ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

フリーランスになって知ったこと。そして僕は星になりたいと思った。

泥臭さが必要

去年会社を辞めてから、フリーランスとして細々と仕事をしている。フリーランスと言えば聞こえはいいかもしれないが、潤沢な案件在庫から技術的にチャレンジングなものを選んでカフェでササっとコードを書く、というようなスマートな働き方というわけではない。

自分から案件を探すこともなくはないが、基本的には知人や友人から紹介されたお仕事をありがたく頂戴する形がほとんどだ。それは僕が案件獲得のためにあまり積極的に動けていないというのもあるが、案件を獲得する工程の大変さを思えばそれも仕方のないことかと思う。

クラウドソーシングサービスなどから自分が出来そうな案件を探しても、当然すぐに「じゃあお願いします」となるわけではない。多くの案件がコンペ式となっており「僕ならいくらいくらでこう実装できます!実績はこんなにあります!」というようなアッピールをいちいち考えなければならない。そして当然受注できなければその作業間の時給は発生しないため、タダ働きの時間となってしまう。よしんば仕事を取れたとしても、案件獲得までにかけた時間が多過ぎれば時給は当然下がる。ヘタをすれば高校生のバイトよりも低い時給で労働を行わなければならない状況も珍しいことではない。

となれば、なるべく効率的に案件獲得作業を行うために提案をテンプレート化するなんて誰もが思いつくことかと思う。しかし実際それもなかなか一筋縄ではいかない。なにしろクライアント側のリテラシーや相場観は驚くほどにバラバラで、同じ予算の中でも求められる仕事の範囲とクオリティに大きな違いがあるなんてのはままあることなのだ。

開発案件の相場

実際のところ、IT系案件の相場なんて「言い値」でしかない。案件を投げる側と受ける側のリテラシーや経験によって大きく上下することは言うまでもない。全てのクライアントと受注側が「何日かかるから時給いくらで計算して総額いくら」と正確に判断できるわけではないのだ。となれば彼らや僕らが頼りにするのは結局「前はこれくらいでできた」だとか「今はこれくらいしか出せない」だとか「今回は安くするから継続的に仕事が欲しい」だとか普遍性のない各々の思惑しかない。当然それが悪いというわけではないが、安定した金額感なんてものが存在しない理由はこれで十分に説明できるだろう。

常識は常識に非ず

クライアントの「常識」に振り回されることも多々ある。例えば簡単なページのコーディング一つとっても、画像素材の渡し方、独自コーディング規約の厳守、仕様書の提出、SEO対策としてのaltタグ埋め、ブレイクポイントの指示など、事前に説明のないものを「それ位は常識」という意識で付加される。流石にhtmlやcssのコーディングに仕様書を求められた時は「特筆すべきことはない」と断ったが、動的な要素も特にないページの仕様書とは、一体何を書けばよかったのか、そして何にいつその仕様書を使うつもりだったのか未だに疑問だ。しかし、恐らくクライアントにとっては「納品物」といえばその仕様書も付いてくるのが常識だったのだろう。

簡単に思える「画像素材の渡し方」でさえも個人で活動する上ではかなり大きな不安要素となる。pngで貰えると思っていたところ、超巨大なpsd(フォトショップデータ)が送られてきたことがある。僕としてはpsdの方が扱いやすいのでさほど問題はないのだが、フォトショップを持っていない場合は依頼主に画像化を頼むか自費で買うかしかない。嫌な顔をされながらも必死にどうにか画像化を頼めたとしても、モノに余計なレイヤーが含まれていたりサイズが合わなかったりと、結局何度もお互いの常識をすり合わせながらやりとりをする必要が出てくる。

「常識」のやっかいなところはほとんどの場合それを持つ組織や個人の経験によって無意識的に確立されている点である。そして対外的な明文化がなされていないという側面も付随する。僕らは不可視の「常識」を明らかにし、お互いに合意する段階まで持っていかなければならない。契約してから、または納品してから「思ってたのと違う」という最低な状況に陥らないためにも、なんとかして契約する前に成果物足り得る条件をクリアにする必要がある。このあたりは要求/要件定義のプロセスによく似ている。

僕がソフトウェア開発について学んでいること - ここはクソみたいなインターネッツですね

「仕事を始められる状況」に達することさえこんなにも困難なのだから、仕事を始めればより大きな困難が立ちはだかることは必然と言える。フリーランスの開発案件には「常識」という言葉に包まれた人的、社会的な不確実性がそこかしこに潜んでいるのだ。

そして僕は星になりたいと思った。

このような悩みをフリーランス全員が抱えているわけでは当然ないし、逆にサラリーマン全員が悩んでいないというわけでもない。

しかしやはり、サラリーマンであることの優位性は大きいと感じる。世間的によくない言い方に聞こえてしまうかもしれないが「居るだけでお金をもらえる」という安心感は確かにあり、何ものにも代えがたいものだ。僕の場合はその「居る」こと自体に困難や苦痛があったりするから難しい話になってしまうのだが、普通の人、つまり繰り返し同じ時間に起きて同じ場所に行くことができるまともな人であれば雇われ身分の方がずっと楽だと思う。

やっぱりもう一度どこかに属して働こうかなあ。それよりずっとfalloutやってたいなあ。星になりてえなあ。

カムパネルラとジョン・タイター

 ある友人が「向上心と覚悟の経験がある人がいい」と言った。僕はそれに対し「俺には向上心はないが覚悟はあるぜ」と何の気なしに絡んでみたのだが、その返答として友人から鋭い批判が飛んできてギクッとした。

