ここはクソみたいなインターネッツですね

逆にクソじゃないインターネッツってどこ

羣青

我が家の文鳥は、人間が見えなくなるといつもよりずっと大きな声で呼ぶ。今まで飼ってきた他の鳥も同じように鳴いていたから、おそらく鳥類全体の習性のような物なのだろう。呼ぶ理由はよくわからない。自分自身が寂しいからなのか、本能から群れの安全確認しているのか。一つ屋根に暮らす我々を一つの群れとして捉えているのだとしたら、本人の性格からして自分こそが群れのリーダーだと認識していることだろう。であればもしかすると、あんなに小さな体でありながら、自分より大きな生き物である人間を危険から守ろうとしてくれているのかもしれない。鳥頭、という言葉があるように、鳥という生き物は特に頭がいい生き物というわけでもない。一部のオウムやヨウムなどは高度な知能を持っているとされるが、我が家の文鳥はすぐに餌を見失うし、自分から抜けた羽に驚いて木から落ちそうになることもある。我が群れのリーダーに対して失礼な発言だが、少なくとも高い知能を持っている様子はない。しかし知能と情緒は違う。頭は悪くとも、彼は確実にいろいろなことを感じているし、感情を持っている。毛の生え変わり時期には明確に機嫌が悪くなるし、安定期には甘噛みによるとても優しいコミュニケーションをとる。彼らの感情の複雑さや周期性は、もはや人間とさほど変わらない。小屋の中での退屈、群れに自分の意思が伝わらない不満、たまにもたらされる珍しい餌の楽しみ。人間で言えば、会社員がたまの休みに上司や部下の愚痴を溢しながらビールを飲むその感情、まさしくそれと同じようなものを、きっと彼らも持っている。ペットを飼うたびに思う。あんなに小さな体にも我々と同じように自我があり、愛があり、怒りがあり、恐怖があり、不安がある。離れようとすれば追いかけてくるくせに、追うと面倒そうに振り返る。攻撃されたと思えば怒り、大きな音が鳴れば驚き、地震で家が揺られれば怖がって巣に戻る。それでも彼らの生き様が少しだけ人間よりシンプルに思えるのは、自身の感情を隠すことなく表現できる彼らと、そうでない我々との違いというだけなのかもしれない。果たしてどちらが情緒的に優れた生き物、生き方なのだろうか。私にはわからない。

人間の群れの一単位である家族は、時間と状況、あるいは生活と呼ばれる位相によって様々な形をとる。株分けされた花が元株とは違う様々な色の花を咲かすことがあるように、群れから離れた人間も、元の群れと何らかの関連を保ちつつまた違う形や性質の群れをつくる。もしくは、群れをつくらない・つくれない個体もいる。私の元いた群れは、今は散り散りに、一部ははるか地平線の向こうまで移動して暮らしている。母体となる群れの個体数は当時の半数以下となってしまったというのだから、もう私が知る頃とは随分違う生活が送られているのだろう。一方で、私は今や文鳥の率いる小さな群れに入ってしまった。きっと元いた群れの彼らにとっても、私の生活はとても想像ができないものになっている。

群れの中で最も聡明で、誰もが憧れる存在だった兄は、社会という巨大な群れに馴染めているのだろうか。その賢さゆえに、辛い思いをしていないだろうか。頼られるばかりで、頼れる人がいない状況に陥っていないだろうか。群れで最も明るく活発で、芸術の天才だった姉は、うまく子供を育てられているだろうか。群れのリーダーという役割、親という役割を一人で担うその重圧に、潰れてしまってはいないだろうか。あまりに人情が厚いがゆえの苦労を、背負いすぎてしまってはいないだろうか。兄と同じく、人ばかり助けて、自分が助けられることを忘れてしまってはいないだろうか。やさしいフクロウである母は、強いオオカミのように振舞うしかなかった父を、やさしく変えられたのだろうか。そしておおかみを信じて、あの絵本とは違う幸せな結末を築いているのだろうか。誰よりも偉大なリーダーであった父は、もはやリーダーとして振舞う必要のなくなった今、ようやく手に入れた自由を楽しめているだろうか。ずっと我慢の人生を送らせてしまっていたから、楽しみ方を忘れてしまってはいないだろうか。あなたは社会や世間という巨大な他の群れから自分の群れを守り、立派に育て切った。この世で最も困難なことを達成した、この世で最も偉大なリーダーだった。これからは好きなことを好きなだけ、親という立場を忘れるほど自由に、何一つ我慢をせず生きていって欲しい。群れはあなたのことを尊敬し続けるが、しかしあなたを縛り付けることはもうしないだろうから。

元の群れに対する帰属意識はとうに薄れつつあるが、それでも自然と彼らが遠い地で良き水場を見つけていることを願っている。我ながら薄情とも取れるこの距離感は、やはり人間が文鳥ほどストレートに感情を表現できないせいで生まれたのかもしれない。それでも、彼らがずっと元気であればよいと思う。

夢の中における自身の精神年齢について納得と感動したこと

専攻していたわけではないが、人格についての哲学的な論を昔調べたことがある。 ロック、シューメイカー、スウィンバーン、パーフィット、ウィリアムズといったそれぞれ著名な哲学者らが、人格の同一性は何によって判断できるか、ということをひたすらにこねくり回していた。あるものは記憶に依拠するとし、あるものは脳ではなく魂に依拠するとし、あるものは身体的同一性に依拠すると主張していた。彼らの主張の詳細は覚えていないが、やはりその中でも記憶に依拠しているという説が有力そうだ、と思った話がしたい。

