ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

バグって言うな問題は構造の問題なんじゃないか

先日から友人のエンジニア達と、はてな界隈でバズっていた記事について話している。

提案:エンジニアに気軽に「バグ」というのはやめませんか? - worker experienceの日記

バズっていた記事とは上記のもので、簡単に言うと「エンジニアに"バグ"と気軽に言わないでほしい」という提案を投げかける内容だ。

ある友人は上記記事を「エンジニアのエゴだ」と断じ、ある友人は「バグって言われるとウッとなるから共感出来る」と言う。僕はどちらの気持ちもわかる。

たしかに、ユーザーや顧客からすれば正しくないデータを表示したり望んでいない挙動をするプログラムにはバグがあると思って当然である。それが仕様だとしても、そんなことはユーザーにとっては知らないし関係のないことだ。

要求の履き違えであったりビジネス要件認識のズレであったり仕様通りであったり仕様漏れであったり普通にバグであったり、システムがユーザーの思った通りに動かない原因は色々ある。でも、原因なんてことはユーザーには関係のないことなのだ。思った通りのものが得られない。それが何より重要なことなのだ。思った通りのものが得られないシステムに対し、それをバグや不具合と呼んでしまうことに罪はない。ほかに相応しい言葉を知らないのだし、それこそシステム面か仕様に踏み込める人間でないとそれがバグなのかどうかなんて分からないのだ。システムをわからない人に仕様を調べて指摘しろというのはエンジニアのエゴであるし、単に"バグ"という言葉を嫌うのならばそれこそ"ドラゴン"と呼ばせてみればいい。結局ドラゴン=バグなのだから、呼び方を変えたところで根本的な問題は解決などしないと思う。

しかし一方で、バグという言葉がいかにエンジニアを傷つけるかということも僕はよく分かる。痛いほど分かる。

バグを起こしたエンジニアのリアルな感情の流れ - ここはクソみたいなインターネッツですね

バグじゃないものをバグだと呼ばれることで、エンジニアは不要なストレスを感じる。またバグという言葉が横行することで本当に直すべきバグが隠れてしまうという話も納得がいく。どちらの気持ちもわかるエンジニアとしては、この問題の根本的な構造を改めて解きほぐしていきたい。

友人達との結論

面白いのは、何度か違う場所で違うエンジニアとこの話をしたけれど、出てきた結論が同じであったという点だ。

結局「エンジニアとその他」という認識か、あるいはそう認識させてしまう構造の問題じゃない?

僕らはいつもこの結論に至った。

例えばシステムとドメイン領域両方の理解をしたディレクター、あるいはプロダクトオーナーのような人間が居れば、エンジニアに"バグ"という言葉が伝わる前に一度咀嚼してもらえるはずだ。更に言えば、例えそういった役職がなくともビジネスサイドの人間とシステムサイドの人間にしっかりとしたチーム意識があれば、エンジニアではない人間もプロダクトに対してプライドや"自分ごと"意識が生まれているはずである。その場合「バグでないものをバグと呼ばれてムッとする」のはエンジニアだけではないのが自然だ。ビジネスサイドの人間とシステムサイドの人間がしっかりとパートナーシップを結べていないからこそ、此岸と彼岸というようにエンジニアとそれ以外を断ずることが出来てしまう。一つのプロダクトに対し、ビジネスとシステム双方を織り交ぜた強いチームが存在していれば、そもそも「エンジニアにバグと言うのをやめてほしい」というような話は出てこないはずなのだ。ネガティブに言っても「プロダクトのことをよく分かっていないのにバグと言わないでほしい」となるか、普通ならば「このプロダクトにはバグだと思われてしまう問題があるんだな」というポジティブな受け取り方になるはずなのだ。

こうした論理から、僕と友人のエンジニア達は、結局この問題は認識か構造の問題であると結論した。

僕の感想

けれども実際問題、そんなに強いチームが出来ていることなど稀だし、バグだー不具合だーと直接エンジニアに言ってくる人は少なくない。でもやはり僕は、それはその人のリテラシーや気遣いの不足が悪いというわけではなくて、そう思わせてしまうシステムに原因がある場合がほとんどだと思う。そしてシステムのことはシステムの人間にしか分からないこともあるのだから、柔らかく「どんなバグですかー?」とこちらから歩み寄る姿勢こそが必要なんだと思う。