前に進む覚悟がいいよね、マイナスの覚悟は諦めだから。

 この言葉が僕に対する批判だったのか、友人の独り言だったのかは分からない。もしかするとただ反射的に出てきた言葉なのかもしれない。しかしなんにせよ、僕はその友人について、本当に僕のことをよく理解してくれている人だと感じ入ってしまった。まさしく僕のダメなところを的確に指摘してくれていて、辛辣ながらも深く刺さる至言だ。大人になって、こんなに暴力的でありながら正しく真っ直ぐな批判を突きつけられることはない。懐かしくも新鮮な感覚だ。

 友人の言う通り、僕は前に進めていない。いつからか歳を表す数字に置き去りにされて、果たして時間が進んでいるのかはたまた僕が戻っているのかさえわからなくなった。

 昔、腰を痛めていた頃、僕は痛みから足を引きずって歩いていた。そしていま、僕はまた別の怪我により足を引きずっている。よりによってそんなところまで過去に戻らなくてもいいのにね、気の利かない舞台設定だ。かと思えば、聞くところによると世間では宇宙旅行なんていう夢物語が現実として受け入れられ始めているらしい。進めずに戻りつづけてきた僕は、どうやら思ったよりもずっと未来に来てしまったようだ。その友人はどうなんだろうか。僕とは違い、確かな一日を毎日過ごしているのだろうか。そう何もかもがうまくいくわけはないけれど、きっと僕よりずっと先にいるんだろうし、いてほしい。

 せっかくそんなことを言われたのだし、こんなに足もいたいのだから、僕もそろそろ生き樣を変えることにした。生き樣を変えるといっても、まずは身の回りか環境を変えるくらいの小さい変化になってしまうことはどうか君許してくれ給へ。ここが本当に宇宙にいけるような未来であるならば、僕が想像できる程度の平凡な生き樣くらい無数にあって当たり前だろう。さしあたり、僕はいま僕が最も僕を進ませないようにしていることだと感じる労働の部分を変革する。労働による暮らしの制約を一つ一つ解放していくと僕は決意した。前には進めなくとも、せめて横っ飛びくらいはしてみたいものだ。いい機会になった、至言をありがとう。

君にパッションはあるか?

正義っぽさが恥ずかしい

 パッション、という言葉を聞く度に、何か胸やけをするような感覚があった。それを持っているのはまさしく正義であり、それを持たないのはすなわち悪である、という何かぼんやりとした押し付けがましさを僕の嗅覚が訴えていた。他にも努力、根性、使命、やりがい、生きがい。これらもパッションと同様の香りがする言葉だ。なんというかこう、正義っぽいものを名乗る恥ずかしさというか、ついつい「巨人の星じゃないんだから」と揶揄したくなるような、そんなものを感じる。自身をそのようなものとは程遠い人間だと思っていたし、ンーンー言いながら自身の胸を殴るパッション何某さんをみて、なんとなくパッションというものから距離を取りたくなっていたところもあるかもしれない。

 しかし先日、ある先輩の「パッションという言葉は狂気とも言い換えられる」という話をきいて、何か違った視点を持てるようになった。なるほど、狂気。それなら僕にもあっていいかもしれない。なんだか暑苦しくなくて、恥ずかしくない気がする。正義のヒーローは恥ずかしいけれど、狂気のマッドサイエンティストはかっこいい。ならば探し当ててみせよう僕の中のパッションをということで、すこし考えてみることとする。

"はんたい"を考える

 何かを考えるとき、とても便利な方法が一つある。「"はんたい"を考える」という方法だ。とても簡単な割に効果が高いので、僕はこの方法を好んで使う。ソシュールさんやロランバルトさん、いわゆる記号学記号論と呼ばれるような、とても小難しい講義から僕が得た唯一の獲物だ。ラング、パロールシニフィエシニフィアンなんて言葉は僕には難し過ぎたけれど、この考え方だけは学べた。あの神経質でやっかいそうな試験問題を出す教授の講義を気まぐれに受けてよかった。

 "はんたい"の例を出そう。今日たまたま「漠然とした不安がある」という個人的な相談を受けたり投げかけたりしたので、改めてそれを考えてみたい。

 この方法を使うときのコツは、文字通り"はんたい"を思い浮かべるだけでいい。辞書をひいて正しい対義語を調べる必要はない。自分の言葉で「"はんたい"っぽい言葉」を並べてみるのだ。そこでいうと今回のテーマは面白い。「漠然とした」という言葉や「不安がある」という、はんたいを見つけやすい言葉が複数ある。僕の思う「漠然とした」のはんたいは「明確な」「具体的な」というような言葉だ。そして「不安がある」のはんたいは「安心感がある」と、前半を入れ替えることも出来るし、「不安がない」というように後半をはんたいにすることもできる。では、これらの言葉をそれぞれ組み合わせて使ってみるとする。

明確な安心感がある

具体的な不安がない

組み合わせはいくつかできるであろうが、的を射ていそうなものはこのあたりだろう。ここで翻って元の文章を見てみたい。

漠然とした不安がある

こうして並べてみると、「明確な安心感がある」というのはベクトルや正負が真逆というか、まさにはんたいに進んだ文章になっている。対して「具体的な不安がない」でははんたいではあるけれどもゼロに近い状態、フラットな印象を覚える。なんとなく"はんたい"の言葉を並べて繋げてみたけれど、しかし出来上がった文章の意味が少し違うのが分かるだろうか。