ここ一週間ほど、たくさんの夢を見た。

一つは、学生時代の友人である男性と私、そして顔の見えない女性二人で旅行をする夢だった。お互いにそれなりに関わりのある顔見知りであるような雰囲気だった。

宿についたあたりから夢が始まる。どこか見たことのあるような構造の旅館に辿り着き、友人が男女ペアで部屋割りをしようと冗談を言う。どうやら友人は私と同行女性の一人をくっつけようと色々と気を回してくれているようだった。しかし私は同行女性らを何故だか少し嫌っていて、やんややんやする友人に対しありがた迷惑だと曖昧な表情を作っていた。とはいえ夢が進むにつれ、内心ではだんだんと満更でもなくなってきていたように思う。場面が転換して、おそらく夜の飲み会のような場になる。酔った勢いなのか煮え切らない私に思うところがあったのか、友人はしつこく私とくっつけようとしていた女性とお互いベロベロになってキスをしていた。夢の中の私はそのシーンを見たとき、とても言葉では表現できない複雑な感情を覚えた。さっきまであんなにけしかけてきていたのに、という驚きと裏切られたような悲しい気持ち、嫌いな女性と仲の良い友人がそんなことになっている落胆や止めたい気持ち、自分のことながら理不尽に思える不可解な怒りと薄い嫉妬、ただ単純な敗北感。なんというかこう、全体的に青臭いごちゃ混ぜな感情が確かにそこにあった。

この夢はそこで終わる。目を覚ましてからもしばらく、胸の奥底にその感情の余韻を感じた。目覚めのコーヒーを飲むとようやく頭も起き始め、同時にその余韻も薄れていった。代わりになんだかこう、懐かしいな、という気持ちが溢れてきた。しばらく会っていない友人や学生時代の雰囲気や散りばめられた記憶というよりも、夢の中の私自身が持ったそういった青臭い感情自体がとても懐かしく思えた。そんなことを思う、そんな風に感じる時もあったなとノスタルジックな気持ちになった。一方で、今そういったことが起きても、全く同じ感情は持てないのだろうとも思った。

夢の中の私は、今の私とは年齢が違った。恐らく高校生か大学生くらいまでの記憶は同じものを持っていたと思うのだが、社会に出てからの辛い気持ちや傷付いたり傷付けたりといった様々な経験、その記憶を彼は持っていなかった。今の私ならそもそも嫌いな女性と旅行には行かないし、件のシーンを見たとしても、合意の上うまくやりなさい、とただただ席を外して一人タバコを吸いにいくくらいだと思う。多少の驚きとおいおいという気持ちはあれど、少なくとも友人に対して裏切られたとかそういった風には感じない。ただ確かに、あのくらいの時期の私であればあんな感情になるだろうな、なっていたんだろうな、と思う。

二つ目の夢は、中学生くらいの記憶をごちゃ混ぜにした夢だった。当時の私は宿題や提出物を面倒がって全く出さなかったため、内申点が非常に悪かった。母親と先生と私の三者面談の帰り、内申点の評価からガックリと肩を落とした母親のせめてもの慰めにとシクラメンの鉢植えをプレゼントした事実ベースの出来事から夢が始まる。母親にそのシクラメンをプレゼントしたところ、私のせいでショックを受けたはずの母親は、それでもとても嬉しそうにその鉢植えを受け取った。うわあきれい、と喜ぶ母親を長く見ているのが照れ臭く、その嬉しそうな顔と先ほどまでの悲しげな表情とのギャップから、ああ僕は本当にこの人を悲しませてしまったのだ、といたたまれれない気持ちが生まれた。逃げるようにして、その時偶然その場を通りすがった友人と遊びに行くと言い残し母親とは別れた。近所に新しくできたコンビニで飲み物を買おう、という友人についていくと、コンビニには三者面談で話した教師がいた。三者面談の雰囲気からなんとなく気まずい思いと、買い食いをしようとしているのがバレたら怒られるのかな、という一抹の不安から身を隠した。ただ、しばらく様子を伺っているうちに、だんだんと自身の感情が変化してきた。あんなにも母親が傷付いていたのはこの教師の言い方に配慮が足りなかったせいなのではないか、そうに違いない、という責任転嫁からくる苛立ちのようなものが芽生えてきて、友人と一緒になって止まっていた教師のであろう自転車を倒す小さなイタズラをした。場面転換が起き、自宅にいた私に学校から電話がきた。私の生徒手帳がそのコンビニの付近に落ちていたので取りに来るように、と言われ、私はイタズラをしたのが私だとバレた、ああ、人生が終わったと絶望じみた気持ちになった。

この夢はここで終わる。目が覚めてから、今度は微笑ましい気持ちを持った。その程度のイタズラがバレたところでどうにもならないだろうし、教師の言い方で母親が傷付いたわけでもないことも明らかで、またなぜ突拍子もなく母親への慰めにシクラメンをプレゼントしようと思ったのだろう、と当時の事実を思い出して少し笑えた。しかし確かに、当時の幼い思考ではそれらが世界の全てで、それが世界の終わりであったりした。またそれも事実だったなと思う。

こうしてここ最近連日見ている夢を一つ一つ振り返っていくうち、夢が作った当時の私の精神の再現度、精度の高さ、言い換えれば異常さにだんだんと気付いた。夢は魂が見せるものだとか実はパラレルワールドの世界を覗き見ているだとか、それはそれで興味深いオカルティックな話は置いておいて、「当時の自分」をこんなにも的確にトレースできるなんて人間の脳の計算能力は本当に凄まじい。ある時期の気持ちや思考方法をわざわざ保存しているとも考えられないので、覚えている限りの経験や思考を繋ぎ合わせることでなんとか当時らしい私を作り上げているのだろう。世界5分前仮説というジョークじみた思考実験では、数十年分の記憶を持った人間がその状態で5分前に作られた、だなんていう無茶苦茶に思える話があるが、この脳の働きをみる限りあながち不可能ではないのかもしれないと感じる。少なくとも夢の中の私は、ほぼほぼ当時の私らしい考え方を忠実にトレースできていた。考えてみれば、覚えている限りでは自分が老人になった夢を見たことがない。よく言われているように、やはり夢は記憶に材料のある範囲でしか作り出せないものなのかもしれない。冒頭にあげた人格の同一性の哲学議論や、人の性格は生まれつきだとか家庭環境によるとかいろいろな話があるが、夢の中の私と今の私の考え方や感情の方向性の違いをみるに、やはり人の性格は経験から作られる部分が大きいのだろう、少なくとも私は様々な経験を積んできたことで私という人間にだんだんとなってきたんだろう、となんとなく納得してしまった。