殆どの人はエンジニアを傷付けるつもりでバグという言葉を使っているわけではないのだし、エンジニアがバグという言葉で傷付くかどうかを想像しろなんて酷だ。逆にわからないものをバグと呼んでいるんだという想像は容易なのだから、まずは余裕を持てる方が歩み寄り、最終的には互いの歩み寄りが行える構造を目指すべきだ。

全人類がTeam Geekを読めばいいのに

僕はエンジニア二年目だか三年目だかの時に、先輩に勧められて一度この本を読んだことがある。その後しばらくして僕はリーダーと呼ばれるような立場となり、チーム開発や自分の仕事、世界そのものと自分自身をとても嫌いになるようなひどい経験をした。僕は鬱を理由にそれらのことから逃げ出して、逃げられるだけ逃げようと決めた。社会から、自分自身から遠ざかってしまいたい。当時はただその一心だった。そんな僕は、なんの奇縁か今再び似たような業界で、まさしく嫌悪していたはずのチーム開発をしている。

僕がこの本を改めて今読んだ理由は、チーム開発に対するトラウマを克服するため、また何故僕はあの時失敗し身も心もバラバラに散ってしまったのか、それを知りたかったからだ。そして僕は今それ以上のことを知った。この本が最高の本だということ。そして、死ぬほど苦しんだあの時期にこそ読むべき本だったということ。

当時は、一緒に働く人を信頼し、尊敬し、そして自身は謙虚であるべきだというこの本の願いや、その重要性を真の意味では理解できていなかった。断言する。Team Geekは単なる自己啓発本などではなく、地獄とクソをミックスして焼き上げたようなこの社会から自身を守り、また少しでもその地獄を歩きやすくする方法をまとめたガイドブックのようなものだ。僕はそれを知らずに、足裏を糜爛させながらトボトボと焼けた地面を歩いていた。少しすると当然脚は使い物にならなくなって、四肢を使い果たした頃にはもう手遅れだった。身体も心も社会や人間との摩擦で削られて、僕は僕の半分くらいを失ってしまっていた。

僕は元来、自己啓発本と呼ばれるような本はあまり好きではない。どうしても偉そうに講釈を垂れられている気がしてしまって、反発してしまう。それこそ流行の自己啓発本をいくらか読んで出て来た感想は「わかってるよ、うるせえな」という程度のものだった。それは今でも変わらない。偉そうに自己啓発本を読めと言ってくる人間も大抵嫌いだ。そういう奴らが彼らのいう大切ないくつかの習慣を本当に習慣付けているところを見たことはないし、何かを引き寄せているところも見たことはない。彼らは嫌われる勇気を持つのではなく、もともと自分のことしか考えていないから嫌われてもなんとも思わない。これからの正義の話をするのではなく、自分自身が正義であることを主張する。ああ、悲しい哉。本自体は偉大な本であっても、君はその本ではないし、その本を書いた人間でもない。その本を君から勧められたとして、何故僕が読む気になると思うのか。何故そんなにも無自覚に正しさを押し付けられるのか。というか大体あいつらは、一体いくつの習慣を身につければ気が済むんだ。何か自分が成長しているっぽいエビデンスとして自己啓発本を読んでいることなんて、君が無自覚だとしても、みんなが気付いているよ。それらしいものを消費できれば、もはやなんでもいいのだろう。