 こうして考えることで、元の文章、つまりは「課題」が解決されている状態を微妙に違う複数のものとして捉えられる。不安を解消すること、安心感を与えること、大きく分けてこの二つの対処法があることがわかるだろう。当然不安を解消すれば自然と安心感が湧いてくることもあるかもしれないし、別の安心感があれば不安なことも減るかもしれない。二つは決して独立したものではないけれど、少なくとも必ずしも同一というわけではないということを認識しよう。

 僕は「漠然とした不安がある」という相談をもらった時、反射でどういった不安なのか探ろうとしてしまった。瞬時に"はんたい"を考えるほど僕の頭の回転は速くなく、どうにか「こうすればいいだろう」という予想を立てて行動を開始してしまったのだ。このように、我々はすぐに「解決された状態」を想像してその方向へ歩き出そうとしてしまう。しかしゆっくりとモノを考えれば「漠然とした不安がある」という少ない情報からでも行動の選択肢を作り出せることを忘れないようにしたい。相手が求めているものが何なのか、伝えられたメッセージはどういう意味なのか、時間をとってでも真剣に考えるように心掛けたい。

 この"はんたい"の話をするときによく用いるのが、日本仕事百貨というサイトのキャッチコピーだ。

日本仕事百貨

生きるように働く

 とてもいい言葉であるのは確かだが、初めてこのコピーを読んだときはよく意味がわからなかった。しかし、この"はんたい"を使うとどうだろう。僕は、この言葉の反対は「死ぬように働く」だと思う。こうするととてもわかりやすい。はんたいの言葉を考えたからこそ、僕はこのコピーに込められた想いに気付けたのだ。

パッションの"はんたい"

 では、パッションの話に戻ろう。なんとなく正義っぽい印象を受けるこの言葉。この言葉のはんたいを考えよう。果たして僕にパッションがあるのかないのか、あるいはその二元論で語るべきことではないのか。

 僕はカタカナ語が苦手なので、まずは日本語に置きかえる。冒頭に話した先輩は、パッションは狂気とも言い換えられるとしていた。ならば、狂気のはんたいを考えればいい。狂気のはんたいで思いつく言葉は正気、正常という感じだろうか。パッションは正義っぽい言葉なのに、狂気のはんたいもやや正義っぽい言葉が出てくる。これらの言葉を自分に当てはめれば、僕は僕を誰よりも正常であるとは到底思えなく、またこんなにも辛いのが正気であると信じたくもない。今のところ正しさとは距離を置いておこう。

 まだ掘り下げたりない気がするので、狂気のなかまを考えよう。偏執、偏愛、猟奇なんかだろうか。それの反対はなんだろう。普通、無興味、無愛なんかだろうか。こちらは対義語らしい対義語が出しづらい。比較的フラットな言葉が自然に出てくる。これらはどうだろうか。僕は普通で無興味で無愛な人間か。いや、なんとなくそもそもそれらが並ぶのも何か変な感じがする。普通の人間が無興味であるとも僕には思えない。そして自分のことを、普通より多少は独特であると表現したい。何より、興味もなければこんなことをこねくり回して考えてはいないだろう。であるならば、僕は偏執の側に立つこととなる。

 狂気のはんたいとは距離が遠くて、狂気のなかまと距離が近い。ここまで考えれば、さすがになんとなくわかってくる。おそらく僕に狂気はあるだろう。それがここまでしつこくこだわる言葉に対する偏執といえるものなのか、ここまで怠惰に語る自分に対する偏愛なのかはわからない。あるいは世界に対する猟奇的な思いなのか、僕は知ることができない。

 そして、パッションが狂気と言い換えられるという話が本当のことだと思えるのなら、ようやく僕は僕にパッションがあると理解できる。本当は、パッションなんてものは正義の言葉でもなんでもなく、むしろそのはんたいに位置する言葉であると理解できる。なぜ僕がパッションという言葉に正義性を感じていたのか、今もどこか自分にパッションがあると認めづらいのか、これはなんとなくわかる。一般的にパッションという言葉がきれいな文脈で使われ過ぎているから拒絶感があるのだ。パッションがあるからここまで来られた、パッションがあるとこんなに頑張れる、パッションを持った仲間と繋がる。これらを全て狂気と置き換えてみればよくわかる。狂人が偏執さを隠さず群れて勝利を得ること、それを綺麗に言っているだけなんだ。狂気だと聞こえが悪いから情熱やパッションという言葉に変換しているんだ。彼らは元はどちらかといえば悪者なんだ。悪者が、勝利した結果を正義っぽく語っているだけなんだ。

 僕にはまだ正義は恥ずかしい。だからこそ彼らがなぜそのようなことをするのかわからないし、気持ち悪さを感じる。よくわからないが恐らく僕と同類なのに、なぜか彼らは正義のヒーローのように振る舞う。嫌だなあ、いつかは僕も、正義のヒーローになってしまうんだろうか。

 君にパッションはあるか?  僕にはどうやらあるらしい。

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労働と人材3.0

前段

 新卒の方のメンター(トレーナー)として半年間後輩指導をし、またプライベートではボランティア活動としてプログラミング講座を開催してきた経験から、労働と教育、ひいては人材について語りたい。

1.0時代

 昭和の時代、もっともっと体育会系の企業が多かった時代。当時は体罰パワハラモラハラなどよく見られる時代であったことは今更いうまでもないことである。

 しかし当然、この手法の全てが失敗であったわけではない。それは特に高度経済成長期において、努力の量と成果が直結しやすい土壌が存在したからそう言えるのである。そして、この指導方法により育まれた優秀な新人達は、圧倒的成果を残していった。すると、その指導方法の正当性が補強されることになる。優秀な彼らをモデルケースとし、それらの教育方法は企業における文化となり綿々と継承されていった。自分もそのように育てられ、これまでうまくいってきたのだからそのような教育を為す。とても自然な論理であると思う。