昔夢にまつわる話を友人としていた際に「夢に出てきた人を好きになることってあるよね」という話題が出た。私も似たような経験がある。ある日ある芸能人が夢に出てきて、それまで全く興味のなかったその人がテレビに映った際、なんとなくもう少し見ていたい、チャンネルを変えたくないような気がした。これが例えば恋人になった夢であったりしたならば尚更その傾向は強くなるのだろう。古くは平安時代において、夢に出て来る相手は自分を想っている、というような解釈があったということだから、それはもう昔から人々は似たような経験をしてきたのだと想像できる。そして、夢の中の自分の精神年齢は少なくとも今よりも若く新鮮な状態であることが多いから、夢の中で感じる恋愛感情やときめきといったものは、現実に今自分が感じられるそれよりもずっと若く新鮮で印象深いものとなる。夢の中でいわば初恋のような気持ちを体験して、その余韻を新鮮さの印象を現実世界にもどっても忘れられないということなのかもしれない。そう考えると、この話は単なるあるある話とはいえ、人格の同一性や記憶と感情の結びつきを考えるに、とても興味深くそしてごく自然なことだと言えるのかもしれない。

「登れる山を登れ」と言った友人の話

 昔、登山を趣味にしている友人に尋ねたことがある。「やはりゆくゆくはエベレストやアンナプルナ、世界最高の山々を登りたいのか?」と。彼はすぐさま否定した。

「命懸けで登る山に登りたくはない。登れる山を登るのがいいのだ。」

 僕は登山をしたこともなく、登山をする意味さえよく分からない人間であるから、その場ではそういうものかと思い「ふーん」という微妙な相槌をうつことしか出来なかった。

 ここのところの季節外れの暑さのせいだろうか。今まさに北国の涼しさを過ごしているであろう彼を、ふと思い出した。

 よく知らないが、登山は計画と準備から始まると聞く。どの山にいつ登るか、当日の天気はどうか、自分の実力にあったコースはどれか、必要な装備は何か。彼によれば、この工程が登山の一番の醍醐味で、四六時中計画を考えているものだから天気が気になって眠れなくなることもしょっちゅうらしい。自らの目で選んだ装備に身を包み、休憩の際に食べる名産品入りの弁当を携え、いよいよ晴れて世界で最も素晴らしいその計画を実行する。その時にはもう緊張と不安、計画を実行に持っていけた満足感からさっさと帰りたい気持ちでいっぱいになってしまうとのこと。下山する頃には、もうクタクタにひん曲がってしまった、素晴らしかったはずの計画ごと全てを投げ棄てて、タクシー乗り場までどう這いずっていくかを真剣に考えたりもするという。それでも次の月にはまた計画を、それも今度は前回の記録を塗り替えて世界で最もゴージャスかつ美しい計画になると信じて企てているのだから、やはり山には僕のしらない魅力や魔力があるのか、それとも彼はどこかおかしいんだろう。

 そんな彼が「登れる山を登る」だなんて言うのだから、今思えばそれはずいぶん哲学めいた言葉に思える。彼は仕事というよりは彼自身の人生にこそ真摯に向き合っている人間で、結局仕事もそこそこのところで嫌気がさしたらしく辞めてしまった。辞めてどうするの、と詳しく話を聞くと嫁を連れて北にある故郷へ帰るんだと嬉しそうに語った。人間関係の難しい部署にいたとはいえあまりにあっさりと辞めていくものだから、東京からの撤退も北の山への再びの入山もまた、彼の勇敢なる計画のうちだったのかとさえ考えてしまう。果たして彼の眼に東京の山の頂は見えたのか、高すぎて彼に登れる山ではないと諦めたのか、それとも東京は彼にとって登るべき場所もないただの平野だと確かめてしまったのか。もしかすると単に東京近辺の山を登り尽くしてしまって、飽きがきてしまっただけなのかもしれないが。

 ともかく、彼の一言はなんとなく僕の心に刺さったままでいる。まるで持ち主のいなくなったピッケルのように、というのはいささかそれらしすぎるが、小さなピッケルが大きな雪崩や崩落を起こすこともあるというから、あながち変な話でもない。なんとなく、いつかそんなふうなことが起こる予感がしている。ろくに計画も立てない癖に、登れもしない山に憧れる。僕なんかは今までずっとそんな感じだ。いや実際、ほとんどの人がそうだと思っている。なにもやらないけれど、なにかやらなきゃって思う。

 僕がやらなきゃやらなきゃ、とただ焦りだけを積もらせていた三十年の間、果たして彼はいくつの素晴らしい計画を立てたのだろう。彼の、世界で最も素晴らしい計画はどんなに素晴らしいものになって、実際登った山はいくつになって、登れる山はどれだけ増えたのだろう。エベレストなんて怖くて登れないよ、すぐに死んじゃうよ、と笑っていた彼は、いつかエベレスト以外の山をすべて登り尽くしてしまうから、きっとそれまでで一番素晴らしいピカピカの計画を携えて、いつものようにエベレストも登りきってしまうんだろう。帰りはタクシーに乗ってしまうかもしれないけれど、またすぐもっと魅力のある前人未踏かなにかの山を探して、ウキウキしながら計画を立て始めるんだろうな。いつか、ついていきたいな。

シャーデンフロイデとサウダージ、または酸っぱい葡萄

Wikipediaを特集した番組を見た。マツコデラックスさんがマニアックなゲストから独特な世界を紹介される例の番組。ゲストはWikipedianと呼ばれるWikiの制作編集者だった。彼らはボランティアで記事を書いているとのことで、学生時代から度々お世話になっている身としては頭が上がらない思いだ。