話が逸れた。信頼と尊敬の重要性を語るこの本を紹介するにはふさわしくない吐露だった。ごめんなさい。

ではなぜ僕がこのTeam Geekについてだけは自己啓発本ではなく(しつこいようだが地獄とクソとゴミと嘘を捏ねて叩いて整形せず焼き上げたようなこの恨めしい社会の)ガイドブックだと称し、わざわざ日記まで書いているのか。それは偏にこの本が人々に寄り添うものだからだ。上からものを言うでもなく、正しさを押し付けることもない。この本に書いてあることは、著者らの痛み、こうしたらなんとなく上手くいったという経験、痛みを繰り返さないように気をつけていること。基本的にこの三つに終始する。それを主張や説教などという強いスタンスに乗せるのではなく、読者に対する親しみを込めた語りかけという優しさに乗せている。寄り添うというのはこういうことだ。不思議な世界に連れて行ってくれる本や、ドラマティックな日常に巻き込んでくれるような本、正しい道を歩ませようとする本、反骨精神を呼び起こしてくれる本。たくさんの本を読んだけれど、僕はこんなにも友人と話しているような気分にさせてくれる本に出会ったことはない。

この本が多くの人に読まれ、皆が皆生きやすい社会を作る一員となってくれると僕は嬉しい。そして僕も、その社会の中で車輪となるのであれば本望だ。

かなわねえな

かなわない、僕は善い人間には、かなわない。

僕は、世界には善い人間がいることを知っている。そしてその少なさと尊さもまたよく知っている。

善い人間はいつも僕を助けてくれる。悩みごとがあれば一緒になって考えてくれて、放っておいて欲しい時は放っておいてくれる。何かをお願いすれば快く引き受けてくれるし、僕が何かをお願いしたことを喜んでくれたりもする。少し時が経てば、最近どうだと不意の連絡を寄越してくれ、正にそれが欲しいというタイミングに僕の心配をしてくれていたりする。そして、僕に心配をさせてくれることもある。

善い人間は、きっと僕以外の人間も助けている。彼等はいつも誰かの為に考え、行動し、一緒になって喜んでいる。少なくとも僕にはそう見える。本当にかなわないよ。仕事をして生活をして、彼等にも僕と同じような暮らしがある。彼らも僕と同じように悩むことだってあるはずなのだ。しかし彼等は僕と違い、いつだって優しく善い人間でいることが出来る。どうしていつも、凪いでいられるのだろう。なんでそんなに、静謐であれるのだろう。

僕はといえば、根っこの部分からもう善くない人間だ。善悪の二元論で語るならば、当然僕は悪人に近い側にいる。私欲が喉の渇きのように付き纏い、呼吸をする度に厭忌の粘りは増す。これぞ嫌な人間というような行動を取ってしまうこともあり、本当に嫌になるよ。こんなことばかりの時間と、こんなことばかりの自分が。そしてどこか善い人を羨んでしまうこの浅ましさも。

それでも僕は今、仕事や生活、この暮らしにそれなりに向き合った形で日々を費やせている。僕が思うに、その少しの前向きさの源泉になっているのはやはり、今や今までに一緒に居てくれた善い人達の存在であると思う。これからくる過去も、これまで見た未来も、全部が全部彼等のお陰であって、それが心から分かってしまう。本当にかなわないと何度も思い知らされるよ。

僕はやはり、彼等のように穏やかでありたい。病める時も健やかなる時も、そうありたい。ただ生きているだけで苛烈さは寒風の如く吹き荒ぶけれど、もうそれに慣れるのも嫌なんだよ。もう彼や彼女にかなわないと思い知らされるのは、嫌なんだよ。

善い人間って奴は、ほんと参っちゃうよな。

諸君、我々は売り手市場に乗じて労働環境の改善を推し進めるべきなのだ。フォースと共に

今日本は空前絶後の売り手市場らしい。そんなことは知っている、自分には関係ない、という人もちょっと待って欲しい。確かに売り手市場というと、転職や就職をする人にのみ関係のあることのように感じてしまいがちだが、実は既に日々労働に勤しんでいるあなた方や僕にとっても、もしかすると転職や就職をしようという人以上に貴重なチャンスが訪れているのかもしれないのだ。

いつでも転職できるという最強の武器

今の労働環境に少しの不満も無い人間なんていない。もしいるとすれば、ブラックな社訓を魂に刻み込まれ最早人間に戻ることも出来なくなってしまった被害者(ゾンビ)か、成長の意志を捨て人の足を引っ張ることに楽しみを見出した無意識の加害者(ゾンビ)くらいだろう。いやこの話もまた長くなるから今はゾンビの話はしない、これからの人間の話をしよう。