 ハラスメントや過労、サービス残業の強制など基本的人権の侵害の擁護する気は塵ほどもないが、しかし当時の社会情勢にある種「イケイケ感」があったことは想像に容易い。辛いけれど、頑張った分だけ見返りがある。そう信じられる社会情勢であったのだ。飴と鞭。馬を打つような非常に痛い鞭を打たれる一方で、ヴェルダースオリジナルのようなとてもおいしい飴が目の前にぶら下げられていたというわけだ。

 充分に甘い飴と現在の常識に即した鞭を用意できるのであれば、この手法は優れた人材育成のプラクティスとなるだろう。しかしこの手法の最も難しい点は、指導者となる人間の属人性が高まりすぎる点である。飴と鞭を使い分けるバランス感覚は一朝一夕に身につくものではなく、能力と経験が不十分な人間を指導者とするにはリスクが高い。実際にこの1.0時代の手法をモデルに人材育成を成そうとするのであれば、それを成し得る人材をまず始めに指導者足り得る人間を教育ないし用意する必要がある。

労働と人材2.0

 次に生まれたのが労働と人材2.0とでも呼ばれるべきものであると私は考える。後輩指導2.0と少々領域はズレてしまうが、ゆとり教育のようなイメージに近い。

 1.0の旧時代的なやり方への反発、人権侵害、犯罪の表面化からこのようなものが生まれてきたのであると私は考えている。加えていえば、ホワイトカラーが増え、ホワイトカラー・エグゼンプション領域のような「各個人の生産性の違い」という議論が熱を持ったことにも因果関係はある。

 社会の相互監視機能が向上し、国民の平均的知性も向上した。すると前時代的な教育手法をそのまま流用することは出来なくなってきた。労働者は労働者としての権利を認識し、自衛のための主張をすることは決して常識外れの異端的行為ではなくなった。そして企業側で言えば、多くの企業は公器としての責任を強く請求されるようになった。1.0でのやり方でいう飴も質の良いものを用意することが難しくなり、より企業はがんじがらめの状況に陥っていると言えるだろう。

 現在管理職についているであろう40〜50代の方々はまさにこの変遷の渦中におられるのである。その困惑と途方のなさには非常に共感を覚える。サイボウズ社やその他働き方改革、HR改革を建前上でなく本気で成そうとしている各企業はこの問題と真っ向から戦おうとしている尊い存在である。私は内部事情は知らないけれど、すくなくともサイボウズ青野社長の発言を見る限り、働き方に対する本気度を感じ取った。

サイボウズ社長の青野慶久が官僚を一喝した本当の理由 | サイボウズ式

 話は変わるが、私はここまで敢えて働き方の話と人材育成の話を混在させてきた。なぜなら私の結論は、労働とは人と人とのコミュニケーションによる生産、またそれが内包する人類の社会性内面化作用を指すと考えているからである。この労働と人材2.0時代がもう少し成熟すれば、労働やコミュニケーションに即殺されてしまう新卒や人生を終わらせてしまうような方は減っていくように思う。希望的な観測ではあれど、私は青野社長の言葉を信じたい。

労働3.0

 私はフリーランスになれとか副業をしろとかそういったことを言いたいのではない。残念ながら今もまだ1.0の時代から継承され、さらに2.0で複雑化した労働と人材に関する義務と権利のスパイラル構造、それを今一度見つめ直す時代が到来しつつあるのではないか。そのような一石を投じたいのである。

 大の大人が涙を流し、嗚咽を漏らしながら毎朝定刻に満員電車に揺られることは本当に必要なことなのか?それはルールとしてあるべきなのか。それで心を壊したら誰が責任をとれるというのか。結局のところ自己責任であるというのなら、私が君の息子に同じ扱いをしてみせよう。それでも同じことが言えるだろうか。

 逆に言えば、権利ばかり主張して利益をもたらさない労働者など企業が守ってやる必要などない。会社はなかなか人をクビにできないという。そのルールは本当に必要なのか。毎朝定刻に出社するとがそんなにも重要で、欠かせないルールであると心底思っているのなら、それが守れない社員などクビにしてしまえばいいのではないか。法の力で現状では中々それは難しいことであると理解している。しかしそれももう、時代遅れの悪法とさえなっている面もあるのではないだろうか。労働、それにまつわる社会は今、新しい時代を迎えるべきなのである。

人材3.0

 私がもっとも語りたいことはこの点である。

 私はそもそもヒューマンリソース、という言葉をあまり好かない。人が資源であることは一定は認めるし、人材、という言葉も常用する。しかしこれらの言葉からは何か無機質な印象を受ける。

 生命というものの尊さを語るつもりなどないが、しかし数値で表されるには生命があまりに崇高であることに疑念はない。現在私は「人を育てる」という立場の仕事を任されている。けれど、私は「育て」ているつもりなど毛頭ない。共に働き、時間を共有しているという認識にすぎない。人はどこまでいっても個人であり、個人はどこまでいっても他人を理解することはできない。生命の特異性、言い換えれば崇高さと独立性がこの問題を非常に難しくしている。一人の人間が救える人はあまりにも少なく、あなたは誰かの人生の責任を100%負うことはできない。万人は平等であり、差異があるとすればその場その場の役割の違いにすぎない。たとえあなたの子供であれど、その子は決してあなたの作品ではない。彼の人生や心をデザインはできない。私はこのような理念のもとで、私は教える側の役割として教わる側の方々と共生している。その間に上下関係を産むことのないよう常に意識して新卒に接している。

