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社員に「クリエイティビティ」,「イノベーション」を求める企業と支払う対価について

銀の弾丸、クリエイティビティ・イノベーション

クリエイティビティという言葉の功罪、またその陰にあるクリエイティブでない仕事の重要性についてはtechcrunchに良い記事があったのでそれを紹介する。

クリエイティビティの罠――実務的な業務の重要性 | TechCrunch Japan

クリエイティビティは今やクリエイティブ職にのみ求められるものではない。営業、エンジニア、ディレクター、デザイナー、マネージャー、経営者。様々な職種の人間が多方面でクリエイティビティを発揮し、日々の業務やはたまたビジネスそのものにドラスティックな転換、言い換えるならばイノベーションをもたらすことが求められる時代となった。社員のクリエイティビティを高める方法を書いた本が経営者に売れ、自身のクリエイティビティを高める生活習慣ノウハウを書いたコラムが当然のように読まれる時代、各個人が社会に対しインパクトのあるイノベーションを起こす時代。

率直に言って、本当にそんな時代が来てるのか疑問に思う。僕が知る限り、僕の身の回りで個々人がクリエイティビティを発揮して破壊的イノベーションを起こしまくるような社会や組織が構築されたことはない。体面上そういったことを推奨する組織に属していたことはあるけれども、それは具体的な計画や還元に基づくものではなく建前として掲げられたものであったし、悪く言えば先進的な言葉を表面上取り入れただけの古びた夢想を個々人に押し付けようとしているだけだった。これからはコミュニケーション能力の高い人間を採用するといいらしい、これからは高いクリエイティビティを持つ人間を採用するといいらしい。なんとなくそんなような採用目標が立てられ、大して給与も上げずにより時代にあった能力の高い人間を採ろうとする。それで本当にイノベーションや高いクリエイティビティを持つ組織が出来ると思っているんだろうか。高いクリエイティビティでイノベーションを起こし続けられるような人間が何故今更、杜撰な理想を抱く組織を必要としていると思うのだろうか。

リーダーシップがあって、クリエイティビティもあって、努力を惜しまず会社に貢献してくれる人材。断言しよう、そんな人間はいない。万が一いたとして、常識の範囲内の安月給で御社だけに雇われる理由がない。僕は本格的な採用には関わったことのない人間だが、無知を承知で言わせてもらう。企業というものは人を採用する際何故か自分のことばかり考えてしまい相手の視点に立てなくなってしまう。どんな人材が欲しいか、その一点のみで採用活動を進めてしまう。企業というものは利益追求のための組織であるから、企業が欲しい人材を企業が出したい金額で募集をかけるのは当然のことのように思えるが、しかし自分が欲しがっているものを正当に評価出来ていない点は僕からはとても歪に見える。欲しいものがいくらするのか。それをまともな感性で調べることも、まともな頭で想像することも出来ないなんてそこらへんの子供にも劣る愚かさだ。欲しいものの値段、扱い方、どう使うと役に立つのか、自分にそれが扱えるのかくらい調べてから欲しいと言いなさい。

クリエイティブ、イノベーティブな人材というのは、それさえ有れば現状を打破し得る銀の弾丸かなにかと勘違いされている。それは確かに銀の弾丸になり得るものかもしれない。しかし果たして、あなた方にその弾丸を扱う度量、環境、技術、支払える対価、銀の弾丸銀の弾丸足らしめそれを維持させる準備があるのか一度胸に問うてみるべきだ。

ライフスタイルを売る、という商売について感じる愚かさ。または私は如何にしてリクルートを嫌悪するようになったか。

"ライフスタイルの提案"という欺瞞

都会の喧騒から距離を置き、田舎暮らしをしたい。シリコンバレーで最先端のテクノロジーやビジネスに浸りたい。しっかりとしたキャリアパスを計画し、若くして家を持ち犬を飼い明るい家庭を築きたい。組織に属さず、自由なノマドライフを謳歌したい。