我々はゾンビではなく、誇り高き人間である。誇り高き人間は、より良い環境でより生産性の高い仕事をしたい。より短い時間でより高い価値を創造したい。つまり誇り高き人間は、なるべく働きたくない。なるべく働きたくない人間は、誇り高い。

悲しいかな、誇り高き人間はその利発さ故、安定というものの価値もまたしっかりと理解できてしまう。安定というのは人間にとって劇薬のようなもので、それさえあれば多少不満足な労働環境においてもそれなりの納得感を持って働けるようになってしまう。安定という毒に目が眩み、愚かにも不満足な現状をそれなりの現状と錯覚し、またそれにしがみ付いてしまう同族がいるということだ。あるいは僕も、その一人であるかもしれない。

しかし誇り高き人間達よ、立ち還れ。

我々にとって、今の売り手市場という状況はこの上ない追い風と言える。いつでも転職が出来る、という客観的事実は我々が持ち得る最強の矛だ。最強の矛であり、同時に最強の盾でもある。右手には最強の矛、左手には最強の盾。そうだ、遂に我々は決戦に向かう用意を終えたのだ。この事実がある内に、多少強引にでも労働環境の改善を推し進めるのだ。

営業の同族よ、無根拠なノルマ水準を下げるよう交渉せよ。そして厚顔にもインセンティブの上乗せを要求するのだ。

エンジニアの同族よ、納期を気にせず心の健康が保てる現実的な工数を申告せよ。そして厚顔にもより高い水準の学習補助、福利厚生を求めるのだ。

ディレクターの同族よ、出来ないことは出来ないと明言せよ。自らの業務の専門性を社会に認知させ、インセンティブを獲得するのだ。

我々の下、我々の為、我々の向かう先に確かに正義の風は吹いている。 安定を求める愚かな同族もまた、今回ばかりは安心して行動せよ。アプローチに多少失敗し社内に居づらくなったとしても、次の職には困らない。そして何より、諸君らの行動の結果如何に関わらず、言いたいことが言えるポイズンな土壌、風潮は後に続く勇者にも引き継がれ物語はやがて伝説へと続くのだ。

諸君、売り手市場は決して他人事ではないのだ。我々一人一人の行動で社会はより生きやすい社会へと進化していく。そして今、諸君らには最強の武具が与えられた。行動を起こすならば今が最上、千載一遇の好機なのである。行動せよ、崇高な思いを胸に。集合せよ、我々の未来のために。諸君らの献身に期待する。以上。

追伸、僕は行けたら後から行く。

正当な対価を要求するための責務、またその難しさについて

前回のエントリで不適正な対価で優秀な人材を雇おうとする企業について、長々と批判と愚痴をごちゃ混ぜにして書いた。

社員に「クリエイティビティ」,「イノベーション」を求める企業と支払う対価について - ここはクソみたいなインターネッツですね

この問題に関し、翻って求職者や労働者、つまり雇われる人間の側にはどんな責任があるのかを改めて考えたい。一連のエントリが、単なる一労働者の企業に対する愚痴になってしまっている現状から脱却したいという思いだ。

自身の価値を伝えることの難しさ

結論から言って、雇われる側の人間が正当な対価を要求するためには、自身の価値を雇う側にアピールすることが必要だ。

就職や転職、評価面談の際に自身が積み上げてきた実績、現在の能力とその価値を正確にアピールしなければ、適正な対価など得られるわけがない。しかし、それはとても難しいことだ。上手くそれをこなせている人間は非常に少ない。

その"難しさ"は一体どこからくるものなのだろうか。

事例

僕は以前所属していた企業にて、ある制度を作った経験がある。その制度とは、企業が定めた数十の評価基準について被評価者があらかじめ1〜5の定量的な自己評価をつけておき、評価面談の場で実際の評価と突き合わせ、そのズレについてすり合わせを行うというものだ。正当な対価を要求するために自身の価値を数値化する。これは正に"自身の価値をアピールする責務"を実行させる制度であった。そして、この制度を実施することにしたきっかけは、労働者側に「自分が正当に評価されていない」という不満が散見されたことだった。果たしてその結末はと言えば、この制度は失敗に終わった。一度か二度と実施した後、僕が想定していた不満の軽減や労働意欲の向上といった効果が全く得られていないことが分かったのだ。

