点を当てたジェンダー論は長い間見過ごされてきた。 女性には女性の生きづらさが、男性には男性の生きづらさがある。

ならば女性のことだけではなく、今一度男性の生きづらさも男性学とは何か見つめ直そう。 そうした動きから、男性学が生まれた。 歴史上培われた「男性らしさ」という偶像は、今や男性を苦しめる枷となっている場合がある。「自分らしさ」を追求することが美徳となりつつある現代において、僕たちは「らしさ」の呪縛から逃れらられない。「男性らしさ」というものは、あまりにはやすぎる時代の変化に追い付けない。男性学は、そのギャップに深く切り込む。

恋愛の男性学

女性は守られるもの、男性は守るもの。

女性の自立を促進させようとする社会の動きがある一方で、こういった思想は未だ色濃く残っている。

それは人々の中だけではなく、社会システムとしての「常識」にまで存在している。女性が男性の戸籍に入籍する、という通例は正にそれを示している。この思想の由来が男性にあるか女性にあるかという問題は難しい。鶏が先か卵が先か、という水掛け論にしかならない。男性が示威のために女性を「所有」しようとしたのか、女性が保身のために「所有」されることを望んだのか。歴史を鑑みても、その答えはきっと見つかりはしない。

2000年代中ごろ、「草食系男子」という言葉が流行した。初めて命名された時期については諸説あるが、2006年の深澤真紀による日経ビジネスオンラインにおける記事が初めて使われたという説が主流である。深澤によると、その定義は

恋愛やセックスに「縁がない」わけではないのに「積極的」ではない、「肉」欲に淡々とした「草食男子」です。

(日経ビジネスオンライン U35 男子マーケティング図鑑 第5回 草食男子http://business.nikkeibp.co.jp/article/skillup/20061005/1... より抜粋)

とされている。また、1994年にギルマーティンが提唱した「シャイマン・シンドローム」という概念がある。こちらは端的に言えば「恥ずかしがり屋」な男性のことを示している。

草食系男子とシャイマン、これらはそもそも男性が積極的に女性に関わろうとする、という暗黙の前提から生まれた言葉である。 真の意味での男女平等が叫ばれている現代社会にも、いかに色濃く男性主導文化の名残が存在しているかがこのことからも見える。そして、そこに「意識のギャップ」のようなものが生まれつつあるからこそ、草食、シャイマンのような概念が流行しているのではないか。 また、インターネットの台頭、更に言えばe-mailの普及がそのギャップ認識を加速度的に人々に広める装置となったとも考えられる。e-mailは私たちに、敷居の低いコミュニケーションをもたらした。結果として恋愛までの道のりは簡略化され、恋愛自体が「常識」として人々に浸透していった。

現代の若者の間では、恋愛は半ば義務化しているといっていい。その証明として、アミューズメント産業や食品産業がクリスマスやバレンタインを「市場」として捉えていることは今更言うまでもない。 パートナーが居る、ということがある種のステータスとなり、反対にパートナーがいない人間はどこか欠陥しているという認識を持たれる。その現状を、当然のものとして人々が受け入れていることは言わば不気味なことだ。

男性学の課題は、問題を問題として認識することが第一の関門であると僕は思う。

そもそも「らしさ」というものについて男女間で認識を共有できていないという指摘もある。

女性は痩せ形のモデルに憧れることに対し、男性はふくよかな女性を好む。逆にボディビルダーに女性は強く反発するのに対し、男性はそれほど反発しない。

これは『女性学男性学 ジェンダー論入門』(伊藤公雄 樹村みのり 國信潤子共著 有斐閣 2002年)の一部要約である。

これが正しいとするならば、男女共に異性の視線よりも同性の価値観を重要視しているとも考えられる。男の話をする女は、大抵女に対してその話をしているのである。

異性との交際がステータスであり、価値観を同性寄りに設定するのであれば、それは同性に対する自己演出の一環、言わばパフォーマンスとしての恋愛である。異性との恋愛は、同性という観客に向けて繰り広げられるものなのだ。

現代の若者達は主に同性という社会からの承認を求めており、その手段として恋愛をとっている。そして、それを相互に確認し合うことでアイデンティティを獲得していくというプロセスを持っているのではないか。大きい話をするわけではないが、晩婚化や少子化の要因の一部として、あるいはこの意識の変化が影響しているのかもしれない。