 時代の変遷により、今を生きる人々が「飴」と感じるものも変化しつつある。それは現金である場合もあるし、彼ら自身の成長である場合もある。何に対して魅力を感じるか、ひいては何を人生の軸に置く人間なのか、社会の多様性の広がりとともにこれらは無限に拡散しているように感じる。

 であるからこそ、企業は1.0のやり方では有効であったはずの「魅力的な飴」を用意することが非常に難しくなって来ている。そんな彼らの成長を手助けしたいというのであれば、まずは彼らの求める飴の全体像を把握するか、そもそも飴以外で彼らのモチベーションと成長促進を促す方法を模索するしかない。自由と束縛、そのような概念の彼岸となる新たな概念を獲得し、人と人としての向かい合い、擦り合わせ、コミュニケーションを我々は取らなければならない。

俺の前で未来の話をするのはやめろ。繰り返す。俺の前で未来の話をするのはやめろ。

 言いたいことは掲題に尽きるのでここからは余談、と今文字に起こしてみて「そもそも余談じゃないことなんて書いたことあったか」と情けない気持ちになった。よって改めてタイトルコールをすることでアニメの最終回的なお茶の濁し方をして自分を慰めることとする。余談の極致ではあるが僕はお茶ならおーいお茶か烏龍茶が好きで生茶はあまり好かない。

俺の前で未来の話をするのはやめろ。

 僕が以前から常々叫んできた主張の一つに「未来のことなんてわかんないんだから、何かを決めつけることはやめろ。生き急ぐな」というものがある。というものがある、と言ってみたものの、いや知らねえよという諸兄の思いも理解できる。だがちょっと待ってほしい。他の主張には「俺専用橋本環奈が欲しい」だとか「水族館の水槽で飼われたい」だとか間違いなく世間の共感を得られる牧歌的なものもあるのでその尊さに免じて僕の話を聞いてほしい。

 未来の話を嫌うようになったきっかけはなんだったろうか。なんとなく最近似たようなことを書いた気がすると思い昔の記事を漁ってみると、二年ほど前に似たようなことを書いていた。

1年後、3年後、5年後どうなっていたいですか?という質問 - ここはクソみたいなインターネッツですね

 尚、二年の月日が流れた今でも全く同じことを叫んでいる僕の成長の無さやすぐ同じ話をしたくなってしまう陰険さなど僕に不利な事実については今回の話と直接関係ないので放っておいて欲しい。

 最近、「不確実性」というなんだかよく分からない言葉が(特にそれっぽい言葉を好むビジネスマン向けの)オシャレワードとして世に氾濫していることは皆様よくご存知の通りである。その言葉を借りるのならば、僕の主張は「不確実性とは向き合えない。諦めろ。」ということになる。また身もふたもない話になってきたが、不確実性なんて難しい言葉を乱用するやつと、それを最先端なものとして崇める社会が悪い(つまり僕は悪くない)。

 そもそもビジネスマンが好む言葉は難しすぎる。なんなんだよビジョン/ミッション/ゴールって。何を指してるのか毎回毎回ググって「ビジョン・ミッション・ゴールの違い」というようなクソ記事をこれまた毎回熟読しないといけない僕の気持ちにもなって欲しい。というかそんなクソ記事がわざわざ作られるような、説明が必要とされる言葉を使うなよ、と僕は言いたい。もっと直感的な言葉を使ってくれれば少なくとも僕にかかるストレスは減り僕が撒き散らす怨嗟もいずれ幸福の鐘の音となり人類の生産性は保たれやがて宇宙に平和が訪れるであろう。これは、諸兄がこれ以上難しい言葉を使うのであれば僕だってよくわからない話を繰り広げるぞという布告、つまりは無慈悲な報復も辞さないという脅迫である。雲が夕日に照らされて美しく輝くこの季節、貴様らにおいてはこのことを臓腑という臓腑に銘じて欲しい。そっちがその気なら的外れな季節の挨拶を小学校の校長のように延々と貴様の母親へと突きつけることも僕には可能なのだから。いいか、これだけは覚えて帰れ。つまりはお前らが悪い。俺は悪くない。

来年の話をすると鬼が笑い俺が泣く。

 話が大きく逸れたのはいつものこととして、掲題の件に戻ろう。今更ではあるが大切なことなので言っておく。僕には、未来はわからぬ。僕は激怒はしないが、未来のことなど何一つわからぬ男だ。今夜食べたいものさえ決められず、未だこの文章の終着点を見据えることもできていない。だが、これは決して恥じるべきことではないと考えている。人間という生き物は理解、把握、掌握できない物事を恐れるものだ。怖いからこそ、計画や規範というものを打ち立て不確実性や未来を制御しようと試みるのだ。僕から言わせてもらえば、そのような人類の熱意ある挑戦はちゃんちゃらおかしい。いやいや無理無理絶対無理だからマジでやめとけ間違い無いっしょといった感じである。

 無理なことを試し続けるその根気というか執念には多少の感動を覚えないこともない。が、まあそれは元気な人がやってください。お願いだから巻き込まないでください怖いから。というのが僕の(負け犬的)思考だ。例えば20年前、携帯電話がこんなにも小さくなり多機能になると絶対の自信を持って世間を口説けた人がどれだけいるだろうか。フリマアプリで現金がトレーディングカードと称されて売買される時代が来ると、誰が予想出来ただろうか。こんな例えは僕に有利すぎて、どこか卑怯に思えるかもしれない。しかしそれは、過去は未来よりずっと確実に決まっており、未来の予測が非常に困難であるとあなたの脳がどこかで認めてしまっていることの証明に他ならない。