なぜこの制度は失敗したのか。なんとその原因は被評価者にあった。評価に不満を持っていたはずの被評価者たちのほとんどは、杜撰な自己評価を行ったのだ。ある人は事実として残したはずの成果を低く申告し、ある人は根拠もなく自身に高評価を付け、ある人はすべての項目を中間の点で埋めた。一方で当然ながら評価者は被評価者の実績データを根拠とし、出来る限り公正な評価を持ってきた。評価者からすれば、被評価者が提出した自己評価は余りにも粗慢であり何の参考にもならない紙切れに過ぎなかった。この制度は、この制度を欲していたはずの被評価者が原因で失敗したのである。これは僕にとって、予想外の事態だった。

なぜ正確な自己評価が出来ないのか

僕の考えでは、この問題には二つの原因がある。

一つ、そもそも人間は自身を正確に認識することが苦手な生き物であること。

二つ、実績のアピールと自身の誇示を混同していること。

人間にはアプリオリな機能として、虚栄心、闘争心、猜疑心、敵対心、嫉妬心、羞恥心など自身を大きく見せたい欲求や、逆に自身を小さく見せたい欲求などが備わっている。極論として、人は物事を主観でしか捉えられない。可能な限り客観に寄せようとしても、やはり主観的客観という不確かな客観性までしかどうしても到達できない。それは自分自身を"観る"ときも同様であり、そして主観というものは基本的に先に挙げたような感情による影響を受ける。例え観る対象が定量的に測れる実績や明確な事実であったとしても、それをどう捉えるか、どう観るかという点には感情の影響がでてしまうのだ。自分自身のことを定量的に評価する場合、思い入れ、つまりは感情の強さが他者へのそれとは圧倒的に違う。感情のバイアスがより強くかかってしまうのは道理であると言える。感情が多様であるように、それがもたらす影響の方向も様々だ。客観的であろうとしすぎれば恐怖や恥ずかしさといった感情のバイアスから自身を過小評価してしまうし、主観のみで捉えようとすると虚栄心や闘争心といった感情が過大評価を呼んでしまう。反対に、他者を観る場合は思い入れに比例して感情のバイアスは弱くなり、比較的客観的らしい判断ができる。要するに、人は自分のことになると冷静さを欠きがちなのだ。

二つ目もそれに連なる話であり、冷静に考えれば、自身の正確な価値を評価者に伝えることは必要なことで、恥ずかしがったり謙遜などをすべきことではないと理解できるはずだ。しかし冷静さを欠いた人間はそれが分からなくなってしまう。積み上げてきた成果を正確に伝えれば良いだけだというのに、どこか「自慢話のようになってしまうのではないか」とか「あの人に比べればまだ自分はダメだ」だとか、不必要な謙遜や卑下をしてしまう。一般的に、自分はまだまだだ、というフレーズは向上心を示すポジティブなニュアンスを感じさせる。たしかに謙遜は美徳であり向上心があることも優れた資質であると言える。しかしこの場合では、それらはなんの役にも立たない。正確な事実を伝えるべき場でのそれらは、観たいものをボヤけさせるフィルター、磨りガラスで作られたレンズの様なものだ。謙遜や卑下、羞恥やセルフハンディキャッピングはこの場では一切必要がない。当然、虚栄も誇張も同様だ。ありのままの事実をありのまま伝えるだけで良いはずなのだ。

この問題をより難しいものにしているもう一つのこと

残念ながら、現実社会においては先述した二つの原因を克服したとしても正当な対価が必ず得られるわけではない。

これまでの話は全て評価基準が定量的に測れるものであり、かつ評価者が職務に忠実公正であった場合の話である。現実には、評価基準がそもそも定まっていない場合や、曖昧かつ定性的かつ不透明な基準が設定されている場合、評価者の主観的な好き嫌いが大いに評価に反映される場合もある。むしろそういった環境の方が割合としては大きいだろう。