まとめ

以上の全てを文脈として捉えると、男女の「生きづらさ」はむしろ同性同士の間に生まれているものであるように思える。互いに悪循環を構成し、真の意味で「自分らしさ」を求めようとする時代の流れにうまく対応できていない。僕らの根底に存在している男女不平等感がさらなる不平等を生み、ステータスやアクセサリーとしての恋愛を互いに求めていることになる。

当然、「自分らしさ」というものを求めることについての是非はそれぞれの意見があっていい。しかしそれを望む人々にとってはこの問題は大きな壁として立ちはだかることは確かだ。

グローバル化が進み、文化の進化はさらに加速していく。その中でこの問題は取り残されてしまう。人々の認識を深めない限りは表立って何か事が起こることはない。解決すべきであるか、放置すべきであるか、安易な結論が出せる問題ではない。しかし、表面化しづらい問題こそが更なるうねりを生み出すのは世の常だ。「生きづらさ」に苦悩する僕ら自身が作り出す「生きづらさ」は、果たしてこれから僕らに何を齎すのであろうか。少なくとも僕は、この問題を認識する人々が少しでも増えることを望んでいる。

そしてなにより、なんかいい感じにかわいくて性格も良い女子高生がぼくの生きづらさを心身を持って解消してくれることを望む。

舌を舐める

やりたくもないことをしていると、自分自身とか自分の人生がどんどん摩耗していくばかりな気がしてしまう。

くだらない飲み会に使う時間も金も、全部人生を犠牲にしているって考えちゃうとなんだかね。 こんなことのために働いているのか、という命題からはこの先もずっと逃げられないのかもしれない。

じゃあ逆にさ、これをしている間は削られないっていうことはあるのかな。ふと今までを振り返って来て、これをしてよかったとか、これだけをしてたいとか。そんな風なことがあったろうか。

まあなんとなく楽しかったこと位は俺にもあるけれども、しかしそれが人生最高の瞬間と断言することは出来ないな。

その言い方をすれば、一方ではこの先の人生に希望を持っていると捉えることも出来る。けれども、これまで至上の瞬間を感じていないと捉える方が俺にとっては自然だ。

モテたくて始めたバンドのライブが成功したとき、まさに理想といえる女の子をみた時、友人とバカな話をしているとき。 全部素敵で嬉しい体験ではあったけれど、なかなかそれが最高だと言い切ることは難しいね。

時とともに精神は肉体は摩耗していくだなんて哲学的なことを言いたいわけではなくて、なんだかもっと「なんとなく自分っぽいもの」が削れていっている気がするんだよね。

例えば今まで、何かをしたいという気持ちと、何もしたくないという気持ちの総量を測っていたとしたら。何もしたくない、が90%以上を占めると思うんだよ。 よく、幸せと不幸は結局プラスマイナスゼロになるとか言うけれども、今のところそんなことないと思うね。今不幸だから、この先それが補完されるとバカみたいに信じる奴はいないよ。例えそう信じるしかない状況に陥った人がいたとして、なんならそれこそが人生最大の不幸だと俺は感じる。

自分が摩耗しない時間とか空間とか行為って、一体なんなんだろうね。空気に触れているだけで石が風化するというのなら、呼吸をしているだけで人も酸化するだろうよ。

俺の話をすれば、ガリガリとエネルギーを削って、足りなければ身も心も差し出して。そうやってボロボロになった先に、きっと何もしなくていい空間、あるいはそれをくれる人が存在しているという希望に縋ってなんとかやってきた。 それがアルビノのように白くて細くて華奢で貧乳で俺のことを好きすぎてたまらない女の子であったり、そのこの胸のなかであったら尚いいと夢見てなんとかやってきた。

でも現実はさ。 たとえそれに近い女の子がいたとしても、男は守らなければいけないとか、俺にそんな魅力があるのかとかさ。そんなふうなノイズが鼓膜の中から鳴り続けているのさ。

やってらんないよね。 電車の2両先に座る女の子でも好きになれるこの俺が、なんでこんなにも好かれないんだろうか。身を捧げるばかりで、いつもいつも何かをくれる人とすれ違ってしまうんだろうか。

最近マジで、 可愛い子はもう乳首だけでも舐めさせてくれればいいのにと思う。 俺は女の子を舐めている間だけは人生を摩耗させてないんじゃないかと思っている。

結婚報告とかプロポーズ報告とかをSNSで見たときに覚える嫌悪感について。

プロポーズ報告とかマジでキモいと感じちゃうんだけどさ、 いやお前それ完全に妬みだろって言われたら何も言い返せない。 でも本当はそうじゃなくてもっと本質的に気持ち悪いモノを感じているのに、 何かコンプレックスが疼いてむしろ黙ることしかできなくなっちゃうんだよね。