結構、大変結構なことだ。このように、現代社会には様々なライフスタイルのモデルケースが存在している。当然人々が各々の理想とする人生を送れることは個人にとっても社会にとってもこの上ない幸福だ。絵に描いたような理想の人生を志し、より理想に近づけるよう一層の努力を重ねる。ぐうの音も出ない程に素晴らしく、反論の余地もないことのように思える。

しかし、僕は"ライフスタイルの提案"という言葉に対し、端的に言って非常にムカついている。

そもそも、先述したようなテンプレート化された理想のライフスタイルなんてものは所詮モデルケースであり、提示された選択肢でしかない。僕が引っかかっているのは正にそこだ。僕は重篤な厨二病患者でありまた理想論者のはしくれでもある。そんな僕からすれば、理想というものは決して、いくつかの選択肢から選び取るようなものではない。理想や自身の人生やライフスタイルというものは、須らく自らの意志と論理でゼロからフルスクラッチで構築していくべきものであると僕は信じている。いくつかのそれらしいライフスタイルを提示されたとして、それを理想のライフスタイルであると盲信して人生を既存の選択肢に寄せるなど愚かとしか言いようがない。自らが創造していない理想など、いくら体裁が整っていようと借り物に過ぎない。たった一度きり、何にも代え難い貴重なあなただけの人生をそんな欺瞞に満ちた借り物でしかない理想に寄せるだなんて、本末転倒だとは思わないか。

ライフスタイルという言葉はそもそも個人の生き方を示す言葉であり、多様性を示す意味合いが強い。即ち、先述のようなテンプレート化、パターン化という行為は本来の意味合いの対極に位置するものである。だからこそ僕は"ライフスタイルの提案"というような触れ込みを目にすると本当にイラっとしてしまう。人の生き方をさもそれが最良かのように提案するなんて、恥を知れ。

極論ではあるが、雑誌やテレビなどの各メディア、あるいは広告代理店の目的は流行を作り出すことにある。それらは確かに人々の生き方、社会性、文化やコミュニティを変革/創造する非常に生産的な仕事であるといえる。彼らの仕事、彼らが作る流行というものは人々を動かし社会に何かしらのストリームをもたらす。これは偉大なことだ。彼らのお陰で文化や社会が育つ側面がある。そんなことは分かっている。しかし、人の生き方についてまで流行を作り、人々の理想を誤認/錯覚させることはどうしても気に入らない。気持ち悪い。ニーチェじゃないが、作られた規範になぞらえて意志もなく生きる人間は家畜以下の存在だ。人が敷いた理想に乗っかるなよ、破綻するから。破綻した時にどうせ、人のせいにしてしまうから。何もかも、自分で考えろ。僕はライフスタイルを売る商売を決して許さない。その商売をしている人でなく、その商売そのものを許さない。

僕がリクルートを嫌いな理由

リクルートという会社は凄い。受験、就職、引っ越し、結婚、美容、地域、グルメなど人生のあらゆるイベントに食い込んでお金を儲けている。だからこそ僕はリクルートが大嫌いだ。機会さえあればリクルートで一度働いてぶち壊してやりたいくらいに嫌いだ。リクルートは、人生の節目に一々出てきて本当にうんざりする。リクナビ、SUUMO、ゼクシィ。何よりムカつくのはリクルートのそれらのサービスはほぼ一強といっていいほど力を持っていて、リクルートが嫌いな僕から見ても本当に凄いサービスだ。今の日本で、一度もリクルートに関わることなく生きている人なんて本当に極少数なんじゃあないだろうか。

うだうだと書いてきたけれども、人間というものは簡単な方に流されやすい。のび太くんがすぐにドラえもんに頼るようになってしまったように、もうそういう風に出来ている生き物なのだ。だからこそリクルートは強い。人生におけるほとんどの大変なことを強力なサービスで手伝ってくれるから。これだけリクルート嫌いな僕でさえ人生の節目にリクルートがアプローチをしかけてくると、彼らが提供する価値が本当に心の底から理解できてしまい、流されそうになる。もうリクルートに人生を任せれば全てのイベントをつつがなくこなしてくれるんじゃあないかって。だからこそ僕はリクルートが大嫌いだ。一々僕の人生に出てこないでくれ。どうしても僕の意志は弱く、ニーチェの言う超人にはなりきれないから。リクルートの思うがままに動いてしまう気がするから。