 いつ来るか、そもそも来るかもわからないシンギュラリティに期待したり、この仕事はAIに奪われるとか奪われないとかそんな話で無駄に一喜一憂するのはすぐさまやめろ。怖いなら怖いでいいんだから、明日地球がまだ存在しているかどうかさえわからないような未来、巨大な不確実性と無理に向き合おうとするな。何より、それを人に強いるのをやめてくれ。

 僕は、僕なりに人類であることを自認している。つまり、僕は他の人類と同じようにわからないものに怯えている。そんな僕に未来の話をするなど、凶器をちらつかせることと何が違うというんだ。怖いからやめろ。俺の前で未来の話をするのはやめろ。

 どうでもいいけど前半の方が書いてて気持ちよかった。奇しくもこれもまた予想外のことだったわ。  

筋肉かお金があれば人は皆優しくなれる説

 エンジニア界では最早常識となっているが、人間には筋肉かお金が必要である。

筋肉があると生まれるもの

 筋肉は肉体だけでなく精神をも補強する。何か叱責や理不尽を被っても「まあいいかいつでもこいつなんて殺せるし」という鈴木拓的余裕が生まれるのだ。そしてその自信は権力や地位など無形の力に対しても同様の防衛力を有する。ストレスの内的発散である所謂妄想というものは、自身を納得させた方が効果に期待できる。つまり、自己防衛としての妄想は可能な限り現実的である方がよい。であるから、筋肉があれば「あいつなんていつでも殺せる」という妄想に自身に対する説得力を持たせることが出来るのだ。

 では筋肉がない場合はどうか。その場合の妄想内容は「まあいいやナイフ持っててこいつが油断してたら簡単に殺せるし」となる。こんな妄想では必須条件が多すぎる故に「いやまあ無理なんだけど」と自身の理性に負けてしまう。

 余裕が生まれると人はどうなるか。優しくなれる。少なくとも心理的な余裕から無駄に攻撃的ではなくなる(男性ホルモンの影響の問題は多少あるが)。そして、先述した通り自分自身に対しても強くなれる。優しく強い奴なんてすげーモテそうでとてもいいじゃないか。みんなこうなろう。

お金があると生まれるもの

 結論から言えば、こちらも「余裕」が生まれる。嫌な上司にグチグチと文句を言われようが、顧客からクレームが飛んでこようが恋人に八つ当たりをされようが、そんなのどうでもよく思えるのだ。上に挙げた大抵の場合は三億の札束で殴れば少なからず解決への方向に進む。それに、最悪の場合お金があるのならば一人で生きていけるのだから全ての障害から距離をとってしまえばいい。

 お金があるということは選択の自由があるということだ。「選択の自由」というと、なにか万人が持っているべきもののような聞こえがある。しかし根源的にそれは間違っている。なぜなら基本的に我々は、母親の胎内から産まれ出た瞬間から「生きる」ことだけはほぼ強制されているという前提が忘れられている。我々は選んでいるのではなく、選ばされていることの方が何倍も多いと言える。生きるためにはものを食べ、水を飲み、労働、生産、消費をしなければならない。ここで前段の話に戻れば、しかし金銭さえあればこれらの問題は解決できてしまうのだ。金銭を持つことで我々は人類である以上必ず持たされる不自由な自由の一歩先、真の自由の数歩前段階の自由までは獲得できるのである。

 ちなみに私はお金も筋肉も全く持っていない。よって非常に不自由な生活をしている。それでも優しさだけは忘れないように頑張って生きている。そしたら今日は眼鏡を忘れたので全くしごとができなくなってしまった。

xDD(〇〇駆動開発)アンチパターン

 最近、チームで非常に有益な振り返りと向き直りを行えた。やはり定期的にこれまでの道程にあった楽しかったこと、辛かったことを見つめ直すことはより良い未来を考えるうえで必要なことなのだと強く実感する。

 そういった文脈で、そういえばこんなこともあったな程度の温度感で「僕の開発体制失敗談」を振り返っておきたい。自戒として、二度とこれらのアンチパターンにハマらないよう気をつけていきたいのだ。そして何かしらの形でこれを見るあなたの助けになれば幸いだ。

1. 肩書き駆動開発

 中長期的なプロジェクトに参画していると、しばしば「鶴の一声」というゲリライベントに遭遇することがある。そもそも鶴の一声という言葉の由来は、周囲の動物や人を驚かせるほどに鶴の鳴き声が大きいということにあるらしい。つまり、鶴の一声には迫力があるのだ。これは正に一般的に言われる鶴の一声という言葉と合致している。何か力を持つ人がたった一言の迫力で物事をひっくり返し、前進させたり後退させたりする。

 鶴の一声は、プロジェクトが停滞している状況を打破するようなものであればとてもいいものである。現実的な方針を指し示し、皆の視点を揃える目的で叫ばれた声であれば、その声は美声と呼べる。しかし現場では、なかなかそんないい鶴には出会えない。

 さらに問題なのが、鶴が一羽でない場合だ。二羽以上の鶴がいる場合、現場の人間はどの鶴がより大きな声を出すのかを即座に判断しなければならない。つまりどちらの肩書きが強いのか、そしてその鶴は番いなのか否か。場合によっては二羽の鶴の間を取り持つ案を考えなければならないし、最悪のケースでは鶴同士の喧嘩に巻き込まれてしまう。そうなってしまえば我々小さきものは萎縮し何もできなくなるだろう。最近はてな界隈でバズっていた「メテオフォール型開発」もこの状況をよく示している言葉だと思う。