で、なんなんだろうねあの気持ち悪さは。 他人の幸福が嫌いだとか他人の不幸が好きだとか、 別にそんなに性格も頭も悪くないつもりなんだけれど。 それこそこういうSNSだったりFacebookでもあるじゃない?プロポーズ報告とか。 なんかさ、どんな関係性の相手だとしてもその気持ち悪さは変わらないんだよね。 親友でも後輩でも先輩でも知人でも等しく気持ち悪い。 もちろんそれで人を嫌いになるとか、祝福しないとかそんなバカみたいなことはしないよ。 ただ本当に、気持ちが悪いんだよ。

2chとかでもあるじゃん、ほんわかエピソードみたいなの。 ああいうのも心底キモくてしょうがない。 その根底にはきっとさ、ああいう話がある程度世間を意識して対外的に作られた話だっていうのがあるんだと思うんだよね。 簡単に言うと、良い話としてその部分だけをまとめてるのがクソ気に入らない。 そんなアホみたいに綺麗で出来過ぎた話、信じらんねえよ。

お互い人生のパートナーとして共に成長していきたいとかさ、胡散臭いというかもうそれ本気で思ってるわけないじゃん。 そんな見栄えもよくて恥ずかしくない完璧な関係なんてさ、もうゆっくりと壊れていく未来しかないじゃん。 そんな物語なんてもう殺すしかないじゃん。 そうしないと話動かないじゃん。 そんな青春なんてもう殺すしかないじゃん。 そうしないと耐えられないじゃん。

だからさ「嘘ばっかり言ってんじゃねえよ」っていう気持ち悪さなんだよね多分。

人の汚い部分をみて安心する程頭が病んでるわけでもないけどさ、

綺麗なモノに簡単に騙される程心が病んでるわけでもない。

その場で取り繕うことも祝福を強制させるなんてことも、 どっちも本当に幸せな人間がすべきことじゃあないと思わない? 本人もやりたいわけじゃなくてやらされてるんだろうけどさ、文化だとしても意味わかんないよね。

お互いに気持ち悪いことだと知っていながら綺麗な関係を描くなんてさ、すげえ悪趣味な社会だよね。 悪魔じゃねえんだからそんなに人を騙すなよって思うわ。 地獄でもないんだからそんなに人を騙させるなよって話でもある。

で、その気持ち悪さにかなり近いものをもし自分が出してるとしたらさ、 「うるせえよ」っていうものなんだろうね。 皆が皆当たり前のようにやっている儀式とか儀礼とかをいちいち掘り下げてキモいとかいってるわけだしね。そりゃうるせえよ。

もちろんここに書いてるようなことはあんまり現実世界では話してないけどさ、世の中というか社会というか文化というか、そういうものってクソ気持ち悪いこと多くねえ? 最近本当気に入らないんだけど。だからってどうこう出来る問題じゃないのもまた気に入らない。 円滑さってそんなに快適か?自由って本当に自由か?みたいなそんな頭の悪そうな疑問ばっかり抱えてる。

いつも何かにキレてるってほどでもないけど、いつも何かに批判的姿勢というか批判的疑問は持ってるわ。

あーもうリアルとか殺すしかないじゃん。

踵を鳴らせ

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ハードコアとかいいながら前戯で終わるAVどうにかならないんですか? コスプレとかいいながら全裸になるAVにようやく慣れたというのに、また一つ社会の欺瞞に踊らされてしまったよ。

そんなわけで、セックスの仕方ってどこで覚えたんだろうって話。

性教育はおかしい。

愛があふれて性行為を行った結果、子供が生まれる。 僕らが教わるのはいつもいつもそんな核心から離れた話だ。 じゃあキスの種類や前戯の流れ、フェラチオの仕方からコンドームの付け方まで、僕らはどこで知ったんだろう。

学校は、何より役立つはずの具体的な作法を教えてくれない。 けれど、精嚢だとか卵管だとかそういう勉強的な言葉よりも、Gスポットだなんていう実践的な言葉についての方こそ僕らはよく知っている。 それって不思議なことだと思わないか。 僕らはこの学校では教わらないはずの知識を、いつどこでどうやってここまで共有してきたのだろうか。