人生に深く関わってくる会社は、本当に嫌いだ。

人に好かれる人と嫌われる人

初対面から好かれる人ってすごいけどそんなに得はしてないんじゃないか

二十といくらかの齢を重ねてようやく知ったこと。どうやら多くの人にとって、僕の第一印象はかなり悪いらしい。そんなに無愛想にしているつもりもないし、面白い話が好きなので自分では割と笑顔でいることが多いような気がするのだが、基本的に陰気で全てを見下していそうな奴と思われるらしい。まあ陰気なこと自体はそんなに間違っていることでもないんだけれど、ある程度のものはあるにせよ、全てを見下してなんかいないし、初対面の人は大抵自分より凄い人なんだという認識で接するようにしている。それでも、やはり僕の第一印象が良くないということはまあ僕自身がそれを知り得た時点で事実だと認めざるを得ない。

そんな僕から見ても、明らかに第一印象から話しやすく、この人はいい人だと思わせる人がいる。これってすごいことだと思う。営業マンだったら仕事の経験から身につくものなのかもしれないけれど、アプリオリなものとして印象の良さを持っている人は凄い。なんでその人たちは印象が良くて、僕の印象は悪いんだろう。才能だと断じるには努力が影響できる余地を感じるし、努力だと断じるにはそんなに意識してなさそうな人もいる。きっと才能と努力の兼ね合いと、それに加えてその人がおくってきた日々や暮らしの重みみたいなものがどうしても漏出してそう印象付けているんだろう。

しかし一方で僕は、第一印象が良い人についてすごいな、と思うことはあれど必ずしもそれが良いことだとは思わない。僕の第一印象がどうやら悪いらしいということは最近知って結構ショックを受けたんだけれどもまあそれは良いとして、じゃあその第一印象を良くしたいと僕が熱望しているかというとそこまでではないのだ。

普通の人が不自由な人や老人を助けるより、ヤンキーみたいな奴がそれをする方が評価される。度々おかしいとされるこの風潮は、しかし現実では良くあることだ。人は、善いにせよ悪いにせよ、受けた印象とズレた行動を取る人に注目する。生徒と関係を持った教師が、聖職者たるべき職業なのになんて奴だと注目を集めるのと同様に、第一印象が良いとその後の行動で落胆や軽蔑を招きやすくなると僕は思う。一度善のラベリングをされた人は善としてあることを求められる。これって結構大変なんだろうな。

僕は恐らくそういった意味では、ヤンキーが人助けをすると異様に褒められるそのおかしな風潮の恩恵を受けている側の人間だ。僕には、数は少ないがとても親密な友人と言える人が数人いる。実は、そのほとんどが最初は僕のことを嫌いだったり苦手だと感じていた奴なのだ。それなりの時間を共に過ごしていく内、あるいはほんのささいなきっかけから、彼らは僕を"見直した"。そう断言するのは少し烏滸がましい感じがして心苦しいが、しかしこれは彼らがもし僕が考えているように僕を友人として認めてくれるのであれば、明確な事実だ。

好きの反対は嫌いではなく、興味がないことだとよくいう。そんな使い古された言葉に迎合するなんて僕としては些か不満だけれども、あながち的外れではないんだろうと思う。僕は今月新しい会社に入って、何人もの社員に挨拶回りをした。その中で、第一印象が普通の人とか良い人そうだなって位の人は正直全然記憶に残っていない。しょうもない奴だなとか、怖い人だなとか、なんかすごそうだなとかそういう印象の人こそよく覚えていて、人間的に興味をそそられている。それは僕がひねくれているからとかそういうことではなくて、「なんでこの人はこうなんだろう」という自分との差や世間一般で言う"普通"からの逸脱に対して持つ疑問、またそうなった経緯や結果として得た人間性の実像をより知りたいという好奇心がそうさせているんだと思う。わからない、ということは好奇心を呼ぶ。わかる、ということは共感を呼ぶ。あとは感情の強さと頻度の話だ。少なくとも僕にとって、好奇心と共感では圧倒的に好奇心の方が瞬間最大風速的には強い。そして、炎上マーケティングという手法が流行ったように、人は賛同より批判をする時の方が実際に行動を起こしやすい。ブログも同じで、あるあるネタやまとめみたいなことを書くよりもずっと、的外れなことや非常識なことを書く方が明らかにリアクションが大きい。