システムエンジニアとして働き始めてからも利用頻度は落ちていない。むしろ増えている可能性もある。システム関連の言葉の定義や歴史を調べる時に重宝する。またちょっと変わった用途としては、今流行りのAIに文章や単語を学習させる際の辞書や教師として使うこともある。当たり前のことだが、調べ物としてだけではなく単純に読み物として面白い記事も山ほどある。眠れない夜を何度もWikipediaに救ってもらった僕としては、番組を見たからという短絡的なきっかけになってしまうのが心苦しいけれども、とにかく今後とも一層の発展をお祈りしたい。

先日とあるwebサービスのプログラムを書いていた際に、やはりWikipediaにお世話になった。具体的には「感情を表す単語」をいくつか集めなくてはならなくなったのだが、流石のWikipedia。「感情 一覧」と検索をしてすぐ、まさしくぴったりなページを見つけた。

感情の一覧 - Wikipedia

ああ、こんなにも興味深い単語一覧が未だかつてあっただろうか。僕は思わずプログラムを投げ出してそれぞれの記事を読み耽ってしまった。

特に面白いと感じたのは「シャーデンフロイデ」と「サウダージ」だ。30年ほど生きてきた中で当然人並みにたくさんの感情を抱えてきたつもりだったのだが、まさかこの一覧に一度も使ったことのない言葉があるとは思っていなかった。

シャーデンフロイデ」は「ざまあみろ」というようなもので、ネットスラングで言う「メシウマ」的な感情のことだと理解しやすい。

しかしサウダージの方は難しい。難しいからこそ興味深い。なんとなくポルノグラフィティの曲にそんな歌があったような気がするけど、歌詞までは思い出せない。

なんでも、郷愁だとか憧憬だとか、諦念だとか切なさだとかを混ぜ込んだような感情らしい。感情を表す言葉にとても似合った曖昧で微妙な意味合いだ。難しさの一方で、何か共感しやすい雰囲気も感じられる。自転車に乗りながら楽しそうにしている学生達を見た瞬間胸に浮かぶ、特に夏の夕暮れ時に多いあのモヤっとした感情のことなのだろうか。ひとはこの気持ちをサウダージと呼ぶのか。この歳にして自分の感情の名前を新たに知るとは、なにか胸にくるものがある。これは多分サウダージじゃない。もう少し無学に対する後悔とか直接的な切なさが刺さってるってわかる。微妙さのかけらもないくらいハッキリ痛いぜ。

それぞれの感情についてしばらく読んでいると、いつのまにかリンクをたどって「酸っぱい葡萄」という寓話について読んでいた。これもWikipediaの面白いところだ。リンクをたどって無限に読めてしまう。

酸っぱい葡萄を簡単に説明すると、手の届かない高さにある葡萄に「どうせあんな葡萄はまずい」と吐き捨てる愚かな狐の話である。なんとも説教めいた話で、これまた僕の心の真ん中にグサグサと刺さる。届かないものに対する憧れや持つ者に対する嫉妬を認められず、そのものを悪く言うことで自己防衛して安心しようという浅はかさ。情報が氾濫しているネット社会ではやってしまいがちなことだなあ。ぐうの音も出ない。

いやはやまさかこの歳でお伽話から教訓を得ようとは、中々人間完成しないものだ。前向きに考えれば、これからもたくさんのことを知ることができるし、子供めいた話から大切な生き方を学ぶことができる素直さが僕に残っているともいえる。

シャーデンフロイデと酸っぱい葡萄、どちらもやりがちで、短期的な気持ち良さはあっても人生にとってはよくないね。これからは一層何かを悪く言わず、人を傷付けないように気をつけて生きていこう。サウダージという感情も知れたし、まだまだいろいろなことを知る楽しみを失くさずにいこう。

労働と人材3.0

前段

 新卒の方のメンター(トレーナー)として半年間後輩指導をし、またプライベートではボランティア活動としてプログラミング講座を開催してきた経験から、労働と教育、ひいては人材について語りたい。

1.0時代

 昭和の時代、もっともっと体育会系の企業が多かった時代。当時は体罰パワハラモラハラなどよく見られる時代であったことは今更いうまでもないことである。

 しかし当然、この手法の全てが失敗であったわけではない。それは特に高度経済成長期において、努力の量と成果が直結しやすい土壌が存在したからそう言えるのである。そして、この指導方法により育まれた優秀な新人達は、圧倒的成果を残していった。すると、その指導方法の正当性が補強されることになる。優秀な彼らをモデルケースとし、それらの教育方法は企業における文化となり綿々と継承されていった。自分もそのように育てられ、これまでうまくいってきたのだからそのような教育を為す。とても自然な論理であると思う。

 ハラスメントや過労、サービス残業の強制など基本的人権の侵害の擁護する気は塵ほどもないが、しかし当時の社会情勢にある種「イケイケ感」があったことは想像に容易い。辛いけれど、頑張った分だけ見返りがある。そう信じられる社会情勢であったのだ。飴と鞭。馬を打つような非常に痛い鞭を打たれる一方で、ヴェルダースオリジナルのようなとてもおいしい飴が目の前にぶら下げられていたというわけだ。

 充分に甘い飴と現在の常識に即した鞭を用意できるのであれば、この手法は優れた人材育成のプラクティスとなるだろう。しかしこの手法の最も難しい点は、指導者となる人間の属人性が高まりすぎる点である。飴と鞭を使い分けるバランス感覚は一朝一夕に身につくものではなく、能力と経験が不十分な人間を指導者とするにはリスクが高い。実際にこの1.0時代の手法をモデルに人材育成を成そうとするのであれば、それを成し得る人材、指導者足り得る人間を教育ないし用意する必要がある。