僕は童貞だけれども、しかしセックスの順序を言語化して説明するのはさほど難しいことじゃあない。 各部位を俗語で示す語彙は、本当に気付かぬ内に身につけていた。 友達と下世話な話ばかりしているからなのか、そういう問題ではないのか。 これだけ異性に触れてこなかった僕でさえ、一から十までセックスを説明出来るなんて、よく考えるとおかしいよね。

この間、加藤鷹というAV男優が書いた本を貰った。 そこには実践的なテクニックなどが解説されてはいたが、どこかで「ここまでは知っているはず」という読者への期待が含まれている文体だった。 Gスポットの位置なんて実際に触って見ないと分からないよ。 けれども何故かその言葉が意味するものは知っているんだ。 知っていても、ただ知っているだけ。 百聞は一見にしかず、ってやつがこれほどまでに相応しい行為もないと僕は思う。

今の時代で言えばAVだとか友達の話とかで、ある程度刷り込まれているというところはある。 ムードを作るのも手で愛撫するのも口で愛撫するのも言ってしまえば全部シミュレーションできてしまう。

もしも全くそういう知識がない状態の人がいて、その人にエロ本を見せたら興奮するんだろうか。 本能的にするはずだっていう話も確実に一理以上はあるけれども、本能って本当にそんなに強いだろうか。 本能的に分かるはずだからセックスのことは教えないでいいって、本当のことなのだろうか。 異性と恋愛し、恋愛の果てに結婚をしセックスをし出産するさせる。 そんな恋愛至上主義的な性教育を受けてきた僕らに、まだそれほど強い本能は残されているのだろうか。

使い方も知らないのに異性の性器を見て興奮し、その正しい使い方をなんとなくで導き出せるほど僕らが本能に従順な奴隷であるとは思えない。 それが愛情表現だとしらないままに自然と唇を合わせるなんて、今の僕らにはきっと出来ないことだと思うんだ。

それで。

セックス専門家でもない僕がこんなことをいうのはアレだけれども、セックスって毎回毎回挑戦だと思うんだよね。 この人はどこが気持ちいいんだろうとか、これはあんまりすきじゃないんだなとか、まあそうやって練習を積み重ねていくわけじゃん。

そんな中で疑問なのはさ、よく「セックスが下手」とか言うじゃん。

それって行為自体が下手とかそういうことじゃないと思うんだ。 経験と挑戦と組み合わせと相性、これらが全部うまく噛み合わなかっただけで、それが前の人のベストだったこともあるわけじゃん。 大体こういうことを言われるのは男の側だと思うんだけど、大変だよね男の人って。 相手によって変えないといけないことを手探りで確かめて、それでダメだったら一回きりで下手くそとか言われちゃうんだもん。 女が受動、男が能動っていうのは日本のセックスの悪いところだと心底思うよ。例えそれが生物学的根拠に基づいていようとね。

だから何が言いたいかっていうとさ、 あの子もあの子もセックスしまくりなのはもうわかったからさ、あいつらどこでセックス覚えたんだよっていう話。 セックスなんて興味ないっすみたいなツラしてるくせに情報収集だけは欠かしてないとすればそれはそれですげー興奮するんですけど?

年をとったと感じる瞬間と、可能性。

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フェラシーンなんていつも飛ばしていたはずなのに、むしろ今は好んでそこだけを見るようになった。流れ行く時と性への諦めに思いを馳せる毎日だね。

いつからだろう、一度の射精で満足をしなくなったのは。今日はこの同人誌でオナニーをしようと決めていた筈なのに、どうでもいいサンプル動画などであらかじめ一度目を済ませてしまうことが多くなった。

中学生の頃のような妄想に耽る根気も情熱も、いつの間にか僕は見失ってしまっていた。揺るぎない愛情を絶え間無く性に注ぎ込むことで、あの頃の僕は自分をごまかしていたのかもしれない。

息をするにつれて太くなっていった親指をふと見れば、年輪のような模様を皮膚が描いている。この波紋になんの意味があるというのか。 それは決して抱いてきた女の人数などではなく、ただ単に摩耗した僕の精神を嘲笑っているだけにすぎない。

ベンチに座りコーヒーを飲めば、いつか夢見た大人らしい大人のポーズが出来るようになった。望んでいたものはこんなものだったか、欲しかったものはこんなにも空っぽのものだったか。 夕暮れ時の儚さを慈しみ、朝焼けの輝きに酔う。目を凝らすことなどせずに、惰性にまかせて旅立ちを夢見るばかり。大層なえんじ色をした巾着袋を脇に、ひたすらに駆け回っていた僕の幼少時代は一体何色を必要としていたというのか。今ではもう、思い出せないけれど。