つまり、非常に悲しいことではあるが、僕が先程不必要だと切り捨てたはずの謙遜やセルフハンディキャッピング、虚栄や誇張というものが、処世のテクニックとして非常に有効なものになってしまう現実があるのだ。無能な人間が上司や評価者に気に入られているだけで高評価を得たり、実績の伴わない"やる気"や"向上心"を不必要な残業をもってして表現する人間が「あいつは頑張っている」と評判になることなんてザラにあることだ。これはこの社会を構築する一人の人間として悲しいことで、恥ずかしいことだ。

そして更に、僕が最も悲しく最も恥ずべきことは、今のところその状況を打破し得る考えを僕が持ち合わせていないことだ。

主人公っぽい人っているよね

「主人公感」という神秘性

そりゃ誰もが自分の人生を精一杯生きてる訳で、各々の人生において自分が主人公であることは当然だし自然だと思う。けれども、僕は"なんかこいつ主人公っぽいなー"と感じさせる人間が一定数存在するのもまた知っている。一つのコミュニティに一人いるかいないかの特別な存在。学生か社会人か、職種や年次、役職やはたまた顔の良さや性格なんてものも全て関係なく、なんとなく「こいつは主人公で、これからもそうありつづけるんだろうな」と僕に予感させる人がいる。主人公感がある人、僕はそういう人に憧れ、彼らをプロタゴニストやプリンシパルと呼んでいる。

彼らはよく"意識高い系"と揶揄される人とは当然違う。かといって"本当に意識の高い人"というのもまた違う。"主人公感"を出せる人間というのはなんというかもっと自然な雰囲気を持っていて、所詮何かを意識して演じようとしているそれらの人間達とは決定的に違うものを持っている。彼らは主人公役をやっているのではなく主人公そのものなので、決して何かを演じているわけではない。むしろ彼らは演じられる側で、何者かになろうとしている所謂"演者"とは最も遠い位置にいるのだ。それらしい表現は「カリスマ」かもしれない。けれども「勝手に人が集まってくる人望のあるやつ」とかそういうポジティブな要素を持つ人間のみが主人公感を持つかというと、それはそうでもない。

物語に喜劇や悲劇、神話やジュブナイルがあるのと同様に、彼らの持つ「主人公らしさ」のベクトルは人によって本当に様々だ。暗澹たる道に倒れゆく主人公であったり、自信に満ち溢れ正道を歩む主人公であったり、飄々とした雰囲気を纏い全能を思わせる人間だったり、未熟さの中に果てしない将来性を垣間見せる青臭い人間だったり。僕が今まで見た主人公感を持つ人々には、何一つ共通点がないのだ。何一つ共通点がないように思えるのに、彼らは彼らとしてそこに在るだけで、僕に言葉に出来ない感覚、デジャヴ、リフレイン、追憶と焦燥をもたらし給う。そういった意味では、彼らが持つ唯一の共通点は、僕にそういった感情を持たせる神秘性だと言えるかもしれない。彼らのどこに僕が主人公らしさを感じるのか、彼らの何が彼らを主人公足らしめているのか。その神秘性にこそ僕は憧れを抱かずにはいられない。

「大人になる」ということの不可解性

高校のクラスメイト、大学のサークル、前の会社、今働いている会社。今まで僕が所属していた全てのコミュニティや空間に僕が言うプリンシパルたちは存在していた。一つのコミュニティに必ずいる人種というわけでもないだろうから、本当に偶然にそういう人を僕がよく見てきたんだと思う。やはり彼らを近くで見ていた影響か、僕は結構長い間、それなりに強い想いでそういう人になりたいと考えていた。またそうなるべく努力をしていこうとも思っていた。しかし最近その考えは薄れてきていて、やはりあくまで僕は脇役か端役、過大評価して精々アンタゴニスト(敵役)というところだろうと思い始めている。そして例え僕が何かの役割を演じられたとしても、役割が人の形になったかのようにさえ思わせる彼ら「主人公」との間には、絶対的な隔絶がある。そう理解し始めている。