労働と人材2.0

 次に生まれたのが労働と人材2.0とでも呼ばれるべきものであると私は考える。少々領域はズレてしまうが、ゆとり教育のようなイメージに近い。

 1.0の旧時代的なやり方への反発、人権侵害、犯罪の表面化からこのようなものが生まれてきたのであると私は考えている。加えていえば、ホワイトカラーが増え、ホワイトカラー・エグゼンプション領域のような「各個人の生産性の違い」という議論が熱を持ったことにも因果関係はある。

 社会の相互監視機能が向上し、国民の平均的知性も向上した。すると前時代的な教育手法をそのまま流用することは出来なくなってきた。労働者は労働者としての権利を認識し、自衛のための主張をすることは決して常識外れの異端的行為ではなくなった。そして企業側で言えば、多くの企業は公器としての責任を強く請求されるようになった。1.0でのやり方でいう飴も質の良いものを用意することが難しくなり、より企業はがんじがらめの状況に陥っていると言えるだろう。

 現在管理職についているであろう40〜50代の方々はまさにこの変遷の渦中におられるのである。その困惑と途方のなさには非常に共感を覚える。サイボウズ社やその他働き方改革、HR改革を建前上でなく本気で成そうとしている各企業はこの問題と真っ向から戦おうとしている尊い存在である。私は内部事情は知らないけれど、すくなくともサイボウズ青野社長の発言を見る限り、働き方に対する本気度を感じ取った。

サイボウズ社長の青野慶久が官僚を一喝した本当の理由 | サイボウズ式

 話は変わるが、私はここまで敢えて働き方の話と人材育成の話を混在させてきた。なぜなら私の結論は、労働とは人と人とのコミュニケーションによる生産、またそれが内包する人類の社会性内面化作用を指すと考えているからである。この労働と人材2.0時代がもう少し成熟すれば、労働やコミュニケーションに即殺されてしまう新卒や人生を終わらせてしまうような方は減っていくように思う。希望的な観測ではあれど、私はそれを信じたい。

労働3.0

 私はフリーランスになれとか副業をしろとかそういったことを言いたいのではない。残念ながら今もまだ1.0の時代から継承され、さらに2.0で複雑化した労働と人材に関する義務と権利のスパイラル構造、それを今一度見つめ直す時代が到来しつつあるのではないか。そのような一石にもならない礫を投じているつもりだ。

 大の大人が涙を流し、嗚咽を漏らしながら毎朝定刻に満員電車に揺られることは本当に必要なことなのか、それはルールとしてあるべきなのか。それで心を壊したら誰が責任をとれるというのか。結局のところ自己責任であるというのなら、私があなたの息子に同じ扱いをしてみせたとして、それでも同じことが言えるだろうか。

 逆に言えば、権利ばかり主張して利益をもたらさない労働者など企業が守ってやる必要などない。会社はなかなか人をクビにできないという。そのルールは本当に必要なのか。毎朝定刻に出社するとがそんなにも重要で、欠かせないルールであると心底思っているのなら、それが守れない社員などクビにしてしまえばいいのではないか。現状では中々それは難しいことであると理解している。しかしそれももう、時代遅れの悪法とさえなっている面もあるのではないだろうか。労働、それにまつわる社会は今、新しい時代を迎えるべきように思う。

人材3.0

 もっとも語りたいことはこの点。

 私はそもそもヒューマンリソース、という言葉をあまり好かない。人が資源であることは一定は認めるし、人材、という言葉も常用する。しかしこれらの言葉からは何か無機質な印象を受ける。

 生命というものの尊さを語るつもりなどないが、しかし数値で表されるには生命があまりに崇高であることに疑念はない。現在私は「人を育てる」という立場の仕事を任されている。けれど、私は「育て」ているつもりなど毛頭ない。共に働き、時間を共有しているという認識にすぎない。人はどこまでいっても個人であり、個人はどこまでいっても他人を理解することはできない。生命の特異性、言い換えれば崇高さと独立性がこの問題を非常に難しくしている。一人の人間が救える人はあまりにも少なく、あなたは誰かの人生の責任を100%負うことはできない。万人は平等であり、差異があるとすればその場その場の役割の違いにすぎない。たとえあなたの子供であれど、その子は決してあなたの作品ではない。彼の人生や心をデザインはできない。私はこのような理念のもとで、私は教える側の役割として教わる側の方々と共生している。その間に上下関係を産むことのないよう常に意識して人々に接している。

 時代の変遷により、今を生きる人々が「飴」と感じるものも変化しつつある。それは現金である場合もあるし、彼ら自身の成長である場合もある。何に対して魅力を感じるか、ひいては何を人生の軸に置く人間なのか、社会の多様性の広がりとともにこれらは無限に拡散しているように感じる。

 であるからこそ、企業は1.0のやり方では有効であったはずの「魅力的な飴」を用意することが非常に難しくなって来ている。そんな彼らの成長を手助けしたいというのであれば、まずは彼らの求める飴の全体像を把握するか、そもそも飴以外で彼らのモチベーションと成長促進を促す方法を模索するしかない。自由と束縛、そのような概念の彼岸となる新たな概念を獲得し、人と人としての向かい合い、擦り合わせ、コミュニケーションを我々は取らなければならない。

俺の前で未来の話をするのはやめろ。繰り返す。俺の前で未来の話をするのはやめろ。

 言いたいことは掲題に尽きるのでここからは余談、と今文字に起こしてみて「そもそも余談じゃないことなんて書いたことあったか」と情けない気持ちになった。よって改めてタイトルコールをすることでアニメの最終回的なお茶の濁し方をして自分を慰めることとする。余談の極致ではあるが僕はお茶ならおーいお茶か烏龍茶が好きで生茶はあまり好かない。