メテオフォール型開発 - 実践ゲーム製作メモ帳2

 エンジニアを美化するつもりも卑下するつもりもないが、エンジニアは他の職種以上に「正しさ」にこだわるきらいがある。今何をするのが最も効率的で本当に必要なものはどんなものなのか。我々はそれを出来るだけ明らかにし、納得したい生き物なのだ。そんな我々にとって、「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」ドリブンで開発を進めざるを得ない状況は非常に大きいストレスとなる。肩書き駆動開発がもたらすものは疲弊と破滅、世界の崩壊だ。

 とはいえ、たかが鶴ごときの迫力に負けてその声に盲目的に従うエンジニア自身にも責任がある。鶴といっても鳩ぽっぽと同族なのであるから、最悪耳栓をするか、自身がより大きな声を出して追い払ってしまえばいい。過去、僕は正に肩書きと迫力に動かされてしまった。丁度先日、前職の先輩とお会いした時も「お前は意外にも真面目すぎる」としみじみ言われ、当時のことを鮮明に思い出させられた。

 僕はもっと、鶴とうまくやるべきだった。鶴が大きな声を出す前に静かな会話をする機会を持つなり、他の餌を与えて溜飲を下ろさせるなり、より強い鶴を連れてきて喧嘩させるなり、味方の方の鶴に守ってもらうなり、幾つか僕にも取れる手段があったのは確かだ。今思えば、あの程度の鶴の一声に驚き騒ぎ回るなど愚かの極みだ。次このようなことがあれば、もっと平和的な解決を目指したい。そして肩書きに踊らされず、僕自身の目と耳でその声の正しさを見極めたい。ときには僕自身が鶴になって戦うことも必要だと、今なら思える。

2. 妄想駆動開発

 「これを開発すれば三億の金が稼げる」と夢のような話からプロジェクトがスタートすることがある。具体的な金額的目標と、その仮説を持つこと自体は非常にいいことだ。しかし、その夢のような話が実現可能なものなのか、はたまた非現実的な妄想にすぎないものなのかは冷静に見極める必要がある。

 妄想駆動開発がもたらすものは「なんで今それやってんの?」という冷たい視線のストレスと「やっぱり次はあれを作ろう!」という無計画な思いつきの連鎖反応、即ち破滅と世界の崩壊だ。

 いくらデータを集めたところで確実に成功するビジネスなどない。市場の変化、大手の参入、既得権益の壁、社会的規制の壁など限りなく想定不可能に近い要因があるのだから仕方ない。しかし、仮説は検証してこそ意味がある。検証とは、事実と仮説の乖離、または仮説の正当性を確かめることを言う。検証しない仮説など、夢とも理想とも呼べない単なる妄想にすぎない。夢や理想、理念に共感して行動することと、妄想に付き合うことは違う。

 我々エンジニアは無駄を最も嫌う人種のはずだ。提示されたデータ、社会の現状、それなりに根拠のあるように見える仮説。例えそれが自分の仮説であろうと、自らの時間を無駄にしたくないのであれば一度全てを疑うべきなのだ。それでも可能性を感じるのであれば、シリコンバレーのようにリーンにMVPを確認しながらマイクロに仮説検証をしていけばよい。

ハーメルン現象

 妄想駆動開発現場によく見られるのがハーメルン現象である。ハーメルンの笛吹き男は、ハーメルンの人々に害獣駆除の仕事を依頼され、安請け合いをしてしまった。笛吹き男パイド・パイパーは結果的に仕事を成功させる。しかしクライアント、つまりハーメルンの人々は笛吹き男に報酬を払うのを渋ってしまう。このことに憤慨した笛吹き男は、笛を吹くことで村の子供、つまり未来を連れ去る復讐を為した。

 この話は昨今のIT業界では本当によくある話になっている。まず入社時点の説明と入社してからの勤務実態、ビジョンと実績が異なる場合。これはまさしくハーメルンの人々がパイド・パイパーを騙したことに当てはまる。するとパイドパイパーは何をするか。他の就職先を探しつつ、今いるメンバーの中で優秀な人材も連れて行こうとするのである。当然だ、優秀な人材は正当な評価を受けられる場所を求めている。パイド・パイパーに正当な報酬を与えなければ、彼らは未来を奪っていく。このことを企業は肝に銘じるべきである。

 この寓話から我々エンジニアが学ぶべきことは、第一にハーメルンの人々が確かに報酬をくれるのか見極めなければならないということである。第二に、自らの中で確信を得て仕事を始めたのであれば、常に裏切られないよう警戒をしなければならないことも挙げられる。そして第三に、それでも裏切られた場合、我々には人材を引き抜き独立するという大層残忍な報復方法を所持していることを忘れてはならない。

 とはいえ、我々はエンジニアは出来る限り笛吹き男パイド・パイパーになってはならない。妄想駆動開発においても、その妄想を妄想でないと自身で断じたのならば、責任は自身にある。全てを人に押し付けて「だからやめろと言ったのに」などとは口が裂けても言うべきでない。自らを棚に上げて人の未来を奪うことはこの世で最も忌むべき罪の一つだ。