共感も決して弱い感情ではないのだが、"そういうことってあるよね"という程度の共感ではやはり人を行動に移させるには力不足で、"なんで?"という探究心、好奇心、言ってしまえば反発心もあるかもしれないが、そういった感情の方がよっぽど人を動かせるのだ。性善説性悪説の話をしたいわけではないけれど、やはり人は自分と違うこと、自分にとって都合の悪いことにはすごく敏感だ。それは自己保身の為かもしれないし、人や社会にこうあってほしいという崇高な想いからくるものかもしれない。勘違いしないで欲しいのは、批判や指摘をすることで自らの正当性や善性を確かめようとする人間のその愚かさみたいなものを貶めたいというわけではない。むしろ僕はそういう人の人間らしさみたいなものを愛おしく思っているし、批判する人の批判をして僕が正当性を確かめたいとかそういうメタ構造に陥りたくもない。経験的事実として、人は批判的な時こそ行動を起こしやすい。

さて、今日は会社の忘年会であった。僕が「変な奴だな」と感じた人に対し取った行動は"会話をする"というものである。これこそが、コミュニケーションの本質だと僕は思う。滑らかでないゴツゴツとした人間性や人間関係や社会であるからこそコミュニケーションというものは必要とされ、価値を持つ。アドラー心理学なんてものはこれっぽっちも知らないし興味もないんだけど、第一印象が悪いということは、恐らく僕にとってそんなに悪いことでもない気がする。なんなら結構得をしているような気さえするのだ。

主人公っぽい人っているよね

「主人公感」という神秘性

そりゃ誰もが自分の人生を精一杯生きてる訳で、各々の人生において自分が主人公であることは当然だし自然だと思う。けれども、僕は"なんかこいつ主人公っぽいなー"と感じさせる人間が一定数存在するのもまた知っている。一つのコミュニティに一人いるかいないかの特別な存在。学生か社会人か、職種や年次、役職やはたまた顔の良さや性格なんてものも全て関係なく、なんとなく「こいつは主人公で、これからもそうありつづけるんだろうな」と僕に予感させる人がいる。主人公感がある人、僕はそういう人に憧れ、彼らをプロタゴニストやプリンシパルと呼んでいる。

彼らはよく"意識高い系"と揶揄される人とは当然違う。かといって"本当に意識の高い人"というのもまた違う。"主人公感"を出せる人間というのはなんというかもっと自然な雰囲気を持っていて、所詮何かを意識して演じようとしているそれらの人間達とは決定的に違うものを持っている。彼らは主人公役をやっているのではなく、主人公そのものなので、むしろ物語にされ演じられる側なのだ。何者かになろうとしている所謂"演者"とは最も遠い位置にいるのが彼らなのだ。それらしい表現は「カリスマ」かもしれない。けれども「勝手に人が集まってくる人望のあるやつ」とかそういうポジティブな要素を持つ人間のみが主人公感を持つかというと、それはそうでもない。