なんとなく、等身大の自分の姿というか限界というか諦めというようなものが見え始めてきているんだと思う。昔は「いつまでも尖った人間でありたい」と考えていたのに、結局そうなれなかったばかりか、「そう成れなくてもそれはそれでいいか」とさえ思い始めている自覚がある。理想と現実のギャップ、という簡単な話ではなくて、理想とするもののそもそもの基準が'スライド'(変化でも退化でも進化でもブレでもなくスライドというのが相応しい)している感覚だ。

友人にそんな話をしたところ「大人になったってことじゃない?」と簡単に片付けられ納得がいくまで議論をさせてもらえず、幾許かの寂しさと悲しさを覚えた。きっと、この不満感というか未達感みたいなものさえ僕がプロタゴニスト足り得ない所以なんだろう。友人が言ったように僕が大人になってきているんだとして、僕は自分自身のことなのにその「大人になる」という変化に不可解を感じている。大人になるということは一体どういうことなのだろう。僕は確かに、自分自身に何かしらの波が立っている、「自分が何かになってきている」という感覚だけは持っている。しかし何になっているのかは分からない。だからこそ不可解なのだ。僕はどうやら、なりたかった「主人公」にではないけれど、また違う何かになりつつあるようだ。果たして本当にこれが大人というものなんだろうか。"これぞ大人"という漠然としたイメージは持てるけれど、自分がそうなっていく自覚や道程というものは極めてあやふやだ。人は僕が大人になってきていると言う。しかし僕自身は僕自身が何になりつつあるのか分からない。果たしてそれが善いものなのか悪いものなのか、喜ぶべきものなのか悲しむべきものなのかもよくわかっていない。

別の友人がこんな話をしてくれた。彼に死が迫った時が二つあった。一つは能動的な死、つまりは自殺願望。二つは受動的な死、事故や病によって生が脅かされること。彼は、死という同じ事象に対してのことなのに、出てきた感情や考えが全く違うものだったと語った。能動か受動か、それもまた神秘性があり不可解な話だ。

主人公らしい人が主人公としてただ在ることの神秘性、僕が無意識に何かになりつつあるということの不可解性。なるのか、あるのか、なろうとするのか、あろうとするのか。それらはとても似ていることのように思える。しかしその能動性と受動性、ほんの少しの角度の違いが、きっと人の持つ世界や物語、人生そのものに大きな違いを生んできているのだと、僕は最近そんなことを考えている。

大人になっていく友人達へ

友人達よ、僕は既に道行く可愛い女の子や素敵な女性を見かけども昔ほど熱量のある何かしらの感情を抱かなくなった。それは己が精神が無明の闇を破しかけている嘉すべき変化なのか、若き情火が消えかけている忌むべき凋落なのかよくわからぬままなのもまた僕に打ち棄てられるような諦念を抱かせる。また近頃ではそもそもその或る女性が小学生なのか中学生なのか高校生なのかはたまた大学生なのかさえ更に頼りなくなったこの双眸を出来るだけ大きく瞠き漸く的外れな推考に至るようだ。

ふと気がつけば僕は所謂アラサーと呼ばれる世代に至り、恐らくは敬愛なる聡明な我が友人らもまたその事実に気付き始めた頃合いかと思うが例えば僕は先程大手町の乗り換えにおいてたった数段ばかりの階段を登りきる頃には息も絶え絶えまるで蟇のやうに胸や腹をふくらませてはへこませてふくらませてはへこませて、あまりにそれが続くためこのままでは産婆でも呼ばれようかと気が気ではない思いをした。若かろうが老いてようが全盛期であろうが安定期であろうが衰退期であろうが悉く平等に過ぎる時の流れを憎し憎しと呪うことに日々を費やせば、それまた幾らか歳をとる。是非もなし。漸う世俗に疎くなることに無惨を覚えるその老いた性質こそが若かりし日への憧憬を招く悲しさに他ならぬ。最早我々が時間に賜る報いは昔語りに小さき花を咲かすことのみか、子供のすくすくと聡く賢しくなる様を草葉の陰から見守りくすくすと笑みをこぼすことのみか。悲しきは僕に子供をつくる鉄の意志のないことよ。