3. 自我駆動開発

 エンジニアは、エゴドリブンに仕事をしたがる。新しい技術を試したい、自身のスキルアップを優先したい等のバイアスから、本来ならば簡単な仕事をわざわざ大変な仕事に変えてしまうことがよくある。自身はそれでいいのかもしれない。しかし未来の後輩エンジニアや保守担当は貴様のコードを見て死ぬ。即ちこれもまた世界の破滅をもたらす開発と言える。

 破滅主義でもない以上、案件には適切なアーキテクチャを選定しよう。単純なRESTAPIを作るのにフルスタックなフレームワークは必要ないし、短期的なサービスでクオリティよりもスピードが求められているのであればドキュメントの精度はある程度犠牲にしてよい場合もある。また、近々自身の部署移動やドメイン知識が豊富な人間が抜ける予定があるのであれば、アーキテクチャの選定の前に運用計画を改善する提案をするのが先である。

 言語やツール、FWは日々進化しておりそれに触れていないと他のエンジニアから遅れをとっているような気がする。それは非常にわかる。しかし、その漠然とした不安から負債を未来に残してはならない。極端な例で言えば、自分しか書けない状況でホワイトスペースという言語をドキュメントなしで業務に利用するようなことはあってはならない。

 エンジニアが新技術を取り入れるのは、エゴではなく効率化を目的としなければならない。自身の市場価値を上げたいだとか言語に飽きただとかスキルアップの実感が欲しいとか、それはあなた自身にとっては非常に重要な事柄ではあるが、あなたに給与を支払っている側からすれば時には自分勝手な行為と見られかねない。

 新技術を取り入れるのであれば本当に今それが必要なのかしっかりとタイミングを見るべきだ。そして何より、その有用性を周囲に説明し合意を得ておくことが自身を守る最強の証拠となる。

4. 気合い駆動開発

 エンジニアは正直、基本的にどこかで手を抜いている。それは営業や事務でも同じことであるとは思うが、本気を出せば1日で終わることであっても二、三日の工数を読んでおきたいことが多い。それはセルフマネジメントという観点と、緊急の案件が舞い込んできた際のバッファというリスクヘッジの側面がある。これらは決して悪いことではない。

 一方で、一定数のエンジニアは本当にギリギリの工数読みをする。限界まで頑張ったとしても何か問題が一つでも起これば破綻する計画を立てようとする。これは愚かだ。製品が完成すると想定してスケジュールを立てていた他の仲間に迷惑をかけることになるし、そのせいで結局破談になり世界も崩壊するだろう。

 気合いがあることはいいことだ。しかし気合い駆動で開発をしてはならない。冗談でなく人死が出る。あなたはその責任をとれるのか。取れるわけがない。気合いで全てがうまくいくのであれば計画など最初から必要ない。気合い駆動をするのであれば無計画に突っ走る方がまだ生存確率は高いだろう。

5. お友達駆動開発

 これはある程度しょうがないことではあるのだが、チームで働いているとチームメンバーの馴れ合いというか行き過ぎたお友達化が進行してしまうことがある。この開発は決して悪いことばかりではなく、仲間の為にがんばろうというモチベーションを獲得できたり、円滑なコミュニケーションが取れたりする利点はある。

 しかし、人間関係は距離が近すぎると結局破綻を迎える。そして、世界は崩壊する。私はこのようなお友達駆動開発体制を作り上げてしまったことがあり、チームも自身の心も破綻させた。最終的にオフィスで首をくくる寸前まで追い詰められたのも今ではいい思い出である(そんなわけない)。ビジネスの関係は友達関係とは違う。越えてはならない一線のようなものは用意しておくととても優しい世界になる。一部、それでもその線を越えたいと思える人がいたのなら、それはとても幸運なことだから大切にしていこう。

6. 感情駆動開発

 仕事をしている人は、大抵プライドを持っている。彼らのプライドは彼らの仕事の支柱になっていることも多く、それ自体は素晴らしいことだ。しかし、そのプライドを元に開発を進めてしまうと感情駆動の開発になり君は死ぬ。

 古いやり方、今までうまくいっていたやり方、暗黙の独自ルール、そういったものを全て守り続ける必要などはない。世界や文化は保護するものではなく、改変していくべきものである。そのルール、やり方は本当に今もなお守り続けるべきものなのか。我々は利用者やプライドの保持者と一丸となってこのことを議論すべきだ。この議論を飛ばしてしまうと、感情や慣習に引きずられて不必要な機能を追加してしまったり、せっかく作ったものがユーザーの感情的要因により利用されなくなったりしてしまう。

 人間には感情があってしかるべきである。しかし感情は業務という場において負の作用をもたらしてしまうことがある。我々はどちらの感情も尊重しつつ、最大多数の最大幸福を目指し歩み寄る姿勢を見せるべきなのである。私のおすすめは、製作者と利用者の顔を見せ合う場を設けることである。人は顔の見えない人なら簡単に批判できてしまう。しかし知り合いを批判するのは気が引ける。そういった心理学的なテクニックによって感情の軋轢を最小にとどめる努力をしていこう。

おわりに

 私は現状、上司やチームに非常に感謝している。私事により、今の私は完全にお荷物状態というか不安定な状況に陥っている。誰の役にも立てない、プライベートでもパートナーの足を引っ張ってばかりで、悔しさに鳴咽する日々が続いている。それでも皆が優しくしてくれていて、どうにか私を社会と繋いでいてくれようとしていて。変な言葉のようになってしまうが、なんというか彼らに対し愛がある。そしてそんな彼らの役に立てず、何者にもなれない自分自身に本当に嫌気がさす。

 今度のチームは、いいチームだ。先述したような悲惨な開発体制には決して陥らないよう自戒して終わりたい。