物語に喜劇や悲劇、神話やジュブナイルがあるのと同様に、彼らの持つ「主人公らしさ」のベクトルは人によって本当に様々だ。暗澹たる道に倒れゆく主人公であったり、自信に満ち溢れ正道を歩む主人公であったり、飄々とした雰囲気を纏い全能を思わせる人間だったり、未熟さの中に果てしない将来性を垣間見せる青臭い人間だったり。僕が今まで見た主人公感を持つ人々には、何一つ共通点がないのだ。何一つ共通点がないように思えるのに、彼らは彼らとしてそこに在るだけで、僕に言葉に出来ない感覚、デジャヴ、リフレイン、追憶と焦燥をもたらし給う。そういった意味では、彼らが持つ唯一の共通点は、僕にそういった感情を持たせる神秘性だと言えるかもしれない。彼らのどこが僕に主人公らしさを感じさせるのか、彼らの何が彼らを主人公足らしめているのか。その神秘性にこそ僕は憧れを抱かずにはいられない。

「大人になる」ということの不可解性

高校のクラスメイト、大学のサークル、前の会社、今働いている会社。今まで僕が所属していた全てのコミュニティや空間に僕が言うプリンシパルたちは存在していた。一つのコミュニティに必ずいる人種というわけでもないだろうから、本当に偶然にそういう人を僕がよく見てきたんだと思う。やはり彼らを近くで見ていた影響か、僕は結構長い間、それなりに強い想いでそういう人になりたいと考えていた。またそうなるべく努力をしていこうとも思っていた。しかし最近その考えは薄れてきていて、やはりあくまで僕は脇役か端役、過大評価して精々アンタゴニスト(敵役)というところだろうと思い始めている。そして例え僕が何かの役割を演じられたとしても、むしろ役割が人の形になったかのようにさえ思わせる彼ら「主人公」との間には、絶対的な隔絶がある、まさしく此岸と彼岸だということを理解し始めている。

なんとなしに、等身大の自分の姿というか限界というか諦めというようなものが見え始めてきているんだと思う。昔は「いつまでも尖った人間でありたい」と考えていたのに、結局そうなれなかったばかりか、「そう成れなくてもそれはそれでいいか」とさえ思い始めている自覚がある。理想と現実のギャップ、という簡単な話ではなくて、理想とするもののそもそもの基準が'スライド'(変化でも退化でも進化でもブレでもなくスライドというのが相応しい)している感覚だ。

友人にそんな話をしたところ「大人になったってことじゃない?」と簡単に片付けられてしまい、なんだか納得がいくまで議論をさせてもらえず、幾許かの寂しさと悲しさを覚えた。きっと、この不満感というか未達感みたいなものさえ僕がプロタゴニスト足り得ない所以なんだろう。友人が言ったように僕が大人になってきているんだとして、僕は自分自身のことなのにその「大人になる」という変化に不可解を感じている。大人になるということは一体どういうことなのだろう。僕は確かに、自分自身に何かしらの波が立っている、「自分が何かになってきている」という感覚だけは持っている。しかし何になっているのかは分からない。だからこそ不可解なのだ。僕はどうやら、なりたかった「主人公」にではないけれど、また違う何かになりつつあるようだ。果たして本当にこれが大人というものなんだろうか。"これぞ大人"という漠然としたイメージは持てるけれど、自分がそうなっていく自覚や道程というものは極めてあやふやだ。人は僕が大人になってきていると言う。しかし僕自身は僕自身が何になりつつあるのか分からない。果たしてそれが善いものなのか悪いものなのか、喜ぶべきものなのか悲しむべきものなのかもよくわかっていない。

別の友人がこんな話をしてくれた。彼に死が迫った時が二つあった。一つは能動的な死、つまりは自殺願望。二つは受動的な死、事故や病によって生が脅かされること。彼は、死という同じ事象に対してのことなのに、出てきた感情や考えが全く違うものだったと語った。それもまた神秘性があり不可解な話だ。

主人公らしい人が主人公としてただ在ることの神秘性、僕が無意識に何かになりつつあるということの不可解性。なるのか、あるのか、なろうとするのか、あろうとするのか。それらはとても似ていることのように思える。しかしその能動性と受動性、ほんの少しの角度の違いが、きっと人の持つ世界や物語、人生そのものに大きな違いを生んできているのだと、僕は最近そんなことを考えている。