俺の前で未来の話をするのはやめろ。

 僕が以前から常々叫んできた主張の一つに「未来のことなんてわかんないんだから、何かを決めつけることはやめろ。生き急ぐな」というものがある。というものがある、と言ってみたものの、いや知らねえよという諸兄の思いも理解できる。だがちょっと待ってほしい。他の主張には「俺専用橋本環奈が欲しい」だとか「水族館の水槽で飼われたい」だとか間違いなく世間の共感を得られる牧歌的なものもあるのでその尊さに免じて僕の話を聞いてほしい。

 未来の話を嫌うようになったきっかけはなんだったろうか。なんとなく最近似たようなことを書いた気がすると思い昔の記事を漁ってみると、二年ほど前に似たようなことを書いていた。

1年後、3年後、5年後どうなっていたいですか?という質問 - ここはクソみたいなインターネッツですね

 尚、二年の月日が流れた今でも全く同じことを叫んでいる僕の成長の無さやすぐ同じ話をしたくなってしまう陰険さなど僕に不利な事実については今回の話と直接関係ないので放っておいて欲しい。

 最近、「不確実性」というなんだかよく分からない言葉が(特にそれっぽい言葉を好むビジネスマン向けの)オシャレワードとして世に氾濫していることは皆様よくご存知の通りである。その言葉を借りるのならば、僕の主張は「不確実性とは向き合えない。諦めろ。」ということになる。また身もふたもない話になってきたが、不確実性なんて難しい言葉を乱用するやつと、それを最先端なものとして崇める社会が悪い(つまり僕は悪くない)。

 そもそもビジネスマンが好む言葉は難しすぎる。なんなんだよビジョン/ミッション/ゴールって。何を指してるのか毎回毎回ググって「ビジョン・ミッション・ゴールの違い」というようなクソ記事をこれまた毎回熟読しないといけない僕の気持ちにもなって欲しい。というかそんなクソ記事がわざわざ作られるような、説明が必要とされる言葉を使うなよ、と僕は言いたい。もっと直感的な言葉を使ってくれれば少なくとも僕にかかるストレスは減り僕が撒き散らす怨嗟もいずれ幸福の鐘の音となり人類の生産性は保たれやがて宇宙に平和が訪れるであろう。これは、諸兄がこれ以上難しい言葉を使うのであれば僕だってよくわからない話を繰り広げるぞという布告、つまりは無慈悲な報復も辞さないという脅迫である。雲が夕日に照らされて美しく輝くこの季節、貴様らにおいてはこのことを臓腑という臓腑に銘じて欲しい。そっちがその気なら的外れな季節の挨拶を小学校の校長のように延々と貴様の母親へと突きつけることも僕には可能なのだから。いいか、これだけは覚えて帰れ。つまりはお前らが悪い。俺は悪くない。

来年の話をすると鬼が笑い俺が泣く。

 話が大きく逸れたのはいつものこととして、掲題の件に戻ろう。今更ではあるが大切なことなので言っておく。僕には、未来はわからぬ。僕は激怒はしないが、未来のことなど何一つわからぬ男だ。今夜食べたいものさえ決められず、未だこの文章の終着点を見据えることもできていない。だが、これは決して恥じるべきことではないと考えている。人間という生き物は理解、把握、掌握できない物事を恐れるものだ。怖いからこそ、計画や規範というものを打ち立て不確実性や未来を制御しようと試みるのだ。僕から言わせてもらえば、そのような人類の熱意ある挑戦はちゃんちゃらおかしい。いやいや無理無理絶対無理だからマジでやめとけ間違い無いっしょといった感じである。

 無理なことを試し続けるその根気というか執念には多少の感動を覚えないこともない。が、まあそれは元気な人がやってください。お願いだから巻き込まないでください怖いから。というのが僕の(負け犬的)思考だ。例えば20年前、携帯電話がこんなにも小さくなり多機能になると絶対の自信を持って世間を口説けた人がどれだけいるだろうか。フリマアプリで現金がトレーディングカードと称されて売買される時代が来ると、誰が予想出来ただろうか。こんな例えは僕に有利すぎて、どこか卑怯に思えるかもしれない。しかしそれは、過去は未来よりずっと確実に決まっており、未来の予測が非常に困難であるとあなたの脳がどこかで認めてしまっていることの証明に他ならない。

 いつ来るか、そもそも来るかもわからないシンギュラリティに期待したり、この仕事はAIに奪われるとか奪われないとかそんな話で無駄に一喜一憂するのはすぐさまやめろ。怖いなら怖いでいいんだから、明日地球がまだ存在しているかどうかさえわからないような未来、巨大な不確実性と無理に向き合おうとするな。何より、それを人に強いるのをやめてくれ。

 僕は、僕なりに人類であることを自認している。つまり、僕は他の人類と同じようにわからないものに怯えている。そんな僕に未来の話をするなど、凶器をちらつかせることと何が違うというんだ。怖いからやめろ。俺の前で未来の話をするのはやめろ。

 どうでもいいけど前半の方が書いてて気持ちよかった。奇しくもこれもまた予想外のことだったわ。  

xDD(〇〇駆動開発)アンチパターン

 最近、チームで非常に有益な振り返りと向き直りを行えた。やはり定期的にこれまでの道程にあった楽しかったこと、辛かったことを見つめ直すことはより良い未来を考えるうえで必要なことなのだと強く実感する。

 そういった文脈で、そういえばこんなこともあったな程度の温度感で「僕の開発体制失敗談」を振り返っておきたい。自戒として、二度とこれらのアンチパターンにハマらないよう気をつけていきたいのだ。そして何かしらの形でこれを見るあなたの助けになれば幸いだ。

1. 肩書き駆動開発

 中長期的なプロジェクトに参画していると、しばしば「鶴の一声」というゲリライベントに遭遇することがある。そもそも鶴の一声という言葉の由来は、周囲の動物や人を驚かせるほどに鶴の鳴き声が大きいということにあるらしい。つまり、鶴の一声には迫力があるのだ。これは正に一般的に言われる鶴の一声という言葉と合致している。何か力を持つ人がたった一言の迫力で物事をひっくり返し、前進させたり後退させたりする。