人間模様を観察して、何か社会のことがわかったような気がして。大言壮語をすれば幾らか迷いが消えるような、そんな記憶をしおりにしていた。 ややもすればオナニーばかり。火を見れど岩を握れど僕は反抗などせずに苦しみに順応するばかり。 許されるならば見ていたい。ただひたすらにフェラ動画を見ていたい。それは決して間違いなどではなかったと、気が付いた時にでも笑いたい。 なにも伝わらなかったのならそれでいい。何も作り上げない日々だとしても、社会でつちかったこの間抜けな面で流してみせる。それを誰かが望むのなら、僕はそれくらいやってのける。 可能性など信じちゃいない。けれどもそれを捨てるほど霞を食してはいない。無限の可能性だなんて耳障りのいい言葉に、今でさえ希望を見出しているのだから。

炎症を起こした足の裏に、糜爛した健全な精神。これ以上何が必要だというのだろう。重力は、十分に僕に幸福をもたらしたと言える。 精液はだらしなく垂れ下がる。その勢いは生命力を感じさせない。けれども何億もの命がそこにあるのだと人はいう。ならば銀河というものもこんなものなのかもしれない。可能性なんて便利な言葉、僕には捨てきれないよ。

歯が全て抜ける夢を、不吉とは思わない。こうしている時間を、無駄とは思わないのと同様に。 虫に刺される夢を、下らないとは笑わない。喜びを感じた瞬間など、すぐに忘れてしまうのと同様に。 腐った林檎の写真を取るならばいくらかカメラが必要で、塩を舐める悲しい友人から奪い取らなければならない。脱げない皮を大切に思うのなら、むしろこういうものを捨てなければいけないと、自分でも分かっては居るのに。面倒はいつでも嫌いだからしょうがないね。

フェラ動画をください、僕にフェラ動画をください。

食傷気味の鰐とノスタルジア

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夕暮れ

世界の終わりなんて早々来るもんじゃあない。

ノストラダムスにマヤの予言、2000年問題なんかを経験した現代人には、そう気付いてしまっている人が余りに多い。

けれど一方で、本気で世界の終わりを願う人もまた余りに多くいる。

なんとも皮肉で可笑しいことだと思わないか。僕は本当にそう思うし、これから先もそうなんだと思うと何処か世界に安心する。

そういう話。

僕はオカルトが好きだ。とはいえ本気で幽霊だとかパワースポットを信じているわけじゃあない。現実的にそれらを意識するような経験も才能もないから、信じたくとも信じきれない。そう考えると本気でオカルトを信じている人は、特別な何かを持ち得た人なのかもしれない。

例えば一生をUFOに捧げて果てるだなんて、本当に才能だとしか言えないもんだろう。そんな大それたこと、僕に出来るわけがない。他人の運命を占うだなんて、何も知らない僕がしていいことではない。

才能は適切な場所で生かされてこそ意味がある。これは僕が生きた短い時間で見出した唯一つの真理だといえる。 その点オカルトに熱中できる彼らは世間からいくら笑われようとずっと尊い場所にいる。夢物語のような不確かなものを信じているとして、それを内的に世界という単位にまで昇華させているのなら、もうそれは一つの現実と呼んでいい程の質量を持つだろう。

世界というのは迷惑なもんで、角度によって中々難しい表情を作る。僕と誰かがたった二人で存在している世界があるとして、結局のところ僕はそこに広がる無限の世界と対峙しなければならないことに変わりはない。人が二人以上いればそこにはどうしても社会というものが生まれてしまうから、僕はそんな状況でさえ、したいことだけをする人生などきっと送れない。

自分だけの世界、だなんていう言い回しがあるけれども、そんなものは存在しない。絶対に存在しない。UFOを追う彼も幽霊と踊る彼女も、彼らの中では何かしら対峙するモノが確実にあるはずだ。宗教家にとっての神が確実に存在するように、彼らにとっての相手はいつも彼らを見つめているものなんだろう。世間だったりお金だったり恋愛だったりを必死で追う当たり前の人々と、彼らは一体どう違うというのか。僕らと彼らでは、当たり前のモノが違うってだけの簡単な話なのかもしれない。

だとすれば、当たり前の僕は果たして何を追っているんだろうか。どんな才能があるんだろうか。その才能を持って、何と対峙し夢を見ているのだろうか。そんなことを胸に抱きながら今もなお、僕は女子高生の裸体を映す薄汚れたディスプレイを眺めている。