大人になっていく友人達へ

友人達よ、僕は既に道行く可愛い女の子や素敵な女性を見かけども昔ほど熱量のある何かしらの感情を抱かなくなった。それは己が精神が無明の闇を破しかけている嘉すべき変化なのか、若き情火が消えかけている忌むべき凋落なのかよくわからぬままなのもまた僕に打ち棄てられるような諦念を抱かせる。また近頃ではそもそもその或る女性が小学生なのか中学生なのか高校生なのかはたまた大学生なのかさえ更に頼りなくなったこの双眸を出来るだけ大きく瞠き漸く的外れな推考に至るようだ。

ふと気がつけば僕は所謂アラサーと呼ばれる世代に至り、恐らくは敬愛なる聡明な我が友人らもまたその事実に気付き始めた頃合いかと思うが例えば僕は先程大手町の乗り換えにおいてたった数段ばかりの階段を登りきる頃には息も絶え絶えまるで蟇のやうに胸や腹をふくらませてはへこませてふくらませてはへこませて、あまりにそれが続くためこのままでは産婆でも呼ばれようかと気が気ではない思いをした。若かろうが老いてようが全盛期であろうが安定期であろうが衰退期であろうが悉く平等に過ぎる時の流れを憎し憎しと呪うことに日々を費やせば、それまた幾らか歳をとる。是非もなし。漸う世俗に疎くなることに無惨を覚えるその老いた性質こそが若かりし日への憧憬を招く悲しさに他ならぬ。最早我々が時間に賜る報いは昔語りに小さき花を咲かすことのみか、子供のすくすくと聡く賢しくなる様を草葉の陰から見守りくすくすと笑みをこぼすことのみか。悲しきは僕に子供をつくる鉄の意志のないことよ。

ニートが働き始めて、一週間が経ちました

ハーフハーテッド・アテンプト

内定を貰ったその日から、入社までの時間を大切に大切に使おうと思っていたのに、結局ダラダラとなにもしないまま入社日を迎えてしまった。「日はまた昇る」というヘミングウェイの本があるけれど、この僕の怠惰はどちらかといえば「夜をただ消費した」と言う方が相応しい。

昨日で丁度、ニートだった僕が働き始めてから一週間が経った。社内エンジニアとして、細々としたバグや要望を改善しながら少しずつサービスの全体像を把握しようとしている段階だ。プログラムの書き方や設計思想のギャップに驚いたりもしたけれど、今のところはそれほど困ることもなく仕事に励めている。

今日読んでいたプログラムの中に、attemptと名付けられた処理があった。tryではなく、attempt。僕はその命名にどこか共感を覚え、特に調べる意味もない箇所なのにじっくりと読み込んでしまった。attempt。失敗することを前提にしているかのような自信のなさ、散らばったスパゲッティのようなコードを無理矢理ひとまとめにしたその醜態こそが、今の僕にとてもよく似ているように思えた。

うまくいくかの自信はなくて、うまくいかせる根拠もなくて、それでもなんとなく動いてしまっている。プログラミングにおいてこれはとっても悪いことで、すぐにでも直すべきことなんだけれども、何か僕はその処理に人間くささを感じてしまって。なんとなくでニートが就職をするように、なんとなくで労働者が辞職をするように、明確な根拠や証明、保証なんてものがない状態でも人は日々を過ごし生活し暮らしていく。当然、コードにはそんなことは書いていないんだけれど、どこか今の僕の実体そのものが書いてあるような気がした。プログラムを見てこんな感情を持ったのは初めての経験だ。

夜をただ消費してしまった僕も、日を自分の意思でまた昇らせた人も、結局のところ同じ時間を経験していて、行動の美しさや理念の正しさは関係なしに、結果として同じ太陽が同じように同じ大きさで昇るのを見ることになる。本当にプログラムみたい。 僕もこのコードのように、たくさんの感情や思考がたくさんの場所に散らばってもう何が何やらわからない心を作ってしまったけれど、要望やバグを少しずつ改善していく今の業務のように、自分自身のすべてを整理していければいいな