 鶴の一声は、プロジェクトが停滞している状況を打破するようなものであればとてもいいものである。現実的な方針を指し示し、皆の視点を揃える目的で叫ばれた声であれば、その声は美声と呼べる。しかし現場では、なかなかそんないい鶴には出会えない。

 さらに問題なのが、鶴が一羽でない場合だ。二羽以上の鶴がいる場合、現場の人間はどの鶴がより大きな声を出すのかを即座に判断しなければならない。つまりどちらの肩書きが強いのか、そしてその鶴は番いなのか否か。場合によっては二羽の鶴の間を取り持つ案を考えなければならないし、最悪のケースでは鶴同士の喧嘩に巻き込まれてしまう。そうなってしまえば我々小さきものは萎縮し何もできなくなるだろう。最近はてな界隈でバズっていた「メテオフォール型開発」もこの状況をよく示している言葉だと思う。

メテオフォール型開発 - 実践ゲーム製作メモ帳2

 エンジニアを美化するつもりも卑下するつもりもないが、エンジニアは他の職種以上に「正しさ」にこだわるきらいがある。今何をするのが最も効率的で本当に必要なものはどんなものなのか。我々はそれを出来るだけ明らかにし、納得したい生き物なのだ。そんな我々にとって、「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」ドリブンで開発を進めざるを得ない状況は非常に大きいストレスとなる。肩書き駆動開発がもたらすものは疲弊と破滅、世界の崩壊だ。

 とはいえ、たかが鶴ごときの迫力に負けてその声に盲目的に従うエンジニア自身にも責任がある。鶴といっても鳩ぽっぽと同族なのであるから、最悪耳栓をするか、自身がより大きな声を出して追い払ってしまえばいい。過去、僕は正に肩書きと迫力に動かされてしまった。丁度先日、前職の先輩とお会いした時も「お前は意外にも真面目すぎる」としみじみ言われ、当時のことを鮮明に思い出させられた。

 僕はもっと、鶴とうまくやるべきだった。鶴が大きな声を出す前に静かな会話をする機会を持つなり、他の餌を与えて溜飲を下ろさせるなり、より強い鶴を連れてきて喧嘩させるなり、味方の方の鶴に守ってもらうなり、幾つか僕にも取れる手段があったのは確かだ。今思えば、あの程度の鶴の一声に驚き騒ぎ回るなど愚かの極みだ。次このようなことがあれば、もっと平和的な解決を目指したい。そして肩書きに踊らされず、僕自身の目と耳でその声の正しさを見極めたい。ときには僕自身が鶴になって戦うことも必要だと、今なら思える。

2. 妄想駆動開発

 「これを開発すれば三億の金が稼げる」と夢のような話からプロジェクトがスタートすることがある。具体的な金額的目標と、その仮説を持つこと自体は非常にいいことだ。しかし、その夢のような話が実現可能なものなのか、はたまた非現実的な妄想にすぎないものなのかは冷静に見極める必要がある。

 妄想駆動開発がもたらすものは「なんで今それやってんの?」という冷たい視線のストレスと「やっぱり次はあれを作ろう!」という無計画な思いつきの連鎖反応、即ち破滅と世界の崩壊だ。

 いくらデータを集めたところで確実に成功するビジネスなどない。市場の変化、大手の参入、既得権益の壁、社会的規制の壁など限りなく想定不可能に近い要因があるのだから仕方ない。しかし、仮説は検証してこそ意味がある。検証とは、事実と仮説の乖離、または仮説の正当性を確かめることを言う。検証しない仮説など、夢とも理想とも呼べない単なる妄想にすぎない。夢や理想、理念に共感して行動することと、妄想に付き合うことは違う。

 我々エンジニアは無駄を最も嫌う人種のはずだ。提示されたデータ、社会の現状、それなりに根拠のあるように見える仮説。例えそれが自分の仮説であろうと、自らの時間を無駄にしたくないのであれば一度全てを疑うべきなのだ。それでも可能性を感じるのであれば、シリコンバレーのようにリーンにMVPを確認しながらマイクロに仮説検証をしていけばよい。

ハーメルン現象

 妄想駆動開発現場によく見られるのがハーメルン現象である。ハーメルンの笛吹き男は、ハーメルンの人々に害獣駆除の仕事を依頼され、安請け合いをしてしまった。笛吹き男パイド・パイパーは結果的に仕事を成功させる。しかしクライアント、つまりハーメルンの人々は笛吹き男に報酬を払うのを渋ってしまう。このことに憤慨した笛吹き男は、笛を吹くことで村の子供、つまり未来を連れ去る復讐を為した。

 この話は昨今のIT業界では本当によくある話になっている。まず入社時点の説明と入社してからの勤務実態、ビジョンと実績が異なる場合。これはまさしくハーメルンの人々がパイド・パイパーを騙したことに当てはまる。するとパイドパイパーは何をするか。他の就職先を探しつつ、今いるメンバーの中で優秀な人材も連れて行こうとするのである。当然だ、優秀な人材は正当な評価を受けられる場所を求めている。パイド・パイパーに正当な報酬を与えなければ、彼らは未来を奪っていく。このことを企業は肝に銘じるべきである。

 この寓話から我々エンジニアが学ぶべきことは、第一にハーメルンの人々が確かに報酬をくれるのか見極めなければならないということである。第二に、自らの中で確信を得て仕事を始めたのであれば、常に裏切られないよう警戒をしなければならないことも挙げられる。そして第三に、それでも裏切られた場合、我々には人材を引き抜き独立するという大層残忍な報復方法を所持していることを忘れてはならない。

 とはいえ、我々はエンジニアは出来る限り笛吹き男パイド・パイパーになってはならない。妄想駆動開発においても、その妄想を妄想でないと自身で断じたのならば、責任は自身にある。全てを人に押し付けて「だからやめろと言ったのに」などとは口が裂けても言うべきでない。自らを棚に上げて人の未来を奪うことはこの世で最も忌むべき罪の一つだ。

3. 自我駆動開発

 エンジニアは、エゴドリブンに仕事をしたがる。新しい技術を試したい、自身のスキルアップを優先したい等のバイアスから、本来ならば簡単な仕事をわざわざ大変な仕事に変えてしまうことがよくある。自身はそれでいいのかもしれない。しかし未来の後輩エンジニアや保守担当は貴様のコードを見て死ぬ。即ちこれもまた世界の破滅をもたらす開発と言える。

 破滅主義でもない以上、案件には適切なアーキテクチャを選定しよう。単純なRESTAPIを作るのにフルスタックなフレームワークは必要ないし、短期的なサービスでクオリティよりもスピードが求められているのであればドキュメントの精度はある程度犠牲にしてよい場合もある。また、近々自身の部署移動やドメイン知識が豊富な人間が抜ける予定があるのであれば、アーキテクチャの選定の前に運用計画を改善する提案をするのが先である。

 言語やツール、FWは日々進化しておりそれに触れていないと他のエンジニアから遅れをとっているような気がする。それは非常にわかる。しかし、その漠然とした不安から負債を未来に残してはならない。極端な例で言えば、自分しか書けない状況でホワイトスペースという言語をドキュメントなしで業務に利用するようなことはあってはならない。

 エンジニアが新技術を取り入れるのは、エゴではなく効率化を目的としなければならない。自身の市場価値を上げたいだとか言語に飽きただとかスキルアップの実感が欲しいとか、それはあなた自身にとっては非常に重要な事柄ではあるが、あなたに給与を支払っている側からすれば時には自分勝手な行為と見られかねない。

 新技術を取り入れるのであれば本当に今それが必要なのかしっかりとタイミングを見るべきだ。そして何より、その有用性を周囲に説明し合意を得ておくことが自身を守る最強の証拠となる。

4. 気合い駆動開発

 エンジニアは正直、基本的にどこかで手を抜いている。それは営業や事務でも同じことであるとは思うが、本気を出せば1日で終わることであっても二、三日の工数を読んでおきたいことが多い。それはセルフマネジメントという観点と、緊急の案件が舞い込んできた際のバッファというリスクヘッジの側面がある。これらは決して悪いことではない。

 一方で、一定数のエンジニアは本当にギリギリの工数読みをする。限界まで頑張ったとしても何か問題が一つでも起これば破綻する計画を立てようとする。これは愚かだ。製品が完成すると想定してスケジュールを立てていた他の仲間に迷惑をかけることになるし、そのせいで結局破談になり世界も崩壊するだろう。

 気合いがあることはいいことだ。しかし気合い駆動で開発をしてはならない。冗談でなく人死が出る。あなたはその責任をとれるのか。取れるわけがない。気合いで全てがうまくいくのであれば計画など最初から必要ない。気合い駆動をするのであれば無計画に突っ走る方がまだ生存確率は高いだろう。

5. お友達駆動開発

 これはある程度しょうがないことではあるのだが、チームで働いているとチームメンバーの馴れ合いというか行き過ぎたお友達化が進行してしまうことがある。この開発は決して悪いことばかりではなく、仲間の為にがんばろうというモチベーションを獲得できたり、円滑なコミュニケーションが取れたりする利点はある。

 しかし、人間関係は距離が近すぎると結局破綻を迎える。そして、世界は崩壊する。私はこのようなお友達駆動開発体制を作り上げてしまったことがあり、チームも自身の心も破綻させた。最終的にオフィスで首をくくる寸前まで追い詰められたのも今ではいい思い出である(そんなわけない)。ビジネスの関係は友達関係とは違う。越えてはならない一線のようなものは用意しておくととても優しい世界になる。一部、それでもその線を越えたいと思える人がいたのなら、それはとても幸運なことだから大切にしていこう。

6. 感情駆動開発

 仕事をしている人は、大抵プライドを持っている。彼らのプライドは彼らの仕事の支柱になっていることも多く、それ自体は素晴らしいことだ。しかし、そのプライドを元に開発を進めてしまうと感情駆動の開発になり君は死ぬ。

 古いやり方、今までうまくいっていたやり方、暗黙の独自ルール、そういったものを全て守り続ける必要などはない。世界や文化は保護するものではなく、改変していくべきものである。そのルール、やり方は本当に今もなお守り続けるべきものなのか。我々は利用者やプライドの保持者と一丸となってこのことを議論すべきだ。この議論を飛ばしてしまうと、感情や慣習に引きずられて不必要な機能を追加してしまったり、せっかく作ったものがユーザーの感情的要因により利用されなくなったりしてしまう。

 人間には感情があってしかるべきである。しかし感情は業務という場において負の作用をもたらしてしまうことがある。我々はどちらの感情も尊重しつつ、最大多数の最大幸福を目指し歩み寄る姿勢を見せるべきなのである。私のおすすめは、製作者と利用者の顔を見せ合う場を設けることである。人は顔の見えない人なら簡単に批判できてしまう。しかし知り合いを批判するのは気が引ける。そういった心理学的なテクニックによって感情の軋轢を最小にとどめる努力をしていこう。

おわりに

 私は現状、上司やチームに非常に感謝している。私事により、今の私は完全にお荷物状態というか不安定な状況に陥っている。誰の役にも立てない、プライベートでもパートナーの足を引っ張ってばかりで、悔しさに鳴咽する日々が続いている。それでも皆が優しくしてくれていて、どうにか私を社会と繋いでいてくれようとしていて。変な言葉のようになってしまうが、なんというか彼らに対し愛がある。そしてそんな彼らの役に立てず、何者にもなれない自分自身に本当に嫌気がさす。

 今度のチームは、いいチームだ。先述したような悲惨な開発体制には決して陥らないよう自戒して終わりたい。