幸せだったよ、と母は言った。

母から、突然の長文メールが届いた。

僕は、心を病んでしまっていたこと、仕事を辞めてしまっていたことの後ろめたさからあまり家族に会わないようにしていた。これまでずっと、心配をかけないよう特に母には自分の状況を伝えていなかった。いや、伝えていなかったのではなく、隠していたという方が正しいのかもしれない。

祖父を喪った祖母のため、先日親戚一同で慰安旅行に行った。僕と母は数年ぶりにそこで再会し、何年もの空白を埋めるかのようにたくさんの話をした。僕も出来るだけ正直に、けれども心配をさせないように、鬱だったこと、仕事を辞めていたこと、それでも今再起しようと努力をしていることを僕が知る最も柔らかい言葉を選んで伝えた。

子に「死のうと思っていた」と言われた親の心境はどんなものだろう。母は心配したのだろうか。今はもう大丈夫なんだと聞いて少しは安心してくれただろうか。言わない方が、母にとってよかったのだろうか。

そんなことを考えて少し不安に思っていると、母は、お母さんもそういう時期があったんだよ、と父とうまくいっていなかった時期の話や子供達が自立してしまった時に感じた喪失感、母親コミュニティにうまく馴染めず閉じこもってしまっていた時期の話をしてくれた。生きたいとか死にたいとか、未来や生活に関する漠然とした不安とか、自分が本当にしたいことがいまだに分からないとか、それがとても恐ろしいとか、そういったことを生まれて初めて親と赤裸々に語り合った。いくら血の繋がった家族といえど、家庭という空間では親や子はそれぞれのそれぞれらしい役割を求められる。息子として求められる規範、母親として求められる規範。僕は僕自身の認識として、社会人一年目の段階で子供としての仮面を外した。子供達が全員自立していき、ようやく母も母親らしい仮面を外すことができたのかもしれない。母と僕の語らいは既に、互いに仮面を外した純粋な個人同士、二人の対等な人間同士のものとなれたような気がした。

僕は母に全てをぶちまけ、母は母で人生の暗い部分を隠すことなく晒してくれた。僕はこのことにひどく安心し、肩の重荷や家族というコミュニティのしがらみ、後ろめたさやぼんやりとした不安の数々が取り払われたかのように感じた。母は自分の人生を恥じることなく受け入れ、僕は僕の人生を恥じることなく送っていく。母と交わした会話の内容は暗い告白に終始したけれど、しかし母と僕の心に湧き出た感情は決してネガティブなものではなかったように思う。

それから幾日か経った後、冒頭に書いたように母から突然の長文メールが届いた。 母からのメールには、こんなことが書いてあった。

「お母さんは、辛い時、しょうきが一緒にいてくれたり、何気なく褒めてくれたりして、乗り切れました。幸せだったよ。しょうきが幸せなことがお母さんの幸せ。」

祖父を喪くして一人ぼっちになってしまった祖母が一回り小さくなってしまったこと、あんなにプライドが高く元気なふりをしていた祖母が車椅子に座ることを恥ずかしがらないようになってしまったこと。きっと母は、祖母の姿を見て次は誰が喪われるのか、そしてその次の順番はおそらく自身の世代なのだろうと感じたのだと思う。「幸せだったよ。」という彼女の言葉に僕はとても衝撃を受けた。なんとなく、死を覚悟した人間の言葉なんだということが分かってしまったのだ。自分にとって死はそう遠いものではない。このメールは、きっと母のそんな気付きから出たものだ。言葉一つ一つにあまりに重い感情がこもっていた。

もしこれが母としての仮面を外した彼女が心底思っている結論だとすれば、僕ら親子はようやく対等に健全に、母と子ではなく二人の人間として、心の底から湧き上がる家族愛を持ち合えるようになったのかもしれない。

親が死ぬ覚悟をした。僕は何を思えばいいのだろう。もしかすると、子供に死のうと思っていたと告白された親の感情と、今僕が抱いているこの言葉にできない気持ちはとても似たものなのではないだろうか。